難波駅を出た電車がわずかに右にカーヴすると、つり革に掴まっていた男たちは一斉に右側の窓から外を見やった。
 ほんの一瞬、大阪球場のスコアボールドが見えるからだ。
 私の家は球場から1キロ以上も離れていたが、物干し場にあがると、観客のあげる歓声が風に乗って流れてきた。
 確かに昭和のある時代まで、私たちは「自分の五感で直接」社会の動きを感じとっていたのだ。                           








ホームセンターの一例

本文とは関係ありません、
と言っておこう。




食品スーパーの一例

本文とは関係ありません、
と言っておこう。


























足踏み式オルガン
私が使ったのは、こんなにピカピカ光っていませんでしたが。



小学校 教科書 音楽
横長でこんな感じだった。












中島義道『うるさい日本の私』 
新潮文庫


日経からも再版されていました


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平成27年 11月 5日
       街のやかましさは人間性を崩壊させる その1


やかましいホーム・センター


 自宅を出て国道を市街地の方向に数分走ると、"D"というホーム・センターがある。洗剤とかティッシュ・ペーパーとかが無くなって、買いに走るには至って便利である。でも急ぐ必要が無い場合は、たいてい国道を逆に走って隣り町の "K"まで出向く。往復15キロをわざわざ無駄に走る。
 理由は、物を買うには〈大なり小なり考える必要がある〉のだが、"D"では物を考えることが難しいからである。"D"の店内が〈うるさすぎる〉のだ。

 間断なく流されているBGM。これ自体、DTMソフトで適当に作ったった感まるだしの、騒音と同義の代物。時折これを押しのけるようにして店のCMソングが割り込んでくる。こいつの音量がまたデカイ。歌手の声はほとんど絶叫。それにはナレーションが続く、リフォーム窓口をご利用ください、パソコン出張修理いたします、"D"ポイント・カードをお持ちですか、エトセトラ、エトセトラ。さらに割り込んでくるのが店員の呼び出し。ピン・ポーン、係員は木材カット・コーナーへ、お客様がお待ちです。ピン・ポーン、灯油コーナーでお客様がお待ちです。
 ぎりぎりの従業員数で店を廻そうとして、各コーナーに担当者呼び出しベルが設置されているのだが、押したお客がビックリするほどの最大音量。担当者の到着が遅れても、精一杯呼びつけていますという、言いわけ先取りの心理作戦か。私なんぞは至って小心者ですから、息せき切って駆けつけてくる店員さんに、すんまへんなぁ、いそがしぅしてはるのに、と先に労いの言葉をかけてしまう。あんな大音量で呼びつけたのは私です、という申し訳なさが半分入っている。そやけど、なんで客が謝らなあかんねん。

 ビス一本買うにしても、確かめなければならぬことがいっぱいある。足長さ、ミゾ・ピッチ、頭の形状、素材、塗装色、入り数、価格。候補を絞り込んでも、実際に使う時のことを想像してあれこれ考える。あの板は割れやすいから一サイズ小さめにしようか、とか、小さめにしたら本数を増やさねばならんだろう、とか、あの板にはこの色で良いだろうか、とか。結局はリスクを見て、サイズは二通り、一袋は余分に、買うことになるのだが、それらを〈よく考えて納得して買いたい〉のである。
 よく考えて納得するためには、比較的静かな(無音にせよ、とまでは言わない)環境が必要なはずだが、店のなかは大音量の放送が渦巻いている。ほらほら、また来たでぇ、おかげさまで"D"ホールディングスはこの度全国店舗数××を達成しましたぁ! 毎月××のつく日は"D"ポイントが二倍ィ! ただいま温水便座割引セール中ぅ! 指先で耳を塞いで考えに集中しようとするのだが、これはなかなかうまく行きませんね。私は今耐えているという思いが、思考力を奪ってしまう。
 あるとき電器器具のコーナーで壁スイッチを物色していた。近くには作業服のおじさんがいて、配線用パーツを何点か取り出して交互に見比べている。仕様・規格を確かめているらしい。その時、急に放送の音量が大きくなった。彼は「チッ」と舌打ちしたあと「クソッ!」と小さく叫んで、手にしていた商品を棚に投げ戻すなりどこかへ行ってしまった。またある時、LED電球を選んでいた中年夫婦。奥さんが、どれにするのん? と尋ねた途端に大音響。ご主人堪らず、うるさい、ごちゃごちゃ言うな。奥さんは負けてません、なんで私に当たらなあかんのん。ご両人、怒りの向けどころが違います。

やかましい食品スーパー


 食料品などの調達は、この"D"からさらに市街地寄りにある"B"まで行く。ここは建物が馬鹿デカイのに比して放送設備がいたって貧弱なので、結果として音量が少し小さくなる。少しは助かる。だが、"D"とは別の質の悪さがある。
 おそらく著作権料など一切払うものかという決意の現れだと想像するのだが、古い学校唱歌などの唄なし演奏版を流すのである。例えば、子供の日の前なら「屋根より高い鯉のぼり …… 」といった風に。
 これがまた困る。実は学校唱歌が結構好きなんですね、私。たいそうに言えば、学校唱歌に対する美意識を持っているということ。ところが、"B"で流されているやつは、私のささやかな美意識を逆撫でしてくれるのだ。

