難波駅を出た電車がわずかに右にカーヴすると、つり革に掴まっていた男たちは一斉に右側の窓から外を見やった。
 ほんの一瞬、大阪球場のスコアボールドが見えるからだ。
 私の家は球場から1キロ以上も離れていたが、物干し場にあがると、観客のあげる歓声が風に乗って流れてきた。
 確かに昭和のある時代まで、私たちは「自分の五感で直接」社会の動きを感じとっていたのだ。                           






本文でスポーツには全く関心がないと書きましたが、それは思春期より後のこと。小学生のころまでは、私も著名な選手に憧れるごく当たり前の子どもでした。国際大会では、日本人選手に必死の声援を送っていたものです。




記憶する一番古い国際競技大会は、メルボルン・オリンピック(1956年)です。




南半球だから「夏期オリンピック」といっても年末に近い頃の開催でした。でも、ほとんど時差がないので、ライブの中継がありました。もちろんテレビではありません、ラジオです。シャー、とか、ウヮーン、とかいうノイズに阻まれて、アナウンサーの必死の実況もよく聞き取れません。ノイズは、波状的に多きくなったり小さくなったりするので、ノイズが途切れた瞬間に、聴覚を集中させるのです。エッ、終わったの? 勝ったの? レースが終わっても、確信の持てる言葉が聴き取れるまで、ラジオの前に釘付けになっていました。でも、あれはノイズだったのか、もしかして観客の歓声だったのか、いまだに分かりません。

数えてみればその時私はまだ8歳で、ラジオにかじり付いていた記憶は、もしかするともっと後の経験と混同しているのか、と疑ってもみたのですが、当時のラジオの番組表をアップしてくれている人がいて、やはり私はメルボルン・オリンピックの中継を聴いていたのだ、と思います。





水泳男子平泳ぎ 200メートルでは、古川勝・吉村昌弘の両選手がワン・ツーフィニッシュを決めました。古川勝と言えば「潜水泳法」。飛び込んでから50メートル・ターンの寸前まで、息継ぎ無しで泳ぐのです。驚いた国際水泳連盟は、すぐにこの「潜水泳法」を禁止しました。大人たちが、西欧人なんて勝手なもんや、と憤っていたのを覚えています。





当時まだ高校生だった山中毅選手が、自由形 400メートル・1500メートルの2種目で銀メダルを穫りました。





金メダルの古川勝選手より記憶が多彩なのは、その後も長く活躍し、優勝したマレー・ローズ選手やジョン・コンラッズ選手と競りあう姿を、テレビで何度も見ているからでしょう。

メルボルンオリンピック
400メートル自由形決勝
(左)2位、山中毅
(右)1位、マレー・ローズ



メルボルンオリンピック
1500メートル自由形決勝
(左)1位、マレー・ローズ
(右)2位、山中毅




 オリンピック終了後、日米とか日豪とかの水泳大会が盛んに行われるようになり、普及し始めたテレビがそれを中継放送しました。東京なら神宮プール、大阪なら扇町プール。「第五のコース、山中毅くん。ニッポン」。「何々のコオーース」と長音をことさらに長く引っ張るアナウンスが印象的で、子供たちが真似をしていました。

1961年の全米選手権400m自由形
(上) マレー・ローズ
(下) 山中毅





山中毅さんの残された談話が読めるサイトがあります。
運動選手がまだ「アスリート」などと呼ばれていなかった時代。選手たちがどの様な気持ちで競技に望んだのか、が良く分かります。貴重な証言であす。ぜひ、読んでいただきたい。
小学生の私が、山中毅さんらの活躍に熱狂したのに、なぜ、その後冷めてしまったのか? その理由が分かる気がします。ほんの一部分だけ引用させていただきます。

子供の頃、夏の間舳倉島(へぐらじま)と言うところへ町全体が移動して、あわび、さざえ、漁をしたりして秋に帰ってくる。相撲をやっていたが水泳は出なくても、1位のノートと鉛筆は貰えました。母親は海女(あま)で私が生まれる数日前まで海に潜っていたので、山中は生まれる前から海で泳いでいたと言われた。いつ頃から泳ぎ始めたのかは覚えていません。
肺活量は8000cc、大学の時に測ったが測りきれなかった。練習らしい練習は早稲田で小柳さんのコーチで教わった時から3年間ですかね。一番多く泳いだのは1日40000mぐらい泳ぎました。

水泳から得たことは、がまん強くなります。
今は厳しく管理されてサイボーグ化してきて、選手の個性がないと思う。

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誰が憂へているか? 五輪後の経済停滞を。
  −−− オリンピックなんか、 止めてしまえ。 その1
                  (平成30年 8月28日)



