映画は観終えたあとから、もう一つの楽しみが始まる。
                             何故この作品がこれほどまでに私を楽しませてくれたのだろう? 
                             今度は私がホームズとなりポアロとなって謎解きの森に分け入る。








































































































































































































































































































Daniel Barenboim

"WARNER"というロゴが
入っているが、
はじめEMIから発売された。




























Ingrid Haebler

"DECCA"というロゴが
デカッと入っているが、
ヘブラーは"PHILIPS"の専属であった。















Lili Kraus

クラウスのモノラル録音は、
発売もとが頻繁に変わった。
LPレコードの供給が不安定であったことは、演奏家にとっては不利である。















































































































































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現代人は低音がお好き!

    残された時間は短い。
    じっくりとモーツァルトを聴こう。その15

                    2023/05/04



 モダン・ピアノの特性に話が逸れてしまった。
「プレ・モダンピアノの音色の聴き比べ」に戻ろう。

 前々回は「チェンバロ」と「クラヴィコード」の音色を確かめた。続いて今回は、モダンピアノの直接的な前身である「フォルテピアノ」( = ピアノフォルテ)を聴いてみよう
 モーツアルトのクラヴィーア作品は、極めて初期の作品は「チェンバロ」のために書かれていた。だが、作品のほとんどは、この「フォルテピアノ」のために書かれた。この点を再認識しておこう。

 モーツァルトが弾き、そして聴いていたピアノは、どのような音色だったのだろう? 
 モーツァルトは、どのような音色で演奏されることを想定して、作曲していたのだろう?
 聴きくらべを容易にするため、なるべく『トルコ行進曲』の演奏を探してみることにする。
 念のため、『トルコ行進曲』の一般的に流布している楽譜を添付しておきます。

シュタイン製フォルテピアノの一例を聴く


 では、始めに「シュタイン製フォルテピアノ」のレプリカで『トルコ行進曲』を聴いてみよう。



 1分少々の「さわり」だけの演奏ですが、それでも音色の確認はしていただけたと思う。いかがでしょうか? 意外と我々の慣れ親しんでいるモダンピアノの響きに近い、と感じられたのではないだろうか。
 このフォルテピアノは「学究的目的で復元されたレプリカ」ではない。詳しいことは分からないのだが、動画のタイトルなどから察して、一般の販売に供せられる市販品のようである。
 製作は "Zuckermann harpsichord International" という楽器工房。
 商品名が "The Viennese Fortepiano - Stein fortepiano"
 (ウィーン風フォルテピアノ ― シュタイン・フォルテピアノ)

 動画の解説には "Zuckermann Stein fortepiano Promo" とあるから、この動画はその販促用ビデオだろうと思われる。だから正確に言えば、ここで弾かれているのは、「シュタイン製フォルテピアノのレプリカ」ではなく、「ズッカーマン製シュタイン・フォルテピアノという、いま販売されている商品」なのだ。
  "Zuckermann" のサイトをみると、ほぼ同仕様のものがカタログに掲載されていて "$16,000-" と値が付いている。現在のレートで換算すると、約 \2,200,000- 。モーツアルトがアウグスブルグでシュタインのピアノに接したとき、「そのピアノは、一台三〇〇フローリン以下で売ってくれないのはたしかですが、彼がつぎこんだ苦労と努力はお金で報いられるものではありません」と書いている(1777年父親あての書簡)。「 300フローリン」が現在の "円" のいくらに相当するかは分からないのだが、我々が、220万円、 ほぅ? と感じるのと、同じぐらいの値段感覚だったのではないだろうか。


