映画は観終えたあとから、もう一つの楽しみが始まる。
                             何故この作品がこれほどまでに私を楽しませてくれたのだろう? 
                             今度は私がホームズとなりポアロとなって謎解きの森に分け入る。





















ワルター製ピアノフォルテ













































































































































































































































































































































































ヨス・フォン・インマゼール


インマゼール
『ウィーン時代のモーツァルト』


インマゼール
ベートーヴェン交響曲全集




ロンドンでのモーツァルト一家
左から
 父 レオポルト
 ヴォルフガング
 姉 ナンネルル
ヴォルフガングが弾いているのは
チェンバロ













ヴィム・ウィンタース


モーツァルトの使っていた
クラヴィコード




























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《トルコ行進曲》が好きになるための努力

    残された時間は短い。
    じっくりとモーツァルトを聴こう。その13

                    2023/02/05



《トルコ行進曲》が好きになるための努力をしてみる


 前回、「記号としてのモーツァルト」という考えかたについて述べました。子難しい概念ではありません。テレビや映画から流れてくる『トルコ行進曲』や『小夜曲』を聴いて、
  知ってるぅ、知ってるぅ、これ、モーツァルト! 
と叫ぶ。これが「記号としてのモーツァルト」です。

 からかっているのではありません。これ、決して悪いことではない。それどころか実はとても大事なこと。
  和歌山? → みかん!  静岡? → お茶!  奈良? → 大仏!  網走? → 番外地!
 こんな一問一答式連鎖反応が、言語と知識獲得のスタートです。これが無けりゃ、九九も覚えられないし、百人一首の歌留多遊びもできない。この「常識的反応」が共有されているからこそ、そこから微妙にズレて見せることで漫才やコメディが成立する。

 たいていの場合、この〈問い → 答え〉の連鎖はすぐに完結・収束してしまい、意識は別の言葉連鎖へと浮遊してゆく。だから、たびたびモーツァルトを聴く機会があっても、それは永遠に「記号としてのモーツァルト」に留まってしまう。
 しかし、何人かに一人は、ここで踏みとどまって、じゃあ、『トルコ行進曲』とか『小夜曲』とかはどんな曲なんだろう、じっくりと聴いてみたいものだ、と考えます。
 これらは、いったい何が面白いのか? どう言う曲として聴けばよいのか?
 でも、何度聴きかえしても、沸き立つような高揚感や、目眩く陶酔感は訪れてこない。この私だってそうだった、恥ずかしさをこらえて白状するなら、少年の私は、『軍艦マーチ』を聴いてかなりの高揚感を、『伊勢崎町ブルース』を聴いて相当の陶酔感を得ました。だが、『トルコ行進曲』や『小夜曲』の場合はそんな風にはならなかった。『トルコ行進曲』からはある種の諧謔性のようなもの、『小夜曲』からは均整のとれた統一性のようなものが感じられましたが、それ以上のものにはならなかった。
 中学生のころ、ある友人が私に尋ねました、おい S (私の苗字)、バッハとかモーツァルトとか、あれ、いったい何がエエんや? 偉い人が、名曲や、名曲や、と言うから、はぃ、名曲です、と答えているだけと違うんか? 彼の場合も同様だったわけです。

 だから、多くの人は、モーツァルトって、まぁ、こんなもんか、とあきらめて、それ以上の深入りを止めてしまう。ちょうど、映画の導入部で引き込まれることがなく、しばらく辛抱していてもお話に溶けこむことができず、なんの変哲もない場面がつづくので、おなかが減ったことに気付いて、そのまま映画館を出てしまうように。そのあと突然画面が総天然色になって、観客の眼がスクリーンに釘付けになっていたかも知れないのに。パートカラー、ってやつ。覚えてます?

