映画は観終えたあとから、もう一つの楽しみが始まる。
                             何故この作品がこれほどまでに私を楽しませてくれたのだろう? 
                             今度は私がホームズとなりポアロとなって謎解きの森に分け入る。















ザラストロは黒人奴隷を所有していた!
新しい啓蒙主義の時代を切り開くかのような期待感を抱かせる存在なのに、なぜ?

パパゲーノの謎を解くことが、『魔笛』掌握の第一の鍵であるとするなら、
モノスタトスの謎は、第二の鍵となるだろう。

今回は立ち入る余裕を持たなかったが、改めて、シカネーダーとモーツァルトがモノスタトスをどのように表現しているか、をテーマにしてみたいと思う。

今日は、ネットで拾ったモノスタトスのデザイン画を、数点コピーするにとどめておく。



















































































































































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『魔笛』における 「アジール (聖域) 」 の存続

    残された時間は短い。
    じっくりとモーツァルトを聴こう。その5

                    2022/02/20



 前回は、「パパゲーノとは何者?」という謎について考えてみた。だが、迷い進むうちに新たな謎に遭遇してしまった。私は文章の最後でこう書いている。

 だが「鳥刺し」を生業(なりわい)として生きてゆくためには、自由に鳥獣の捕獲ができ、獲物を自由に売ったり交換することのできる場所が必要となる。つまり王や領主の支配が及ばない「アジール(聖域)」が。
 夜の女王のもとでは、間違いなくこの「アジール(聖域)」が存続していた。
 その夜の女王を滅ぼして、ザラストロは何をしようとするのだろう。
 パパゲーノの謎がまだ十分に解けてもいないのに、さらに解けそうにない謎に出会ってしまった。もう少し、迷いながら歩いてみる必要があるだろう。


 今回はここから始める。この「アジール(聖域)の謎」に向かって行こう。
 今回もなかなか真っ直ぐには進めずに、迷いながら歩いてみることになるだろうが、幾つかの指標はすでに見えている。新しい「アジール(聖域)の謎」に踏み込めば、自ずと「パパゲーノの謎」も解き明かされてくると思える。

 夜の女王が支配する〈国〉には「アジール(聖域)」が存続していた。そう判断したのは、パパゲーノが「鳥刺しを生業として生きてこられたから」である。しかしこれだけが根拠ではない。歌芝居『魔笛』の構成そのものがそう告げているように、私には感じられる。その私の「実感」の解析から入って行こう。


私の実感; 第二幕より、第一幕のほうが、より楽しく聴ける。


 歌芝居『魔笛』は二幕の構成であるが、私は第一幕を好んで聴く。第一幕のほうが聴いていて楽しいのである。有名なアリアは、確かに、第二幕の方に多いのだが …… 、

 夜の女王のアリアは、第一幕の『若者よ恐れるな』より、第二幕の『地獄の復讐が我が心に煮えかえる』の方が〈超〉有名である。

 パミーノの『愛の喜びは露と消え』に聴く哀切の表現は、それまでの作曲家がついぞなしえなかったものであり、はるか先19世紀の浪漫派オペラにおける、よりリアルな情緒表現の規範をも示している。その情緒表現を、浪漫派オペラは聴衆の通俗性に寄り添うことで獲得した。だが、このアリアはそうではない。我々の情緒を高貴さにまで昇華させるのだ。 
 ※ 今回の動画は、すべて "You Tube" にアップされている、ジェイムズ・レヴァイン指揮 メトロポリタン歌劇場 による『魔笛』【全曲・日本語字幕】から引用しました。みんな同じ画面が表示されていますが、再生すると話題にしている場面から再生されます。適当なところで停止させてください。なお、その詳細と「おまけ」が記事の末尾にあります。
 ※ 前回、前々回で、"You Tube" へのリンクをつけた曲については、重複を避けています。ご面倒ですが、前回、前々回をご参照ねがいます。



 パパゲーノの場合はどうか。第一幕『おいらは鳥刺し』も、第二幕『パパゲーノ様が欲しいのは一人の可愛い娘っ子』も、共によく親しまれている。だがその趣きはかなり違う。
 『おいらは鳥刺し』は開幕早々のアリアで、パパゲーノはいたって暢気に鼻歌を口ずさむように歌う。だが、第二幕の方は違う。ドラマが佳境に入り、パミーナ・ザラストロ・タミーノの三重唱が『愛する人よ、もう二度とあなたを見ることはできないのでしょうか』を歌い、主要な登場人物の対立と分裂の緊張関係が極限にまで達する。その直後、突然場面が変わりパパゲーノが登場する。グロッケンシュピールに導かれ、陽気な歌が始まる。第一幕のより、少し派手目な感じ。あたかも、ドラマ進行の陰鬱さを、ただ一人パパゲーノの陽気さが裏から支えているかのようだ。

 そしてフィナーレ。パパゲーノが二つのアリアで歌っていた願望が、Pa-Pa-Pa-Pa-Pa-Pa-Papagena!  Pa-Pa-Pa-Pa-Pa-Pa-Papageno! のデュエットでとうとう実現する! もう、文句なしに明るく弾む音楽なのだが、なぜか聴衆はこの瞬間感涙にむせぶ。まさに、モーツァルト・マジック。 



 こんな風に、第二幕には、見せ場、聴かせどころが満載なのだ。
 だが、何故か、私は第一幕のほうを頻繁に聴くことになる。


第一幕のほうがより楽しく聴けるのは、何故か?