シュタイン製フォルテピアノを、もう少し聴きこんでみよう。


 演奏が始まるとすぐに "hand stop soft modulator" (弱音装置手動スイッチ)という文字が現れる。演奏はこのレバーが「引かれた」状態で始まる。モダンピアノでいうなら、左ペダル(ソフトペダル・シフトペダル)が踏まれている状態で演奏が始められているわけだ。
  "テーマA" の前半 8小節を繰り返すタイミングで(動画の 11秒 )、このレバーが「押され」てニュートラルに戻され、普通に「素の音」で弾かれる。つまり、曲は穏やかでソフトな音色で開始され、繰り返しの部分で音量が少し大きくなり、普通の奏法となる。
 私はピアノ教室でレッスンを受けるという経験をしたことがないので、断定的なことは言えないが、おそらくこれは「現代ピアノの定石的な演奏作法」なのだろう。前回聴いた、ショパン『ノクターン2番』の演奏が、まさにそうでしたね。「弾き始めは、無音のなかに音を出して行くのですから、聴き手を驚かすことなく、そっと穏やかに弾き始めて、聴き手を音楽のなかに誘い込みます。そして聴き手が楽器の音に馴染んできたら、多少強めに、楽器本来の音色を響かせるのです」、という風に、ピアノ教室の先生は教えるのだろう。

 24小節目、イ長調に転調して、ロンドの "テーマB" に移るとき(動画の 35秒 )、 "right knee pedal" (右ひざペダル)が押し上げられる。これで、モダンピアノでダンパーが踏まれたのと同じ状態になる。弦がダンプ("damp"音の勢いを制御する)されないので、音が大きく派手になり、打鍵の後も弦は発振しつづけ減衰しない。
 この弾き方を極端にパロディ化すると、映画『イノセント』冒頭の「報いとしてのモーツアルト」になってしまう。鍵盤を叩きつけるような、楽器に八つ当たりしているような弾き方である。
  "テーマB" が繰り返されるタイミングで(動画の 42秒 )、右ひざが下げられ、ダンパーが効いて一瞬音が消えたあと、今度は左ひざで "left knee pedal" が操作されて、再び派手な音色となる。これも現代ピアノ奏法の作法どおりじゃないかな。

 そのあと字幕が出る。前に引用した、モーツァルトの「1777年父親あての書簡」の要約である。モーツァルトが驚喜したフォルテピアノとは、ほら、こんな楽器だったんですよ! 貴方も一台いかがですか? と、セールスの核心に入るわけだ。
 もう一度、モーツアルトの「1777年父親あての書簡」の、該当箇所を引用しておこう

シュタインの仕事をまだ若干でも見ていないうちは、シュペートのクラヴィーアがぼくの一番のお気に入りでした。でも今ではシュタインのが優れているのを認めなくてはなりません。レーゲンスブルクのよりも、ダンパーがずっとよくきくからです。


これは素晴らしい楽器だ。だが ……


 動画で「ズッカーマン製」の音色を聴いて、なるほど、モーツァルトが驚喜した「シュタイン製フォルテピアノ」とはこんなモノだったのか! と思うと、ちょっと感動させられた。
 ピアノ演奏の嗜みがあって金銭にも余裕がある人ならば、うーん、二百万と少しか、近頃は軽四の車を買ってもオプションを付けまくれば、これくらいにはなるな、あの部屋を片付ければ置き場所もできるし …… と、食指が動くかもしれない。
 確かに、この楽器の完成度は極めて高い、と思う。歴史的遺物の復元品などという骨董趣味のレベルではない。第一にその音色。極めて滑らかで、高音から低音まで見事に均一化されている。鍵盤の動きがスムース。もたついたり、がさついたりしない。音響効果のための装置、 "hand stop soft modulator" や左右の "knee pedal" も上手く作られている。操作性も良さそうで、奏者は軽い操作で見事に音色を変化させている。
 歴史的事象に、もしも ~ だったら、という仮定の言い回しを持ち込むことはナンセンスだと思うのだが、もし、モーツァルトがこの「ズッカーマン製」に触れる機会があったとしたら、シュタインの楽器に出会った時と同じように、コレ、欲しい! パパ、買っても良いでしょう? と懇願したはずである。復元のレベルを超え、見事に「再創造」された楽器である。