 でも、何十人に一人かは、あきらめきれずに執念ぶかく深耕に向かうでしょう。さて、どの様な手立てがある?
 まず常識的な道筋として、専門家がどのような道案内をしてくれるのかを、訊ねてみようとするだろう。この私もそうだった。でも、このこの二曲に関するかぎり、西洋古典音楽専門家の口調はたいそう歯切れが悪かった。それは私をどこへも導いてくれなかった。私は荒野の中に放り出されて途方に暮れ、自らの感性の鈍さを呪い、これは夢に相違ない、夢だ、悪夢だ、悪夢なら醒めよ、と自らを叱咤激励して、探究心を捨て、平凡な日常に戻るのが常だった。

 それがどの様なものだったか? とりあえず『トルコ行進曲』を例にして、専門家たちの道案内の中身を具体的に確認してみる。
 そこで分かったのは、同じように歯切れが悪くとも、専門家の解説には玉もあれば石もある、と言うこと。玉を見分けるのは、こちらの積極的な探究心が必要だ、と言うこと。今回は、そのプロセルを再現しておこう。
 次回は、その結果として得た、私なりの『トルコ行進曲』の聴き方を述べてみたい。あくまで私の想像の産物である。絶対に私が正しい、などど、傲慢なことを言うつもりはない。だが、多少なりともファンタジーとしての面白さを含んでいると自負する。
 つまり、余はいかにしてトルコ行進曲の聴き手となりしか?
 これが今回と次回の内容です。


『K.331』の典型的な解説を読む


 周知のように、『トルコ行進曲』は『ピアノソナタ イ長調 K.331』(11番)の第三楽章である。いくら有名だからといって、第三楽章だけを聴いて済ますのでは、名画の一部分だけを観るのと同じである。では、『K.331』は全体としてどの様に解説されているか。専門家筋の道案内を見てみよう。まずは、 "Wikipedia" の解説から。

この曲の最も著しい特徴として、一般の4楽章構成によるソナタ(急-緩-舞-急)の最初の楽章に相当する楽章を欠いている(緩-舞-急しかない)ことが挙げられる。ソナタ形式による楽章を含まない「ソナタ」は、もはや古典派ソナタの定義からはずれているが、時代が下るにつれてソナタ形式の欠如は珍しいことではなくなっていく。

 サラッと読み通せば、間違ったことは何も書かれていないように思える。だが解説としては、まったくもって物足りない。そうだったのか、よし解ったぞ! と、等々力警部のように膝を打って勢いづき、もう一度『K.331』に向かう人はいないだろう。
 「ソナタ形式からの逸脱」という音楽史的な流れで曲の解説がなされているが、こんな風に解説も出来ます、という程度の真実味があるにすぎない。読み手の火急の関心事、つまり曲の面白さそのものに向かう絵解きにはなっていない。古典派ソナタの定義からはずれている、って? で、それがどうしたって言うんだ。
 いま少し批判的に言うならば、ここで用いられているソナタ形式という概念は極めて大ざっぱであり一面的である。その曖昧なソナタ形式という概念を、そのまま物神化させてキーワードとして使っている。だから論理に求心性がない。
 あたかも、先に「古典派ソナタという規範が成立したという歴史的実態」があって、その後に、モーツァルトが意図的にそこからの離脱を図っている、という二段論法なのだが、作曲の実際はそのようなものではないだろう。

 「古典派ソナタ」の完成者としてのハイドンがいて、モーツァルトはその後継者だから「古典派ソナタの定義からはずれる」ことが可能だった、という論理構成になっているのだが、歴史的概念を、そんな風に捉えるのは正当か?
 例えば「縄文時代」は、草創期 → 早期 → 前期 → 中期 → 後期 → 晩期、という風に時代区分される、と言われている。しかし、ある時代が終了してから次の時代が続くという風に、各時代が断続的につながっているのではない。歴史的ムーヴメントは、モールス信号のシグナルのように、あるいは串団子のように、その一つ一つが個々に分断されていて、順序よく、一つが終了した後に次が出現するようなものではない。ある時代の要素はそのまま次の時代にも引きつがれていて当然であるし、逆に先行するものだってある。地域によるタイム・ラグもある。柳田國男の『蝸牛考』を引き合いに出すまでもなく、中央で消滅したものが周辺では綿々と受け継がれ、あたかもその地域における固有のものであるかのように見えることもある。

