映画は観終えたあとから、もう一つの楽しみが始まる。
                             何故この作品がこれほどまでに私を楽しませてくれたのだろう? 
                             今度は私がホームズとなりポアロとなって謎解きの森に分け入る。












Papageno
by Arttu Kataja
at Berlin











































































































Ginger Rogers & Fred Astaire


Groucho Marx


Chico Marx


Harpo Marx









































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『パパゲーノ』とは、いったい何者?

    残された時間は短い。
    じっくりとモーツァルトを聴こう。その4

                    2022/01/22



 それにしても、パパゲーノとは、いったい何者。
 全身に鳥の毛を生やしているが、それは衣装ではなく、本当に鳥の毛を生やしているようにも思える。
 大きな鳥籠を背負っているが、それは何のため?
 第一幕の開始早々、『おいらは鳥刺し』と歌うが、「鳥刺し」ってどんな職業?

 今日は、この《パパゲーノの謎》を解いてみよう。


タミーノ と パパゲーノ の やり取りを読む。


 いちばん確実で手っ取り早いのは、台本を読み直してみることであろう。パパゲーノは自分自身のことをどう説明しているだろう。
 第一幕の前半、『おいらは鳥刺し』を歌ったあと、パパゲーノは失神から目覚めたタミーノと遭遇する。そしてお互いが、「お前は誰だ、何者だ?」と問答を繰り返す。少し長くなるが、その前半分をそのまま引用しよう。



タミーノ ; (パパゲーノの手をつかみ) おい、君!
パパゲーノ; なんだい?
タミーノ ; 陽気なひとよ、君いったい誰だか言ってごらん。
パパゲーノ; 誰だつて? (独白)馬鹿なことを聞くね! (声高く)お前と同じ人間だよ。じゃ、聞くが、お前は誰だい?
タミーノ ; それなら答えようか。私は王家の生れなのだ。
パパゲーノ; そりゃ、おれの力に及ばないことだね。もっとはっきり説明してくれなけりゃ、おれにゃお前のことがわからないや。
タミーノ ; 私の父はたくさんの国々や人々を支配している王様なのだ。だから私は王子と呼ばれるのだ。
パパゲーノ; たくさんの国々? 人々? 王子だって?
タミーノ ; だから君にきいているんだ ――
パパゲーノ; ゆっくりしてくれよ! こっちにまかせてくれ! まずお前の方が言ってくれよ、この山々のほかにもまだ国があったり、人がいたりするんかね?
タミーノ ; たくさんの国があつて、たくさんの人が住んでいるよ!
パパゲーノ; そんならわしの鳥で相場が張れるぞ。
タミーノ ; もう言ってくれてもいいだろう。このあたりはどこかね?
パパゲーノ; どのあたりかって? (自分のまわりを見回して)谷や山々の間さ。
タミーノ ; それはわかってるさ。でもこのあたりはなんと言われてるんだね? だれが支配しているんだね?
パパゲーノ; そんなことはおれがどうしてこの世の中にやってきたんだと同じぐらい知らないし、答えられないさ。
タミーノ ; (笑いながら)なんだって? 君はどこで生れたかも、また親が誰だかも知らないっていうの?
パパゲーノ; なんにもさ! 知ってることといやあ、年とってたが、たいへん、愉快なじいさんがおれを育てやしなってくれたってことさ。
タミーノ ; それは多分お父さんだったんだね?
パパゲーノ; そんなこと知らないね。
タミーノ ; それならお母さんも知らなかつたんだね?
パパゲーノ; 知らないね。でもいくどか聞いたことはあるさ、おれのおっかさんはむかしこの閉ざされたお城で星に輝やく夜の女王様にお仕えしていたらしいとね。まだ生きてんのか、どうなっちまったか、知らないのさ。ただ,雨や寒さをしのぐおれの藁小屋がこの近くにあるということだけしか知らないんだよ。
タミーノ ; でもどうやって生きているんだね?
パパゲーノ; 食ったり飲んだりしてさ、ほかの人たちと同じようにね。
タミーノ ; どうやって食べものや飲みものを手に入れるんだね?
パパゲーノ; 取り替えっこでさ。星に輝やく女王様とその侍女たちのためにいろんな鳥をつかまえ、そのかわりにおれは毎日女王様から食べ物や飲み物をいただくのさ。
タミーノ ; (独白)星に輝やく女王様だって? 夜を統べる偉大な女王様だったら! (声高に)君、君はもうその夜の女王様に会ったのかね?
パパゲーノ; (それまでしきりに笛を吹いていたが)そんなばかげた質問をするところをみると、お前はよその国で生れたんだね。
タミーノ ; そう不機嫌になるなよ、君! 私はただ ――
パパゲーノ; 会ったことがあるかって? 星に輝やく女王様に会ったことがあるかだって? お前がまだそんな馬鹿げた質問をおれにするんなら、このパパゲーノ様は、お前をうそのように、おれの鳥かごの中に入れてしまうぞ。そして、ほかの鳥といっしょに夜の女王様とその侍女たちに売ってしまうよ。すればお前はおれのために煮たり焼いたりして食べられちゃうんだぞ。