 だが、しかし、この動画で聴く『トルコ行進曲』は、私の空想のなかでモーツァルトが弾く『トルコ行進曲』とは、最後のギリギリのところで一致しないのである。
 目の前にモーツアルトの弾いた楽器を出現させて、「ズッカーマン製」と並べて弾き比べてみることができない以上、あくまで「想像」するしかないのであるが、無謀を承知で、あえてその想像を述べてみたい。


現代人の好みに合わせた「中低音域強化の」チューニング


 このズッカーマン製ピアノは、現代の好事家向けの商品である。当然のことながら、現代の音楽愛好家の一般的な好みに合うようにチューニングされているだろう。
 では、現代の音楽愛好家の一般的な好みとは何か?
 それは「中域から低域にかけての豊かな音量」である。いや「豊かすぎる」と言うべきかもしれない。

 我々はもう慣れてしまっていて、普段は無自覚なのだが、現代人の音響の好みは「うんと重低音より」になっている。管弦楽の発展の中味を見れば、それは明らかである。
 18世紀末「ウィーン古典派」から19世紀末「後期ロマン派」までのオーケストラの発展とは、つまり、二管編成 → 三管編成 → 四管編成、という、オーケストラ規模の拡大であった。ただし、二管編成が相似的に拡大されて四管編成まで成長したのではない。それは常に「中音から低音にかけての音量強化」という方向で巨大化してきたのだ。
 金管楽器でいうなら、トランペットに、トロンボーンが加わった。さらにチューバが追加された。これすべて低音域への声部拡大である。
 木管楽器でも同様である。フルートに対するピッコロという高音域への拡大を唯一例外として、クラリネット → バス・クラリネット → サキソフォン、オーボエー → コーラングレ(イングリッシュ・ホルン)、ファゴット → コントラ・ファゴット、という風に、年を経るに従って付加されるのは、ことごとく低音域を拡大する楽器である。
 さらに決定的なのは、弦楽器群の低音域への拡大であろう。当初はチェロのオクターブ下をユニゾンで奏されるだけだったコントラバスが、声部として独立して、楽器の数もぐんと増えた。

 『標準的な楽器編成表』を見てみよう。ネットで拾った一例である。
 弦楽器総数のうち「チェロ+コントラバス」の占める比率は、1管 → 2管 → 3管 → 4管、と編成が大きくなるに従って着実に高くなっている。何と、 18% から 30% にまで上昇している。


   1管編成  4/22 18%
   2管編成  8/32 25%
   3管編成 14/50 28%
   4管編成 18/60 30%

 実際のオーケストラで確かめてみよう。 現代を代表するオーケストラの一つである、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団 "Royal Concertgebouw Orchestra" の写真である。「正規楽団員」が勢揃いした写真だと思われる。さて、各楽器、何人ずつの構成になっているか? 楽団員が重なりあって写っていて、人数がカウントしにくい箇所もあるが、ほぼこの表の『4管編成』の通りの構成になっているのが分かるだろう。



追加の考察:モダンピアノにおける中・低域の音量拡大


 前回に確認したように、モダン・ピアノの発展も、この管弦楽団の発展と同様、「中音域・低音域への拡大」という特質を持っていた。前回述べなかったのであるが、モダン・ピアノにはもう一点、画期的な発展があった。それは弦の張り方の変化である。
 1859年、アメリカのヘンリー・スタインウェイJr.が、グランド・ピアノの「交差張弦」の特許を獲った。もう、現代の我々には当たり前すぎて、指摘されても、えっ、何のこと? と戸惑うだけなのだが、身近にピアノがあれば、大屋根を上げて中を覗いてみてください。すべての弦が、鍵盤の先端方向に垂直に張られている(平行張弦)のではないこと、が分かる。低音域の弦は高音域の弦より一段高い位置で、高音弦の上に覆い被さるように斜めに張られている(交差張弦)はずである。
 その利点は、Wikipediaによれば「交差張弦の利点は、ピアノのケースをより小さく、低音弦をより長く、低音弦の位置をピアノケースの中心に配置することができる点にある。中心に配置された低音弦は端に配置された時よりも多くの共鳴を得ることができる」とある。
 この点に詳しく立ち入る余裕がないので、『ぴあの屋ドットコム』さんがアップしている動画を見てください。