 こんな話をすると、今頃になって何を言いだすのか、とか、この反日爺ぃめ、とか罵られそうだが、今の私には、根強く持続する『ある事柄』に関する違和感がある。それはきちんと表現しておいた方が良いと思う。
 その『ある事柄』とは、2020年夏に行われるという『東京オリンピック』のこと、である。

 あと2年! 
 金メダル何個! 
 がんばれニッポン!…… 、

 世間が騒々しくなるにつれ、違和感は増殖し続け、今では押さえ込む事の出来ない嫌悪感にまで膨れあがっている。

 私は、もう、オリンピックなど止めてしまえ、とまで思っているのだ。


狂騒は 許容できる限界を超えている


 これは間違いなく「社会的」な問題なのだが、今回は、自分の性癖や趣味嗜好から話を始めたい。聞かされる方は、退屈至極、面白くもなんともないだろうが、ちとご辛抱を賜りたい。
 じつは私、スポーツ・並びにスポーツ観戦に全く興味が持てないのである。

 一昔まえ、通っていた医院でのこと。ある日診察券を示したら、受付の女性が腫れぼったい眼を向けて、昨夜は興奮してしまって、次々と、もう、朝まで …… 、なんて言うのである。なぜ唐突に、そんな色っぽい話を漏らすのだろう。私は大いに戸惑ったのだが、さらに、貴方はどうでしたか、と踏み込んで来る。はぁ、とか、まぁ、とか、曖昧に言葉を濁して、待合室に逃げ込んだのだが、そこに置かれた新聞の大見出しを見て、彼女は、遠い異国の地で行われている冬期オリンピックの中継を夜っぴて観ていたのだ、と気づいた。

 さらに一昔まえ、盆明けのころ、取引先の工場を視察する機会があった。新工場が落成したので、この機会に是非と招待されたのである。日帰りにはきつい距離だったので、まる2日間のスケジュールを提案していただいたのだが、多忙を理由に、前日の夕刻出発に変更してもらった。私も上司も宴席を好まぬタイプなので、現地到着即就寝のスケジュールにしたのである。
 さて、双方二人ずつが同乗して、夕暮れの街を車が走り出した。時候の挨拶が尽きかけてころ、先方の部長さんが、そう、そう、ヒロシマが優勝しましたね、一点差ですよ、と話題を振った。上司が知らん顔をしているので、私が、そうですね赤ヘル軍団はねばり強いですね、と答えた。言ってしまってから、いくら赤ヘル広島カープが強いと言っても、八月に優勝を決めるとは、ちと、早すぎる、何か間違った事を言ったかな、と悟ったのだが、車内が急にしんとしてしまたので、そのままにしておいた。夜、宿に置いてあった新聞で、部長は高校野球のことを言っていたのだと理解した。

 要するに、私にとっては、オリンピックも夏の甲子園も新聞の見出し以上のものではないのだ。
 でも、誤解しないでいただきたい。自分がスポーツ観戦に興味が無いから、オリンピックなんか止めてしまえ、と言っているのではない。
 スポーツを愛し、スポーツ観戦を楽しみにしている人がたくさんいること、いや、ほとんどの人が一つや二つ愛好するスポーツを持っていることを、私は理解している。多様性の尊重は市民社会の原則であるし(この場合、私は圧倒的に少数派なんだろうが …… )、それに私は、様々な意味合いにおいて原理主義者ではない。お金がかかるすぎるとか、政府主導のプロパガンダであるとか言った批判があっても、それを心から楽しみにしている国民が多数いるなら、オリンピックだってイイじゃないか、と思っていた。
 ただし、許容できる限界を越えるまでは …… 、



現代史の常識;オリンピック後には必ず経済停滞が起こる


 オリンピックは国家的事業なのだから巨額のお金がかかる。これは、当然である。
 だが、巨額の費用がかかるということと、ドブに捨てるがごとき「際限なき公金の無駄遣い」とは全く別のことである。

 実行の段になると、当初の計画がいかに杜撰なものであったかが露呈し、次から次へと予算が膨れあがる。各省庁や自治体で費用分担の押し付け合いをしている図を見せつけられるだけなら、苦笑して済ますこともできるだろう。だが、無駄遣いが増えれば増えるほど、この無駄遣いが終わったあとでやってくる「つけ」がより深刻になることを、一体、誰が憂えているだろう。
 実務担当者は自分の職務分掌分の進捗だけが関心事だろう。でも、もしかしたら、こんなに無駄遣いをして良いのだろうかと不安を感じているかもしれない。だが、それを心配するのは「今の、オレの」仕事ではないと思い直し、金メダル! 金メダル! の喧噪で不安を掻き消そうとしているのだろうか。