 ハイドンとモーツァルトの、生年・没年・作曲年代を確かめてみれば、さらにはっきりとする。

   ハイドン   :生年・没年(1732年〜1809年) 作曲年代(1750年1803年)
   モーツァルト :生年・没年(1756年〜1791年) 作曲年代(1761年1791年)

 ご覧の通りである。確かにハイドンはモーツァルトより24歳年上であるが、作曲の開始は、モーツァルトが極めて早熟だったため、約10年しか差が無い。モーツァルトが亡くなった翌年に、ハイドンは60歳になっているが、その後も創作意欲は衰えること無くさらに円熟した作品を創り続けた。よく知られているように、二人には持続的な交流があり、お互いが影響し合って、己の作品を豊富化したのである。管弦楽におけるソナタの古典的完成形態とされる交響曲群『ザロモン・セット』全12曲は、モーツァルトの死後に創られたものだ。

  "Wikipedia" の解説は、「ハイドンはモーツァルトの先輩」というぼんやりとした言語的イメージだけで、『K.331』を解説していることになる。説得力がなくて当たり前なのだ。
 この解説はまた、「一般の4楽章構成によるソナタ」をソナタ形式の初期設定のように言う。これも誤りである。交響曲と違って、独奏楽器によるソナタや協奏曲は、「3楽章構成」が一般的である。いや、ハイドンのピアノ・ソナタなどには、2楽章構成のものだってたくさんあるじゃないか。


もう少し踏み込んだ『K.331』の解析を読む


 もう少し踏み込んだ『K.331』の解析をみてみよう。モーツァルト研究の大家、海老沢敏さんのものである。

そうすると、パリで作曲されたならばシュタインの楽器を使って書いたことになりますが、ウィーン時代だとするとワルターの楽器を想定して書かれたといっていい。そういわれてみれば確かにあれはウィーンの響きなんですね。特に K.331 などは、ソナタ形式の楽章が全く含まれていないソナタで、第1楽章が変奏曲、第2楽章がテンポ・ディ・メヌエット、第3楽章がロンドでしょ。これはソナタの慣例的なありきたりの定型を壊して、ウィーンの聴衆を愉しませるような工夫をしているというように、作品の意味も明らかになってくるし、様式が逆に外的条件から規定される。そのことで作品像に変更がもたらされる。

 お断りしておかねばならないのは、この文章はあるサイトで『K.331』の解説に引用されているものからの「孫引き」である、ということ。不勉強で申し訳ないのだが、当方に原文にあたるほどの余裕がないのだ。おそらく海老沢さんの原文には、最近の研究成果に基づき、従来はパリで作曲されたものとされていた「K.300番代」のピアノ・ソナタ群が、実はザルツブルグに帰還し、さらにウィーンに移住した頃に作曲されたものであること、〈シュタイン〉〈ワルター〉(ドイツ語の発音を尊重して、ヴァルターと言われる場合が多い)という改良型クラビーアに出会って、その素晴らしさがモーツァルトの創作意欲を大いに高めたこと、という大筋の流れが書かれているはずである。研究家・好事家でこの新説に反対する人はいないように思われる。ど素人の私にも、すんなりと納得のゆくものである。
 この大筋の流れの中から『K.331』に関する部分だけを切り取って引用するのは、はなはだ乱暴なことのだが、いまは『トルコ行進曲の謎を解く』という目的がある。不作法はお許しいただきたい。