 「交差帳弦」には、当初から、響きの混濁化・音のダンゴ化という批判があった。あのダニエル・バレンボイムが、2015年以降、特注した「平行張弦ピアノ」を使用して演奏活動を行っている、ということを言い添えておこう。
 → 参考:柴田俊幸さん (フラウト・トラヴェルソ奏者) のレポート in "ONTOMO"

現代人の好みに合わせた「破綻のない丁寧な」演奏


 「現代の音楽愛好家の一般的な好み」について、もう一点、付け加えておくべきことがある。それは「演奏方法」である。こんなに見事に「18世紀末ウィーン風フォルテピアノ」が再創造されているのに、この演奏スタイルは「現代的奏法そのもの」ではなかろうか?

 では、「現代的奏法」とはどういうものか?
 ここは理屈で述べるより、実際の演奏で聴きくらべてみるのがよいだろう。
 私の世代がクラシック音楽に親しみ始めたころ、当代きっての「モーツァルト弾き」として、二人のピアニストが紹介されていた。その二人の演奏が対照的で、この聴きくらべに持ってこいなのだ。聴き手を誘導するようになるが、二人の演奏の特徴を言葉でまとめておく。
 
  イングリット・ヘブラー(Ingrid Haebler)1929年、ウィーン生。
   → 正統的な伝統を尊重した演奏。丁寧で表情豊か。破綻がない。中庸のテンポ。

  リリー・クラウス(Lili Kraus)1903年、ブダペスト生。
   → 子細にこだわらず、勢いよく、さっそうと駈け抜けるような演奏。快速。

 同じ『トルコ行進曲』で聴きくらべてみよう。

◆イングリット・ヘブラーの演奏。画像クリックで "You Tube" とリンク

https://www.youtube.com/watch?v=SsftSWAlQ2M

◆リリー・クラウスの演奏。



核心を突く素人愛好家の感想


 ネットには、CDなどの音源に対して、愛好家たちの "評価" が数多くアップされている。"HMV" "Tower Records" "Amazon" などの商品欄をはじめ、個人のホーム・ページやブログなど、いたるところに感想・批評・分析などがあふれている。なかには岩城宏之さんの云う「好みを価値と取り違えた」ような批評もあるが、素人愛好家のいだく「素直な感想」には、なるほどと同意させられるものが多い。
 たとえば、イングリット・ヘブラーのモーツァルトに対して、このような感想が書かれていた。

 ヘブラーの印象は、清閑な住宅街を歩いているとき、どこからか、とても上手なお嬢さんが弾くモーツァルトが聞こえてくる。そんなモーツアルトだ。

 リリー・クラウスの場合は、ちょっと違う。新人のピアニストが、弾くことの楽しさをそのまま音に出したような、輝かしく、元気な演奏をした時などに、彼女の名前がよく引き合いに出される。

 誰、このピアニスト? すごい。リリー・クラウス、みたい!