 歌芝居『魔笛』は、第二幕より第一幕のほうがより楽しく聴ける。それは何故か?

 『魔笛』に馴染んでおられる人なら、おそらく気づいておられると思うのだが、夜の女王が支配する〈国〉が舞台となる第一幕では、登場人物の〈欲望〉がストレートに表現され、それがそのまま肯定されている。ところが第二幕になると、一転して劇の進行は〈禁欲〉を維持することが正義となってしまう。これが、第一幕のほうがより楽しく聴けることの、最大の理由ではなかろうか。
 とにかく、〈欲望〉がストレートに表現されるさまを確認してみよう。

 第一幕、第1曲。
 失神しているタミーノを見て、三人の侍女たちは、たちまちタミーノに対する欲望を全開させる。見て、見て、すごいイケメン、写真に撮っておきたいぐらい、彼氏にしたい、本気でお付きあいしたいのはこんな人、と口々に言いあう。
 おとぎ話では、囚われの身になったお姫様を救い出したり、眠り続けるお姫様を目覚めさせるのは、他国からやってきた王子様でなければならない。これはお約束である。『魔笛』もまた、ザラストロに監禁されている王女様(パミーナ)を救い出す役目を負うことになる王子様(タミーノ)が出現する、という場面から始まるわけだ。ならば、三人の侍女たちは、さっそく若き王子の出現を女王様に報告しなければならないはずである。女王様! お喜びください、現れましたよ、王女様を救い出す王子様が、と。
 ところが、三人の侍女さんたちはその役割はそっちのけで、つまり「身分という格差」を無視して、タミーノに対する欲望を燃えあがらせる。他の侍女に先駆けされたくないので、私が見守っているから貴方たちが報告に行きなさいよ、と長々と言い争う。で、結局は妥協して、三人そろって女王に報告しに行くことになる。



 第2曲。
 三人の侍女が退場したあと、パパゲーノは『おいらは鳥刺し』を歌う。このアリア、最初は「鳥刺し」という職能自慢であるが、第二節の後半になると、このうえオイラが欲しいのは、若い娘を捕らえる網だ、と言いだす。どんな娘っこだろうが、とにかくゲットして家に置いとけば、もうオイラのものさ

 第3曲は
 タミーノの『絵姿のアリア』。パミーナのポートレートを見るなり、最速の一目惚れ。なんて可愛いんだ、ああ、気分が昂まってきた、ムラムラするぞ、この娘を見つけたらもう抱きすくめずにはおかれまい。



 モーツァルトの後期オペラでは、何故かテノールに良い役回りが割り振られていない。第一幕の冒頭、タミーノは大蛇に追われて登場してきた。日本の狩衣をまとって弓を持っているのだが、つまり形(なり)はご立派なのだが、靫(うつぼ)には肝心の矢が無い! 大蛇と闘うどころか、助けてくれ、と何度も叫んで失神してしまう為体(ていたらく)。
 ここでチラリと思い起こすのが、最後までドンナ・アンナに「お預け」を喰らうドン・オッタヴィオ。テノールよ又か、と思わせておいて、モーツァルトはタミーノに感情のこもったすてきなアリアを歌わせている。


〈夜の女王〉の下での、欲望・しくじり・お咎め


 第3曲で確認できることは、王女を救い出す者は「賢明で勇敢な」王子で在るべきこと、という「資格」が要求されていない、という事実である。どんなトンマ王子であろうが、ヘタレ王子であろうが、千年に一度レベルの美王女に惚れて良いのだ。

 これは、第1曲で、侍女たちが「身分という格差」を超えて、タミーノを欲望の対象としたことが許容されていることと、きっちりと対応している。

 これはまた、第2曲でパパゲーノが、とにかく彼女が欲しいんだ、と、まだ見ぬ彼女に対して何の条件も付与していないこととも一致する。パパゲーノは、自分が「資格・条件」を備えて、しかるべき後に愛の獲得に向かう、などという面倒な手順を踏んだりはしない。同様にまだ見ぬ彼女に対しても、何の「資格・条件」をも求めない。第二幕で歌われるとおり、パパゲーノ様のほしいのは一人の可愛い娘っこ、ただそれだけ、なのである。ここで言う「可愛い」とは、パパゲーノの嗜好に基づく価値判断であって、娘っこに貼付された「資格・条件」とは無関係である。