 海老沢さんは、『K.331』の楽章構成を、「4楽章構成のソナタからの、冒頭楽章の欠落」ではなく、3楽章形式を当然の前提として、「ソナタ形式の楽章が全く含まれていないソナタ」である、と説明する。「第1楽章がソナタではなく変奏曲であること」が「定型の破壊」である、とされている。論じ方は異なるが、ソナタの基本形態からの派生形という基本ロジックは "Wikipedia" と同じなのだ。
 さらに海老沢さんは、モーツァルトが定型を破壊するのは、「ウィーンの聴衆を愉しませるような工夫」だとして、彼の積極的な顧客志向性(当世風にいうならば、マーケティング戦略論)を持ち出してくる。その状況証拠として示されるのが、パリ風の音色を奏でるシュタイン製のピアノ・フォルテから、ウィーン風音色のワルター製ピアノ・フォルテへの移行なのだと。
 うーん、そうなんだろうか?

 「そういわれてみれば確かにあれはウィーンの響きなんですね」などと、「言われてみれば分かる程度の」捕らえどころのない「響き」などが、論理の根拠になり得るのだろうか?
 もし、我々素人(しろうと)が、シュタイン製とワルター製のピアノ・フォルテの音色が聞き分けられないとするなら、『K.331』が狙ったものは理解できないのだろうか?


モーツァルトの弾いていたピアノの音色は?


 1980年代から盛んになった、古楽器によるバロック音楽の演奏は素晴らしいものであった。これはただ単に古楽器演奏の復活というに止まらず、19世紀的浪漫主義が退けていた《音楽精神の再創生》であった。過度に文学性に傾斜した総合芸術としての音楽から、純音楽に立ち戻る精神、と言い換えても良い。オーセンティックな(authentic:歴史的に正統的な)演奏指向は、前の時代へさかのぼりルネッサンスへ、後の時代へはウィーン古典派からロマン派へと、たちまちそのレパートリーを広げる。
 私などはその演奏を聴いて、初めてバロック音楽が腑に落ちた。バッハとモーツァルトにおいても同様だった。名演だ、名演だ、と言われているが、カール・リヒターの『マタイ』や、フルトヴェングラーの『ト短調』などには、どうしても馴染めなかったのである。(古楽器一般演奏に関しては、簡単に書き切れるものではないので、ここではこれ以上立ち入らない。)

 CDの普及と、最近の "You Tube" などのSMSの一般化によって、今ではだれでも、シュタインやワルターの音色を(その多くはレプリカではあるが)容易に聴くことができる。海老沢さんの論理も、古楽器演奏の普及と、このようなメディア・インフラの一般化を前提としてのものだろう。
 ならば、海老沢さんの話を、ワルターのウィーン風の音色が聴きわけできなければ『K.331』が理解できないと言うのか、と言う風に、論理一辺倒で退けるのは間違いだろう。バロック音楽におけるオリジナル楽器の使用は、今では一般化している。モーツァルトについても同様ではなかろうか。
 《音楽》とは、まことにことの本質を言い当てた訳語である。「音を楽しむ」のが音楽なのだ。音色そのものから離れた音楽理論など、あり得ない。まず、実際のシュタイン製やワルター製のピアノ・フォルテの音色に馴染むことからやってみよう。海老沢さんの論理には、今のところ、なるほどと納得がいかなくとも、示唆しているものは多いような気がする。嗅ぎ分けるのは、こちらの努力だ。