 どこで読んだ文章なのか覚えていないので、原文どおりにコピーはできないのだが、意味は伝わると思う。専門家の並べる御託より、よほど的確な評価になっている。


イングリット・ヘブラーはモーツァルトを、とても丁寧に、弾く。


 イングリット・ヘブラーはモーツァルトを、とても丁寧に、弾く。
 動機の繰り返しにはそっと強弱の差がつけられる。テーマの終わりになると、悟られない程度にだがキッチリと、 "ディミヌエンド" (次第に弱く)と "リタルダンド" (だんだん遅く)の効果が付与される。
 イ長調に転じてフォルテ記号がつく。右手はユニゾン。一転して、ダンパー・ペダルが踏まれ断固とした強い打鍵になる。ただし弦がビリつくほどの乱暴さに至ることはない。
 ロンド主題の "C "の部分となり、右手が十六分音符で鍵盤を駆け巡るようになると、おそらく打鍵方法を変えるのだろう、コロコロと転がる様な音色となる。楽譜にはテーマの8小節全体に及ぶ長い "スラー" が引かれているが、「この "スラー" の意味をキッチリと表現すると、このようになります」という模範講義を聴くみたいだ。
 練りに練った完璧なモーツァルト演奏である。街の音楽教室に通って『トルコ行進曲』を教わると、おそらく、この様に弾きなさい、と指導されるだろう。引用した某氏の「とても上手なお嬢さんが弾くモーツァルト」という素直な感想は、極めて的確なのだ。

 音楽教室の発表会で『トルコ行進曲』ただ一曲を披露するなら、このやり方はベストかもしれない。なぜなら演奏者は、この一曲で、鍛錬の成果をキッチリと表現しなければならないのだから。
 だが、三楽章のソナタの最終楽章という位置に置いたとき、この楽章だけにこれだけの「表情」を付ける必要があるのか? という疑問が湧く。三楽章ソナタの最終楽章というポジションには、もっと単純明快で対比的なキャラクターが与えられているのではなかろうか? 単一楽章で完結するのでなく、三楽章全体のまとまりのなかで大きな意味が生じる、という意味で。
 適当な例とは思えないのだが、むかし読売巨人軍がズラリと4番バッターばかりを並べたような時代があったと聞く。それで巨人軍が強いチームになったのなら良かったのだが、そのシーズンは下位に低迷したらしい。あるいは、主演級をズラリと並べたお祭り映画をイメージしてもいいだろう。そんな映画が面白かった試しがないのだ。

 もうご理解いただけたと思う。「ズッカーマン製」フォルテピアノの演奏方法は、この、正統的なへーブラーの演奏を踏襲しているわけである。


リリー・クラウスは、子細にかまわず、快速で駈けぬける


 リリー・クラウスの演奏は、それとは対照的である。
 だいいち速度が違う。動画の再生時間でみると、ヘブラーの 3分36秒の対し、クラウスは 3分15秒で弾いている。メトロノーム速度でいえば、ヘブラーは、ほぼ "120" 。流布している楽譜には "Allegretto"(やや速く) と記されているが、 "120" は "Allegretto" の、ほぼ上限速度だろう。もしヘブラーが "Allegretto" を意識して、制限速度 "120" を厳守していたとするなら、もう偏執狂的正統派指向だった、ということになる。

 一方のクラウスは、ほぼ "140" 。これはもう完全に "allegro"(速く) の速度であり、楽譜の指示をまったく無視していることになる。
 この速度になると、ヘブラーがあれこれと手を尽くしている「表情」の盛り込みは不可能であり、じじつクラウスは、元気よく一気呵成に弾ききっている。だから、むかし口の悪い批評家などは、クラウスの演奏を、「乱暴」「粗雑」「弾き飛ばし」などと評していたように記憶する。

 だが、先ほど述べたように、『トルコ行進曲』を単独の曲ではなく、『ピアノソナタ イ長調 K311』、その三楽章構成の最終楽章として聴くなら、むしろ「乱暴」で「粗雑」で「弾き飛ばす」ような奏法こそ、作曲家モーツァルトが指定した演奏方法ではなかったのだろうか?
 彼は、この楽章の冒頭に、 "alla turca" (トルコ風に・トルコ軍楽風に)、とだけ記しているのである。
 トルコ風、とはどういうものか?