            海老沢敏訳:『名作オペラブックス5 モーツァルト 魔笛』p.65〜



 世の中に多くある『魔笛』の解説では、パパゲーノの人物像を紹介するのに、しばしばこの冒頭部分が引用される。ああ、この部分のことか、と思われるかたも多いだろう。

タミーノ ; 陽気なひとよ、君いったい誰だか言ってごらん。
パパゲーノ; 誰だつて?
      (独白) 馬鹿なことを聞くね!
      (声高く)お前と同じ人間だよ。じゃ、聞くが、お前は誰だい?

タミーノ ; それなら答えようか。私は王家の生れなのだ。

 解説では、パパゲーノは「家柄や職業のことにまったくこだわらない《自然児》である」とか、「世俗にまみれていない《無垢な存在》なのだ」とかいうような説明が付け加えられ、その《天真爛漫さのイメージ》が強調される。
 間違ってはいないと思う。だが、いささかピント外れ、最も肝要な点を射貫いていないのではないか。

 要点は二つある。


コメディとしての『魔笛』


 第一は、このやり取りは、これから始まる歌芝居の主演者と助演者の関係をはっきりと告知するやり取りである、ということ。それも、コメディとしての役割分担を。
 多くの異議・異論が出るのを承知であえて極端な具体例を出すのだが、この二人の関係は、上方落語に登場する「喜六と清八」の関係と同じであるように思える。つまり、

   主演(ツッコミ) タミーノ   清八
   助演(ボケ)   パパゲーノ  喜六

 歌芝居の作者は、ここで観客に、タミーノとパパゲーノの役回りをはっきりと台詞で確認させようとしている。優れた聴衆(つまり、芝居を心から堪能することができる聴衆)は、それに感応し、物語の進展とともに二人がどのような行動をとるのだろうかという「無意識の予見」を行う。人物の振る舞いが、その予見通りだったり、予想以上だったり、まったくの想定外だったりするたびに、感興が積み重ねられて次第に架空の物語のなかに没入してゆく。これがコメディの面白さである。
 コメディ、という言葉が出現したからといって、驚かないでいただきたい。叙事詩的主題を扱ったオペラ・セリアとか、祝典劇とか銘打たれていないかぎり、オペラやミュージカルはたいていはコメディである。付け加えるなら、語り伝えられたおとぎ話も、昨今大流行のファンタジー映画も、たとえそれがシリアスな筋立てのものであっても、必ずどこかにコメディ的要素が含まれている。
 フレッド・アステアが歌って踊る映画はミュージカルに分類されているが、あれらは間違いなくコメディである。シリアスな会話の途中で急に歌い出すなんて変だ、ミュージカルなんか楽しめない、と言う人がいるが、それは映画をコメディとして観ていないからである。マルクス兄弟が好き勝手に振る舞うドタバタ喜劇も、すべて間違いなくミュージカル仕立てになっている。グルーチョがひげダンスを踊り、チコが一本指ピアノを弾き、ハーポがハープをかき鳴らす。そのシーンがなければ観客は納得しないだろう。

 「君は誰?」と問われて、「人間だ、当たり前だろう」、と応じるやり取りを読んで、私は昔よく聴いた漫才を連想した。「君、そこで何してんねん?」「何って …… 立ってんねん」「そやのうて、立って何してるんや?」「何してる、って …… 、立って、立ってんねん!」
 第一に確認すべきは、歌芝居『魔笛』はおとぎ話・ファンタジーであるから、台本はコメディ仕立てになっているということ。タミーノとパパゲーノが出会ってすぐに、このやり取りが始まる。観客は一瞬にして、この劇はかなり可笑しそうだな、笑えるぞ、と期待を持つ。そんな風にこの台本は書かれている。シカネーダーは定石をきちんと踏まえて具現化できる、優れた台本作者なのだ。


《自然児》を具体化する必要


 第二は、《自然児》《無垢な存在》《天真爛漫》などという言語の、曖昧かつ無意味な使い方である。
 これらの語彙の無造作な羅列に接すると、「清楚で流麗なモーツァルトの音楽」とか「心を癒やすモーツアルト」とか「胎教によいモーツァルト」などといった超・常套的語句を連想してしまう。冗談を言っているのではありません。試みに、ヤフオクなどでモーツァルトのCDを検索してご覧なさい。この様な名称を冠したディスクがズラリと出てまいります。でも、確かに、モーツァルトの音楽はそのように聴くことができるし、それはそれで良いのであって、誰かに文句を言われる筋合いのものではありません。 …… これは例えとして適当でなかった。別の例を出しましょう。