 次に注意すべきは、自由に欲望を抱くことと、それを自由に表現することに、夜の女王は何の懲罰も与えていない、という事実である。夜の女王は、何でもお見通しの優れた霊力を持った人として描かれている。三人の侍女が、タミーノの出現をさっさと報告しに来なかったこと、パミーナの伴侶となるべき男に対して「横恋慕」していることなど、とっくにお見通しのはずである。だが、それを三人の侍女が咎められた様子はない。
 確かに、お咎めが皆無であるという訳ではない。第一幕では、パパゲーノが「この大蛇を仕留めたのはこのオレだ」とウソをついたことでお咎めをうける。オウムのように軽々しく喋りまくる口に錠を掛けられる。しかしパパゲーノが沈黙を強いられるのはほんの一時で、タミーノに同行するという条件で、あっさりとそれは解除される。口をついて出たウソに対する、ひとときの沈黙の要求。夜の女王の〈国〉における、お咎めの厳しさとはこの程度のものなのだ。子供の他愛ない「おいた」にたいする、形だけの「おしおき」と同レベルのものである。


〈ザラストロ〉の下での、欲望・しくじり・お咎め


 ひるがえって、「欲望・しくじり・お咎め」は、叡智の国であるはずのザラストロの支配下ではどのように描かれているだろう。

 パミーナを監禁する役目を負っているのは、モノスタトスという奴隷。モール人(ムーア人)という設定になっている。『魔笛』を何度も観てくると、もう当たり前の「既定の事実」として鈍感になっているのだが、改めて確認しておくべきであろう、ザラストロは黒人奴隷を所有していた! のであった。
 ザラストロは、悪しき夜の女王から守るためにその娘パミーナを保護したのだ、と言うが、どのような理由付けをしようが、隣国から王女を略奪してきたという事実に変わりはない。パミーナの意思に反して強奪してきたのだから、逃げ出す恐れがある。だから監禁せねばならない。その監禁するというイヤな役目を、黒人奴隷にやらせている。だがこの黒人奴隷モノスタトスは、この芝居のなかで二度の懲罰をうけることになる。

 第一幕のフィナーレ。モノスタトスは、パパゲーノと共に逃亡を図ったパミーナを捕らえてくる。ごく合理的に考えて、モノスタトスは「職務を全うした」のである。モノスタトスはザラストロに向かって、さあ、きちんと捕まえてきましたよ、ご承知の通り、私はぬかりなく仕事ができるんです、と胸を張ってみせる。ザラストロは、ご立派、金メダルものだ、褒美をつかわす、と応える。だが、このご褒美とは、足の裏への77回の鞭打ち、だったのである!
 『魔笛』を観る者がこの場面をスンナリと受け入れ、とりわけ奇異なものとして感じないのは、その直前、「万歳、ザラストロ!」という唱和のなか、六頭のライオンに引かれた車で登場してきたザラストロに対し、パミーナが次のように言い訳をしているからである。
  ※ネットで公開されている『オペラ対訳プロジェクト』から、訳文を引用した。

  ザラストロ様。たしかに私は、掟を破りました。
  あなたから逃げようとしたのですもの。
  ですが、私の罪ではありません。
  あの邪悪な腹黒い男が交際を迫ったのです。
  ああ! だから私は逃げたのです。




 パミーナを高潔な王女とするなら、この言い訳には少し「狡さ」が混じっている
 確かに、モノスタトスはパミーナに言い寄った。彼女が拒むと、モノスタトスは他の奴隷たちに彼女を鎖で縛らせ、彼以外の奴隷たちを退場させ、しかる後、暴力的にパミーナに迫ろうとした。しかしそこにパパゲーノが登場。お互いが、その見慣れぬ姿に驚き合って、こいつは悪魔に違いない、お助けを! と叫ぶ。モノスタトスはサッサと逃げ出してしまうのだが、パパゲーノの方は、黒い鳥だっているんだから、黒い人間がいたって不思議じゃないさ、と平常心を取り戻す。そして初対面のパミーナに、今に至るまでの経過を説明し、王子様が貴女を助けにくるのだと告げる。

 そのパパゲーノの言葉に励まされて、パミーナは「掟」を破る決断が出来たのだ。その証拠に、サッサと逃げ出せば良いものを、二人でうっとりと『愛を知るほどの殿方には』を歌う。
 まさに、 "All You Need Is Love"  愛こそすべて、愛があれば何でも出来る! 
 その愛の獲得への希望が、パミーナに自信と行動力を与え、パパゲーノと共に逃亡を図るのである。