 だったら、最高責任者たち、つまり安倍や麻生や小池らのは、「オリンピック後の経済停滞」に思いをはせているだろうか? どうも、そんな気配は一向に窺えない。安倍は先から党総裁三選に向けての支持の取り付け・根回し・票読みに没頭しているし、麻生は相変わらず時代錯誤のボケかまし連発で、もう批判の対象からも外れてしまった。小池は当初こそ、レジェンド、とか、レガシー、とか、小池イングリッシュでご機嫌伺いをしていたが、もうダンマリを決め込んでいる。
 7月、急に「東京の夏は暑いこと」に気づいたのか、多少慌てた様子だったが、安倍は「サマー・タイムなんか良いんじゃない?」と言ったきり。小池は「朝夕にまく打ち水は、江戸の知恵で、おもてなし」などと言って失笑を買っている。季節の巡りにさえ想像力を喪失してしまっている人たちに、「オリンピック後の経済停滞」という概念の灯がともるとは思えない。だが、

 オリンピック後には必ず経済停滞、最悪の場合には経済破綻が起こる。
 これは現代史において常識化している。法則性と言っても良いぐらいだ。

 冗談抜きで、政府首脳や官庁のトップたちはどう考えているのだろう。
 何とかなるさ、日本はスペインやギリシャやブラジルとは違う、などと安易に受け流しているのだろうか。それとも、何も考えていないのだろうか。借金まみれの男がよくやるように、考えないことにしている、のだろうか。
 かっては、オリンピック招致・開催による財政的困難に盛んに言及していたジャーナリズムも、いまや、祝賀ムードを煽り立てることに必死だ。いわゆるリベラル系のメディアも含めて。


招致決定までは、ジャーナリズムも冷静だった。


 ネットで「オリンピック後の経済停滞」と検索すると、多くの記事や解析データがヒットする。そのなかから、もっとも見易いグラフを一つ選んでみた。『五輪前後の開催国の成長率』というグラフである。



 2012年 9月、ロンドン五輪終了直後の『日経電子版』の記事にあるグラフである。『五輪後に景気が悪くなる理由 夏季6大会で例外は1つだけ』とタイトルが付けられている。
 これは、2013年の東京五輪招致決定「前」の記事であること、に注意していただきたい。読んでいただければ分かるように、取材は客観的であるし、文体は落ち着いている。予想される困難点もきちんと指摘されている。承知決定後の「異常な加熱」以前は、こんな風に新聞記事も冷静だったのである。ちなみに、取材先は、いかにも日経らしい選択で、経済・金融、シンクタンク、東京都、商工会議所、等。「反日・サヨク」陣営の人たちではありません、念のため。
  https://style.nikkei.com/article/DGXDZO45592940R30C12A8W14001

 グラフのデータは "IMF"の統計が元になっている。客観性においてベストでしょう。
 さて、内容。ソウル(88年)から北京(08年)までの6大会の例が示されているが、1例を除き、ことごとくオリンピック後の経済は著しく停滞に向かっているのが分かる。破竹の勢いであったあの中国でさえ、 15%台から 8%台へと5ポイントも成長率を下げている。スペインに至ってはマイナス成長。1つの例外は、アトランタ(96年)であるが、これはアメリカ大統領選と重なったためと、記事は解説している。選挙フィーバーの去ったあとは、アメリカも他と同様、成長率低下に転じている。そして,周知のように、ギリシャは経済破綻にまで追い込まれたのであった。

 経済停滞の原因は、端的に言えば「五輪は一種の公共事業。前倒しで国や企業が投資したり、市民が消費したりした反動が出てくるのです」と説明されている。もっと有り体に言えば、「後先を考えず、目一杯借金をして、派手に散財をして遊んだ」というだけのこと。昔の品川遊郭なら、佐平次が居残るという手で時間稼ぎも出来ただろうが、国家や自治体も、企業と同じように「年次決算」なんだぜ。
 過去の日本も例外ではない。64年夏期東京、98年冬季五輪長野も同様であった。特に、国よりも開催自治体の打撃が大きかったという。
 現在の日本は久しく「ゼロ成長」が続いている。
 はたして、五輪後は、どうなるのか?

 記事から2カ所だけ、引用しておこう。記者は、2020年五輪に立候補済みだった東京都にもインタビューしている。
 
 応対してくれた招致計画担当課長、木村賢一さんは「財政悪化を不安に思う人も多いようですが、既存施設を改装して使うなど工夫します」と強調する。選手村は都の土地に民間が造り、終了後は住宅に改装して売却する。運営費はチケット収入や国際オリンピック委員会の予算などで賄い、税金は使わないそうだ。

 「運営費はチケット収入や国際オリンピック委員会の予算などで賄い、税金は使わない」だなんて、大ウソこいてます。それとも都庁職員は、天下ってくる公的方針をそのまま信じてしまうような、騙されやすい無垢な人たちばかりなのかな。
 もう一つ。記事の結びは、これ。