 国政にしろ地方自治体にせよ、議員選挙が行われる際、まだ知名度も低く誇示すべき実績が少ない候補者たちが乱用する語彙群がある。「元気」「真心」「熱意」「誠実」「やる気」、等々。実体を伴わず具体性を欠く言葉をいくら並べ立てても、その候補者の人となりを知る手がかりとはなりません。
 パパゲーノに対する《自然児》《無垢な存在》《天真爛漫》という形容にも同じことが言えるのではないか。確かにパパゲーノは《自然児》と呼ぶにふさわしい。だが単に《自然児》と呼ぶだけでは、単なるカテゴリー区分に終わってしまう。パパゲーノは物ではない、人なのだ。ごく当たり前に考えて、このような子供が自然に生まれ、そのまま自然に育ち、今の《自然児》パパゲーノになった、などとはとうてい思えないのである。あの葛飾の寅次郎だって、生まれたまんまの相似形を保って、そのまま大きくなって、テキ屋の寅さんになったわけではない。

 パパゲーノは人である。主体性を持っている。今まで意図的に《自然児》であり続けてきたのだ。今後も持続的に《自然児》たらんとしている。上記の会話からそれを読み取ってみよう。

 タミーノは執拗に、ここは何処なのか? と尋ねる。パパゲーノは、谷や山々の間さ、とはぐらかす。タミーノが知りたがっているのは、この場所の「名」である。より正確に言うなら「何と言う名の王が支配する土地なのか」ということである。だがパパゲーノは、この国には星に輝やく女王様がいる、と答えるだけである。それ以外は知らないよ、と。
 ここでよく注意しておこう、この「谷や山々の間」には名前がない。同様に「星に輝やく女王様」にも名前がないのである。いや、名前はあったはずだ。だがこの歌芝居では、このあと、闇の世界を支配する「夜の女王」として登場し、第二幕になっても、やはり「夜の女王」のままなのである。物語の最後になって再度登場するが、ついに固有名詞の明かされないまま、いともあっさりと地獄に落とされてしまう。一方、光が支配する世界の長は、第一幕の最後にのっそりと登場してくるが、姿を現す前から「ザラストロ! 万歳!」と立派な名前を唱和される。この差は何を意味するのか?

 タミーノはさらに訊ねる。君は何処で生まれたのだ、いったい誰が親なのか? と。パパゲーノは、たいへん愉快なじいさんがおれを育てやしなってくれた、と答える。母親は夜の女王に仕えていたことがあると聞いたことがあるが …… 、と素っ気ない答を返す。
 この問答では、パパゲーノを育ててくれた「年とってたが、たいへん、愉快なじいさん」が、実際に彼の祖父だったのか、タミーノが口を挟んだように父親だったのか、それとも、たんに「歳を取った男の人」だったのか、分からない。母親に対する執着もまったくなくて「まだ生きてんのか、どうなっちまったか、知らない」と言ってのける。以上をまとめてみると、

 タミーノが執拗に問いかけるも、
 パパゲーノの出自は不明である。親の名前も分からない。
 同様に、女王様の名前も分からない。この「谷や山々の間」の地名も分からない。

 では、逆に考えてみよう。
 なぜ、人や土地には名前(固有名詞)が必要なのか?
 人間社会の問題として言いかえれば、「名乗る権利」「命名する権利」は、どの様に発生するのか?
 答えは明白である。
 「所有」と「支配」が成り立つためには、モノと人に「命名」する必要があるからだ。


職能としての『鳥刺し』


 次は、『鳥刺し』という職能について。
 パパゲーノは、自らにまつわるあらゆる「血縁」「地縁」から逃れた人間である。
 つまり「無縁」に生きてきた人間である。
 自分に必要なのは「雨や寒さをしのぐおれの藁小屋」だけだと言う。しかし、すぐその後、自分の「職能」については、ちょっと得意げに自慢を始める。

タミーノ ; どうやって食べものや飲みものを手に入れるんだね?
パパゲーノ; 取り替えっこでさ。
       星に輝やく女王様とその侍女たちのためにいろんな鳥をつかまえ、
       そのかわりにおれは毎日女王様から食べ物や飲み物をいただくのさ。


 テキストをよく読み込んでおこう。パパゲーノは、夜の女王の支配(=所有)する土地で鳥を捕まえ、女王に「献上」しているのではない。名前も分からない「谷や山々の間」で自由に鳥を捕まえ、それを食べ物・飲み物と「交換」しているのだ。

 歌芝居『魔笛』は、第一幕の結末部分でザラストロが登場するところから、夜の女王の支配する世界は「闇=悪」であるとされてしまう。
 だが、それまでのパパゲーノの振る舞いを見る限り、夜の女王の支配する世界こそ、王や領主の支配が及ばない「アジール(聖域)」であったように思える。だからこそ、あらゆる血縁・地縁から逃れた無縁の者として、パパゲーノは生きてこられたのではないのか?