 確かに、モノスタトスの暴力的な言い寄りが契機になってはいるが、それがそのまま、彼女の「逃亡の動機」になったわけではないのだ。

 にもかかわらず、パミーナは、ザラストロに向かって、逃げようとしてご免なさい、だって、モノスタトスに迫られて、とても怖かったんですもの、と、逃亡動機に虚飾をまぶしてしまう。確かに彼女はウソをついてはいない。だが真実を述べてはいない。

 何故、パミーナはそう言ったのだろう? 理由は簡単、実はザラストロもまた自分に好意を持っていることを、彼女は見抜いていたから、である。自分が吐く言葉が相手にどのような効果をもたらすかを、彼女はよく知っていた。こう言えば、相手はデレッとして自分を許すだろう。そんな台詞を間違いなく選択しているのである。
 これで驚くようでは、貴殿もまだまだ修行が足りぬようじゃな。モーツァルトは『魔笛』の前年、すでに『コジ・ファン・トゥッテ』"Così fan tutte" K.588 (女はみんなこうしたもの)を作曲しておるではないか。と、老哲学者ドン・アルフォンソにからかわれそうである。

 このことはザラストロの台詞からも確認することができる。上に引用したパミーナの言葉に、ザラストロはこう応じている。

  起きなさい。元気出すのじゃ、かわいい子!
  深く立ち入らずとも、そなたの心はよく分かっておるつもりじゃ、
  別の男を愛しているのじゃな。
  愛を強いるつもりは毛頭ないが、さりとて自由の身にするわけにもいかぬ。




 起きなさい ……  と言う歌い出しは、慈悲と威厳にあふれたものだが、

 別の男を愛しているのじゃな の一節になると、流れは一瞬停滞し、ザラストロはこらえきれずに悲しみを露呈してしまう、オーケストラの短調和音がそれを裏打ちする、そして彼は、いったん絶句したあと、「別の男を」という言葉を繰り返すのである。

 愛を強いるつもりは毛頭ないが ……  で、いつもの自分に返ろうとザラストロは必死の努力をする。台詞は繰り返されるが、二度目の「さりとて自由の身にするわけにもいかぬ」で、バスの音程は最低音まで下降する。精一杯のドスを効かせて、一瞬揺らいだ宗主の威厳を取り戻そうとするかのように。

 『魔笛は』ドイツ語で歌われるから、解説本とか対訳でおよその意味を把握しながら聴くしかやりようが無いのであるが、こんな風に、一節ごとに意味を確かめてみると、作曲家の超絶的技巧に舌を巻かざるをえない。そして、それを可能にさせた台本作家の技量にも。

 もう、はっきりとお分かりになったと思う。
 ザラストロは最初からパミーナに惚れていたのだ。しかし禁欲主義的な新教団の宗主である立場上、愛を表現することができない。なぜなら、それは自分の存在意義を否定する行為になるから。また配下の僧侶たちにも禁欲主義を強いている。
 宗主である私が我慢していること、同様に多くの僧侶たちも我慢していること。それを、奴隷の身分であるモノスタトスが、あっさりと実行してしまった。ザラストロはそれが腹立たしいのである。だから、モノスタトスは職務に忠実であったはずなのに、鞭打ちの刑を喰らうのだ。


 見出しに、欲望・しくじり・お咎め、と三つの言葉を並べてみたが、そのすべてにおいて、夜の女王の国と、ザラストロの支配の下では、こんな風に様相が違っている。
 権力の最高位にあるもの人格と思想が、その社会の文化的・道徳的規範を形成するのである。


 夜の女王のもとでは、間違いなく「アジール(聖域)」が存続していた。
 ザラストロの支配によって、いままで存続していた「アジール(聖域)」は消滅したように見える。

 
 では、
 ザラストロの教団の目指すのは、いったいどのような社会なのか?




  ◆ 引用した動画の詳細 ◆ 

  1991年11月 メトロポリタン歌劇場 (ライヴ)
  指揮:    ジェイムズ・レヴァイン
         メトロポリタン歌劇場管弦楽団
  演出:    グース・モスタート
  パミーナ:  キャスリーン・バトル
  夜の女王:  ルチアーナ・セッラ
  タミーノ:  フランシスコ・アライサ
  パパゲーノ: マンフレート・ヘム
  ザラストロ: クルト・モル
  弁者:    アンドレアス・シュミット
         メトロポリタン歌劇場合唱団


 歌手のうち、パミーナ役のキャスリーン・バトル と タミーノ役のフランシスコ・アライサ の歌声は、すでに多くの方が聴いておられるはずです。特に、お酒を召し上がる方には。





 

 
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--【その5】了--    

残された時間は短い。じっくりとモーツァルトを聴こう。Topへ