シュタインのピアノフォルテ


 新たに創作されたピアノフォルテの音色に、モーツァルトはどう反応したのか。彼自身の言葉で確かめておこう。

さて、早速シュタインのピアノ・フォルテから始めなくてはなりません。シュタインの仕事をまだ若干でも見ていないうちは、シュペートのクラヴィーアがぼくの一番のお気に入りでした。でも今ではシュタインのが優れているのを認めなくてはなりません。レーゲンスブルクのよりも、ダンパーがずっとよくきくからです。強く叩けば、たとえ指を残しておこうと上げようと、ぼくが鳴らした瞬間にその音は消えます。思いのままに鍵に触れても、音は常に一様です。カタカタ鳴ったり、強くなったり弱くなったりすることなく、まったく音が出ないなどということもありません。要するに、すべてが均一の音でできています。そのピアノは、一台三〇〇フローリン以下で売ってくれないのはたしかですが、彼がつぎこんだ苦労と努力はお金で報いられるものではありません。彼の楽器が特にほかのと変わっているのは、エスケープメントがつけられていることです。それについて気を使っているのは、百のメーカーにひとつもありません。しかし、エスケープメントがなければ、ピアノ・フォルテがカタカタ音をたてたり、残響がのこったりしないようにすることはまったく不可能です。彼のハンマーだと、鍵を叩くとき、たとえそのまま指を残しておこうと放そうと、鍵が弦に触れて飛び上がったその瞬間に、また落ちます。 (1777年10月17日、父あての書簡)

 1777年秋、21歳のモーツァルトは、母親に付き添われてマンハイムからパリへ向かう。いわば就活の旅であった。その途中、父の故郷であるアウグスブルクに立ち寄る。その時ウォルフガングはシュタイン製のピアノフォルテに出会った。これはその時の父あて書簡である。彼の興奮ぶりが生々しく伝わってくる。彼が鍵盤楽器に何を求めていたのかがよく解る。特に「強く叩けば、たとえ指を残しておこうと上げようと、ぼくが鳴らした瞬間にその音は消えます」という一節は、彼の美意識の本質を述べているように思える。この点については改めてとりあげる必要があるだろう。

 さらにさかのぼると、1763年夏「モーツァルト家の大旅行」が始まる。ウォルフガング7歳。姉のナンネルルとペアにした天才姉弟の売り込みのセールス・プロモーションの旅であった。この時も一家はアウグスブルクに立ち寄り、シュタインから旅行用のクラヴィコードを購入している。この楽器をモーツァルトは長い間愛用していたという。これは現在、ブダペストのハンガリー国立博物館の所蔵となっている。

 つまり、アウグスブルクでモーツァルトはヨハン・アンドレアス・シュタインと二回接点を持っているわけだ。
 1763年:シュタイン製作のポータブル・クラヴィコードを購入。
 1777年:シュタイン製作のピアノフォルテを使用してコンサートを開く。この時弾かれたのは、その前年に作曲された『三台のピアノのための協奏曲ヘ長調 K.242』。シュタインも独奏者の一人として加わっている。パリへ向かう途中のことであったので購入することは叶わなかった。だが、「一台三〇〇フローリン以下で売ってくれないのはたしかです」という一行からは、価格交渉をしたことがうかがえる。購入意欲は十二分にあったわけだ。もし十分な資金があれば、購買を決めていたに相違ない。

 では、ザルツブルグの自宅では、彼は何を弾いていたのか? 二台のチェンバロであった。
 その後の1781年、ウィーンに着いたモーツァルトがウェーバー家と懇意になるのは、ウェーバー家にあるチェンバロが自由に弾けたからであった。あれだけのクラーヴィーア作品を次々と書き続けたモーツァルトが、じつは普段使いのクラーヴィーアにも不自由していたのである。こうみてくると、新しいウィーン風の響きがモーツァルトの創作意欲をかき立てたという海老沢さんの指摘は、本当にそうだったのだろう、と思えてくる。
 その後、父レオポルドが、ウィーンの息子宅を訪れた時、そこにワルター製のピアノフォルテがあることを発見する。モーツァルトがそれを入手した経緯は伝わっていない。想像をたくましくして言うならば、そのような高い買い物は父親が反対するに決まっているから、黙って購入していたのではなかろうか。だから、その旨を記した父親あての書簡が残されていないのだろう、きっと。
 モーツァルトが弾いていた楽器の音色を、この耳で確かめてみよう。そうでないと、議論は空しいものになるだろう。