 パパゲーノは「鳥刺し」である。「鳥刺しとは、鳥黐(とりもち)などを使用して鳥類を捕獲する行為、およびそれを生業とする人(Wikipedia)」のこと。その職業としての成立は古く、イソップ童話にも「鳥刺し」が登場する話が多数ある。
 「鳥刺し」は耕作や放牧に使用する土地を持たない。「谷や山々の間」で鳥獣を追い求める。また一カ所に定住することもない。「おれの藁小屋」さえあれば良いのである。
 そのかわり、野山で鳥獣を捕獲するという「職能」を持っている。それは食材として売られる場合もあっただろう。しかしパパゲーノにおいては、鳥を無傷で捕らえ、餌付けをし、街の人々が飼って楽しめるまで育てる。そのようなかなり高度な職能を要する「鳥刺し」であったように思える。
 だが「鳥刺し」を生業(なりわい)として生きてゆくためには、自由に鳥獣の捕獲ができ、獲物を自由に売ったり交換することのできる場所が必要となる。つまり王や領主の支配が及ばない「アジール(聖域)」が。

 夜の女王のもとでは、間違いなくこの「アジール(聖域)」が存続していた。
 その夜の女王を滅ぼして、ザラストロは何をしようとするのだろう。

 パパゲーノの謎がまだ十分に解けてもいないのに、さらに解けそうにない謎に出会ってしまった。もう少し、迷いながら歩いてみる必要があるだろう。


 余談を少し。


 『ピアノ協奏曲ト長調』(K.453)を作曲していたころ、モーツァルトは椋鳥(ムクドリ)を飼っていた。その鳥は、(K.453)第三楽章のテーマを歌うことが出来たという。この旋律はパパゲーノの歌う『おいらは鳥刺し』によく似ている。調性も同じト長調!

 作曲も、血縁・地縁とは無縁の「職能」である。「鳥刺し」と同じ。
 夜の女王は、パパゲーノの持ち込んできた鳥の歌声を楽しんでいたのにちがいない。
 つまり、モーツァルトという人格が、パパゲーノと夜の女王の両方に反映されているのではなかろうか?

 では、(K.453)第三楽章を、昨年のショパンコンクールで2位を獲得された反田恭平さんのピアノで、『おいらは鳥差し』はモーツァルトのバリトンならこの人、ヘルマン・プライの歌でどうぞ。







付けたり その1


 夜の女王の世界には名前がない。
 じゃあ、パパゲーノには、なぜ、パパゲーノという名があるのか?
 荒俣宏によれば、「モーツァルトの《魔笛》の登場人物パパゲーノPapagenoは、オウムを表すドイツ語Papageiに基づくものと思われる」。『世界大百科事典 ― オウム(鸚鵡)の項』(平凡社)
 なるほど、"Papagei"をイタリア語風に、男性名詞化すれば "Papageno" に、女性名詞化すれば "Papagena" になるわけか! だから "Papageno" とは、オウムのようにペチャクチャと無駄口をたたく「オウム兄さん」という位の意味になる。地縁・血縁・所有・支配などの社会的諸関係から最も遠い位置にある名前である。


付けたり その2


 『魔笛』が好きでもう何回も聴いてきた、しかし今日述べられている内容にはまったく気付かなかった、と残念に思われる方もおられるだろう。しかしそれは貴方の読みが浅かったからではないと思う。実は、台詞による会話部分を大幅にカットした上演が多いのである。
 カットの理由は、劇の進行に間延びした感じを与えない演出のためか、LPレコード・CDの収録時間の限界のためか、よく分からない。まだCDが1枚 3,000円程度したころには、丁寧なリブレットがついていた。手持ちのものを読み直してみた(三点)のだが、パパゲーノが「年とってたが、たいへん、愉快なじいさん」と「星に輝やく夜の女王様にお仕えしていたらしい、おれのおっかさん」のことを述べるくだりは、どの録音でも、きれいさっぱり削除されていた。
 今回、『名作オペラブックス5 モーツァルト 魔笛』に掲載されている、海老沢敏さん訳のものを選んだのは、モーツァルト研究の第一人者に対する敬愛の念と、そのバージョンにはカットがなかったからである。もちろんこの本は私の蔵書ではない。図書館の書庫にあったものを借り出してきたものである。返却期限が迫っているので、たいそう慌ててこの文章を書いた。ゆえ、乱筆お許しあれ。


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−−【その4】了−−    

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