 東京は20年大会にも名乗りを上げ、招致活動を展開しているが、 IOCの世論調査で住民の開催支持率は47%と低い。ライバルのスペイン・マドリード、トルコ・イスタンブールは70%を超えており、関心をどう高めるかが課題になっている。

 「住民」とあるから、日本全体ではなく東京都に限定した調査だと想像するのだが、「開催支持率は47%」だったんですね。半数以上が「五輪? 何をいまさら」と感じていた大事なのは、調査の主体が「 IOC」であること。日本の各メディアが行う世論調査は、政府の方針に忖度して、支持率アップに誘導するような設問構成になっていると思われる。まったく信用できない。だが「 IOC」の場合は、他の候補地との比較という、実務上の必要から実施された調査である。データ採集極めて客観的であろう。それが開催支持率が半分以下だと告げているのだ。

 後で述べるが、2016年五輪へも東京都は立候補していて、一回目の投票はトップの得点で通過しているのに、第2次投票で落選した。理由は、この「開催支持率の低さ」であった。その時の支持率は「 55.5%」。もともとオリンピック開催に対する期待度はこの程度だったのである。それが、東日本大震災の経験を経て、さらに「8.5%」低下し過半数を下回った。この「 47%」と言う支持率が、大震災翌年の、東京五輪に対する期待度の、ありのままの姿である。

 今、テレビをつければ、どのチャンネルも、あと2年、金メダル、金メダル、と騒いでいることだろう。テレビが煽っておるだけなのか、国民が馬鹿になったのか、私には,分からない。


石原慎太郎が舟を用意し、安倍晋三がそれに乗り込む。


 わが日本は、よほど、オリンピックや万博の招致に熱心な国であった、という印象がある。少し昔のことになるが、思いだしてみよう。上で述べたように、2016年の開催にも東京は招致に立候補していた。
 言い出しっぺは、東京都知事石原慎太郎。2006年のことである。
 ここで注目すべきは、石原慎太郎がオリンピック招致に動き出した時点が、ちょうど安倍晋三内閣の成立と一致することである。石原本人がどこまで自覚しているかは不明だが、彼は、保守本流自民党の批判勢力を自認しているだろうが、実は、後に自民党が「政策」として取り入れる「プロパガンダ」を先導している、という経過的事実がある。時系列を確認しておこう。

2006年 3月 8日、東京都議会がオリンピック招致を決定。
    4月 1日、東京都庁内に招致本部設置。
    9月26日、安倍晋三第1次内閣成立。
2007年 2月18日、第1回、東京マラソン開催。オリンピック招致のアピールが目的であった。
    9月11日、安倍改造内閣、2016年夏季オリンピック東京都招致することを閣議了承。
    9月26日、安倍晋三、総理大臣辞任。

 これを見ると、さらに3年前、これと同じパターンが出現していたことが想起される。
 あの『七生養護学校事件』である。【註】
 石原慎太郎が性教育とジェンダーフリー教育に対して攻撃を開始し、その後、安倍晋三がそれを受け継いで、抑圧・弾圧を強化するのである。その流れは、現在の杉田水脈の『「LGBT」支援の度が過ぎる』まで、保守本流の中に綿々と受け継がれているのである。
 【註】これに関しては『ヘイト発言 : 人間の倫理性に対する攻撃--その6』を参照ねがいます。
  http://ichiaku-chiryoku.sakura.ne.jp/seikei_045.html

2003年7月
  2日、東京都議会において、土屋敬之(当時民主党)は、七生養護学校の授業内容を「世間の常識とかけ離れた教育だ」と述べ、都教委に「毅然とした対処」を要求。知事石原慎太郎は「異常な信念を持って、異常な指示をする先生というのは、どこかで大きな勘違いをしている」と答弁。7月4日、古賀・田代・土屋の『石原三バカ烏』が、産経新聞の記者を引き連れ、七生養護学校に乗り込み、事件を起こす。

2005年1月
 自民党、「過激な性教育・ジェンダーフリー教育実態調査プロジェクトチーム」を発足させる。座長は安倍晋三。事務局長山谷えり子。全国調査を行い約3500の事例を集め、「過激な」性教育が行われるなど教育現場が「異常な状態」になっていると訴えるキャンペーンを展開。

 つまり、石原慎太郎の「太陽なんたら」や橋下徹の「維新なんたら」は、保守本流の本音代弁者、保守本流を支えるのトリックスター、としてしか機能していない。
 ほらほら、まだあるぞ。あの『尖閣諸島国有化』しかり。最近では『統合型リゾート(IR)整備推進法』また、しかり。

 オッと、横道へそれてしまった。
 東京五輪への喧噪が許容できる限界を越えている。この本筋に戻っていこう。
              
                                       (続く)

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 −−【その1】了−− 

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