もう一台、シュタイン製ピアノの音を聴いておこう


 まさに、この疑問に答えてくれる「ウィーン風フォルテピアノ」で弾かれる『トルコ行進曲』の動画があるのだが、それを紹介する前に、(はやる心を抑えて)、もう一台、シュタイン製ピアノの音を聴いておこう。私には、こちらの方が、かって確かに存在したシュタイン製ピアノの音色に、より近い、と思われる。
 この楽器は、現代の我々の好みに合わせてチューニングされていない。演奏方法もまた、現代風に過剰な表情づけがなされていない。とりあえず聴いていただこう。



 
 このチリチリ頭のお兄さんは Lucas Blondeel (ルーカス・ブロンディール)という人。ほとんど情報がないのでググってみたら、ベルリン芸術大学の教授、ということだけが分かった。
 弾かれる曲は、モーツァルトの『ピアノソナタ ハ短調 K457 』の第一楽章。でも、ちょっと手の込んだ紹介となっている。
 動画では、まず、バッハの『音楽の捧げ物』の「王の主題」が弾かれ、モーツアルトが熱心にこの曲を研究した成果が、この『 K457 』に結実しているという説明(たぶんそうだろう、ただし保証の限りではない)が行われる。『音楽の捧げ物』『ピアノソナタ ハ短調 K457 』のテーマとの関連が示され、演奏の半ばで「王の主題」が手品のように挿入される。ヤルじゃないの、このお兄さん! 言われてみれば、「王の主題」はハ短調。モーツアルトのピアノソナタでハ短調なのは、この『 K457 』だけだ。

 『 K457 』はモーツァルトのピアノソナタの到達点だと思うのだが、正直に告白して、モダンピアノで弾かれるかぎり、現代のどんな名人上手が弾く演奏にもなじめなかった。この演奏を聴いて、その理由が納得できる。この稿でクドクドと述べてきたように、中・低音域の音量拡大はモーツァルトには似合わないのだ。まことに不適切な例えになるが、フレッド・アステアが、『楼門五三桐』(さんもん ごさんの きり)石川五右衛門(いしかわ ごえもん)風の「どてら」を着て踊っているように感じる。それくらい、ステップから軽やかさが消え、ドタドタと足下にまとわりつく感じがするのだ。みなさんはいかがでしょうか?
 『 K457 』は、ハ短調という調性からくるのだろうが、おそらく後のベートーヴェンとの関連性を意識してか、フォルテピアノで弾く人の演奏も「重量級」寄りの演奏になっているように思える。このルーカス・ブロンディールさんは、逆に、バッハから学んだモーツァルトという視点で『 K457 』をとらえている。だから、綿密な音符の連続となっても、決して軽快さを失わないモーツァルトが目の前を駈けぬけるのではなかろうか?



トルコ風に・トルコ軍楽風に


 さあ、お待たせしました。モーツァルトが『 K331 』の最終楽章に、 "alla turca" (トルコ風に・トルコ軍楽風に)、とだけ記していることの意味が、ああ、そういうことか、と納得できる演奏をお聴きください。
 使われている楽器は、ウィーンのローゼンベルガー(Michael Rosenberger)。1820年ごろの製作。レプリカではないようだ。
 弾いているのは、山名仁さん。詳しいことは分からないのだが、クラヴィーアの研究家で、和歌山大学で教育学部の教授をされている。また山名敏之という名で演奏活動もされているらしい。



 いかがですか、驚かれましたか?
 誤解のないように言っておくが、モーツァルトが『 K331 』を打楽器付きで演奏した、などと言っているのではありません。山名仁さんも、そのような意味でこの楽器を弾いているのではないはず。
 だが、モーツァルトが楽譜に記した "alla turca" (トルコ風に・トルコ軍楽風に)、というイメージは、まさに、こういうものであった、と想像してよいだろう。そう考える方が感覚的にシックリくる。
 1820年ごろ、という楽器の製作年代を考えてみていただきたい。ベートーヴェンの『第九交響曲 合唱付き』が初演されたのは、1824年である。あの最終楽章に、まさに "alla turca" (トルコ風に・トルコ軍楽風に)と呼ぶべき部分があるでしょう?
 
 当時のウィーンにおける「トルコ好み」というものを想像してみれば良いのです。
 謎は、いっぺんに解けるはずです。

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--【その15】了--    

残された時間は短い。じっくりとモーツァルトを聴こう。Topへ