ピアノの名称をはっきりさせよう


 楽器の音色を聴くまえに、楽器の呼び名の確認をしておきたい。ネット検索してみても、かなりの混乱もあるようだし、私自身もあやふやな部分がある。

 クラビーア(独:Klavier)は鍵盤楽器の総称、と考えて良いと思う。
 語源は、ラテン語の"clavis"=〈鍵〉。

 バッハの『平均律クラヴィーア曲集』はチェンバロで演奏されるが、その原題は "Das Wohltemperirte Clavier / Das Wohltemperierte Klavier "。バッハの時代は "Clavier" で、今は "Klavier" と表記されるそうだ。あぁ、ややこしいい! ピアノの時代になってからの『ピアノ協奏曲』も "Klavierkonzert" 。こんな風に〈クラビーア〉は鍵盤楽器の総称。

 最も古くからあるのが〈撥弦楽器〉であるチェンバロ。ただしチェンバロはドイツでの呼び名で、言語ごとに名前がちがう。
 チェンバロ(独: Cembalo )、クラビチェンバロ(伊: clavicembalo)、
 クラヴサン(仏: clavecin)、 ハープシコード(英: harpsichord )

 モーツァルトがアウグスブルグでシュタインから買ったのはクラヴィコード(独: Clavichord )。チェンバロが〈撥弦楽器〉なのに対し、クラビコードは〈打弦楽器〉。つまり、こちらがフォルテピアノの直接的な祖先。ややこしいのだが、18世紀後半のドイツ、つまりモーツアルトの時代には、このクラビコードを、クラビーアと呼んでいた。ここから先はドイツにおける名称に限って述べてゆきます。

 さらに、ベートーヴェンの時代になると、〈打弦楽器〉であることを強調して〈ハンマークラビーア〉 "Hammerklavier" と呼ばれる。ベートーヴェンが『op.106』のソナタを、こう表記してくれと言ったのが由来であるが、楽器名としての使用はすぐに廃れて、現代では『op.106』の標題名としてのみ使われている。ピアノを叩きまくる曲想だからピッタリだ。

 それまではクラビーアは、「弱音 "piano" も、強音 "forte" も、打鍵の強さによって引き分けることができる」という意味で、ピアノフォルテ "Pianoforte" と呼ばれていた。
 モーツァルトも先に引用したとおり、ピアノフォルテという呼び方をしている。現代のオリジナル楽器復興期でも、〈完成形態にあるピアノ〉に対して〈発展途上にあるピアノ〉との意味で、ピアノフォルテという用語が使われた。
 だが現在では、前後が入れ替わって、フォルテピアノと称されることが多くなった。理由はよく分からないのだが、現代のピアノも「ピアノ・フォルテ」の略称なんだから、それと区別して古楽器であることを強調するため「フォルテ・ピアノ」としたのだろう、と想像する。しらんけど。以上。

 では実際の音色を聴いてみよう。今回は〈チェンバロ〉と〈クラビコード〉の二つ。歴史的にみて早い時期から使われていたもの。つまり「プレ・ピアノフォルテ」の二機種である。