 小学生の終わり頃、父が古道具屋でオルガンを見つけてきた。音程は狂っているし、音が出ない鍵盤もたくさんある。しかしハ長調の15の音しか吹けないハーモニカが所有する唯一の楽器だった子供にとって、それはまさにハイテク楽器だった。私は学校から帰るなり、鍵盤にかじりついた。でも、誰が教えてくれるわけでもなく、教則本や楽譜があるわけでもない。ゆいいつ縁(よすが)となるのは音楽の教科書しかありません。
 教科書にある唱歌をオルガンで弾く。一つ、また、一つ、まさに手探りで。学校では教科書に載っている唱歌の一部しか教わらなかった。そんなスルーされた歌も弾いて覚えた。するとだんだんと分かってくる。それまで単純で退屈なものと思っていた唱歌が結構すばらしいものであることが。さらに分かったことは、唱歌とは〈歌ってこそ値打ちがある〉ということ。楽器で旋律線だけをなぞってみても様にならない。(よほどの名人上手なら別だろうが) 過剰な感情を込めたりすると台無しになってしまう。

 私の興味はすぐに「本格的な」音楽に移っていったが、唱歌が結構すばらしいという実感は、しっかりと私の感性の中枢に残った。私は教条主義者にはなりたくないから、音楽は〈こう演奏しなければならない〉といったドグマを振りかざすつもりはない。どんな演奏だってOKと思いたい。しかし〈どう演奏してはならないか〉という原則は存在する。〈歌〉ならばこうだ。
1)歌うなら時と場所を選べ。聴きたいと思う人に対してだけ歌え。
2)作品に対する共感をもって歌え。

 "B"で流れる学校唱歌はこの両方をしくじっている。共感のないダラダラした演奏を、買い物に来た客に対して無差別に放射している。これは単純に騒音であるに止まらず、客の感性に無理やり侵入を謀ろうとするものだ。ゆるやかな洗脳行為である。

ありとあらゆる所がやかましい日本

 
 しかし昨今は、どの店へ行こうが、どの街へ行こうが、どの電車に乗ろうが、この騒音被害から逃れることは不可能なようだ。誤解のないように確認しておくが、今問題にしているのは、工場・事業所・建設現場・交通機関などから発生する騒音とか生活騒音などではない。もちろんこれらの騒音も至る所でトラブルを引き起こしているが、この稿の論点ではない。
 街・商業施設・店舗・駅舎・車両など、我々が自宅・職場・学校の次に多くの時間を費やさねばならぬ空間を埋め尽くしている〈うるささ〉、本来なら無音であるはずの空間に何らかの意図をもって人工的に作られた〈うるささ〉、無数のスピーカーから発せられる、BGM・電子音・合成音声などの〈うるささ〉のことを述べている。

 ドイツ哲学の先生である中島義道さんが『うるさい日本の私』という本を書いておられる。なにぶん図書館で借りて読んだ本なので今手元になく、引用することが出来ないのだが、今ここで述べているのと同じ趣旨のことを怒りを込めて展開されている。
 中島先生のすごいのは、文章で批判するだけでなく、個々の事例に対し実際に抗議行動をされていることだ。ところが、どんなに抗議を繰り返しても、相手の反応は芳しくない。そんなこと私に言われてもねえ、だって、この日本じゃ、だれもがそうしているじゃありませんか …… 、

 ここからはまた私の我田引水になるのだが、事態をここまで膠着化させている根本は例のマーケティング理論である思う。この理論は、市場における人間を消費者としてのみ理解しようとする。あるいはまた、その購買動機を制御可能なものと見なしている。それを操るのがマーケティングだと。商業施設や店舗におけるBGMやアナウンスは,消費者を購買行動に向かわせるための戦略項目(おお、何と大げさな言い方)の一つなのである。
 個々の小売店の店長とかマネージャーがどこまでこの戦略とやらを信じているかは知らない。でも彼らが、彼らの良識とか美意識とかに基づいて、BGMや館内放送を止めたとしたらどうなるか? 
 本社サイドから現場査定の担当者が、査定マニュアルを持ってやって来てこう言うだろう、何で音楽が無いんだ、こんな活気のない売り場だから売上げが伸びないんだ、もっとお客様に買って頂いただける仕掛けを作らないと駄目じゃないか!
 この査定担当者だって、自分の言っていることが本当に有効なのだと信じているかどうか分からない。でも、彼はそれを止める勇気を持たない。だって他の店舗も、競合他社も、みんなそうしているじゃありませんか!
 こんな風に、舶来のマーケティング理論と日本型横並び意識が奇妙な形で融合して、ドツボにはまりこんでしまう。

 しかし〈ありとあらゆる所がやかましい日本〉はもっと深刻な破壊を起こしている。
 これは大層恐ろしい話である。 
 待て、次回!
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