チェンバロで演奏される『トルコ行進曲』


 "You Tube" を検索すると、チェンバロ演奏による『トルコ行進曲』がかなりの数で見つかる。その中から、ヨス・ファン・インマゼールの演奏を選んだ。理由は、彼の演奏するCDを多く持っていて、なじみ深いから。
 1998年、彼は精巧に復元されたワルター・モデルのピアノフォルテを使って、モーツァルトのピアノソナタを録音した。発売時につけられたタイトルが "Mozart The Vienna Years 1782 - 1789 Sonatas Fantasies Rondos" 『ウィーン時代のモーツァルト 鍵盤作品集』。まさに今回のテーマそのもの。もしかすると海老沢さんもこれを聴いていたのではないか、と想像する。さっそく買い求めて、通勤の車中で聴いていました。最初が『ピアノソナタ ハ短調(K.457)』で、その出だしの和音の強烈さに驚いた記憶があります。何度聴いても、この冒頭でビックリさせられるのです。〈モーツアルト = 優美・流麗〉という〈記号〉が吹っ飛んでしまいます。
 彼は非常に精力的な演奏家で、バッハのチェンバロ協奏曲を演奏するために、アニマ・エテルナという古楽器オーケストラまで作っている。2000年を越えるころから、アニマ・エテルナのレパートリーはどんどん広がって、ベートーヴェンの交響曲全集がでたので、これも買ってしまった。当初は、古楽器によるベートーヴェン、というもの珍しさもあったのだが、いつの間にか「標準的な演奏」という感じで聴けるようになった。モダン楽器オーケストラのベートーヴェンに戻ると「足どりの重たい」感じがします。
 さて、"You Tube" にアップされているのは、1970年代後半のLPレコード。そのジャケットが静止画として映るが、 "Jos Van Immerseel Plays Historic Flemish Harpsichords" というタイトルが読める。「歴史的なフランドル製のハープシコード」を使用しているわけだ。元のLPの全15曲がそのままアップされているが、その冒頭が『トルコ行進曲』である。
 フランドルとは彼の本拠地であるベルギーのあたり。調べてみたら、パリとフランドル地方が最も優れたチェンバロの生産地だったようである。これは、モーツァルトの伝記の内容などと一致しますね。
 彼がLP時代にこんなレコードを出していたとは思わなかったな。とりあえず冒頭の『トルコ行進曲』だけでも、繰り返し聴いていただきたい。



 途中でチェンバロの音色がコロリと変わって、日本の琴のようになります。その理由は次の動画を見ると良く理解できる。
 動画をアップしてくれているのは、河端梢さんというピアニスト。心より感謝いたします。
 彼女のホームページがあります。ぜひ閲覧してください。




クラビコードで演奏される『トルコ行進曲』


 次に、クラビコードによる『トルコ行進曲』を聴こう。
 チェンバロの場合と違って "You Tube" にもあまりアップされていないようです。やっと見つけたのが、ヴィム・ウィンターズの演奏。録音済みメディアのアップではなく、彼自身が演奏してアップしてくれているようです。これも、感謝するしかありません。
 レコード・レーベルの関係でしょうか、日本ではCDもほとんど発売されていないようです。「ヴィム・ウィンターズ」で検索しても、グーグルさん、勝手に映画監督の「ヴィム・ヴェンダース」に変換してくれます。便利なようで不便なグーグル。冗談はさておき、聴いてみましょう。



 いかがでしたか。確かに、チェンバロの場合より、前の音符の響きが早く消えて、音が濁らない感じがします。逆に、チェンバロと比べると、音色に変化を持たせることができないので、華やかさにおいて劣る感じ。それに音量が小さい。だから、モーツァルトを始め当時の音楽家は、演奏会ではチェンバロを使い、自宅ではクラビコードを使って作曲、という使うわけをしていたのだろう。
 モーツァルトもウィーンの自宅には、ワルター製のピアノフォルテとクラヴィコードを置いていた。そのクラヴィコードには、コンスタンチェのメモが貼ってあって、モーツァルトはこの楽器で『レクイエム』と『皇帝ティートの慈悲』を作曲したと書かれているそうだ。ちょうど我々が、込み入った作業をするときはデスクトップPC、ちょっと使ってみるにはノートPC、といいう風に、使い分けているように。

 クラヴィコードに関しても、詳しい解説をアップしてくれている人がいます。
 水野直子さん。音楽教室の先生のようです。彼女にも重ねて感謝、
 彼女のホームページがあります。是非閲覧してください。



 今回はこれくらいにしておきましょう。
 次回は、ピアノフォルテオの音色を聴きます。


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−−【その13】了−−    

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