難波駅を出た電車がわずかに右にカーヴすると、つり革に掴まっていた男たちは一斉に右側の窓から外を見やった。
 ほんの一瞬、大阪球場のスコアボールドが見えるからだ。
 私の家は球場から1キロ以上も離れていたが、物干し場にあがると、観客のあげる歓声が風に乗って流れてきた。
 確かに昭和のある時代まで、私たちは「自分の五感で直接」社会の動きを感じとっていたのだ。                           
























司馬遼太郎さんが通った
御蔵跡図書館









































『天神山』の後半は、
「葛の葉」のパロディになっている。
この絵は、
歌川国芳の描く『葛の葉』1846年


































































































































































































浪花百景
道頓堀角芝居
(国員画、安政年間1854〜1860)
道頓堀は「清流」である。





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オリンピックや万国博という国家的プロジェクトの狂騒が、
かけがえの無い伝統的文化を破壊する。
 −−− もうオリンピックなんか、 止めてしまえ。 その5
                  (平成30年12月25日)



 

『御蔵跡』という地名


 私が成人するまで住んでいたのは、大阪市南区、東に 100メートル行けば天王寺区、南に50メートル行けば浪速区、という東南の隅で、御蔵跡町(おくらあと)といった。地元の人は「おくらと」と読んで、大阪人の常として秀吉びいきであるから、「太閤さんの米倉があったさかい『御』(おん)ちゅう字ぃがついとるんや」と自慢した。秀吉の時代までさかのぼれるかどうかは疑問であるが(後で触れる『元禄四年(1691年)の古地図』では、道頓堀より南は市街地をはずれていて、紀州街道筋以外は、『田』『畑』と記されている)、江戸中期以降には、縦横に走る堀の水運を利用して幕府御用米の米倉があったことは確かである。地名辞典で調べれば、『御蔵跡町』という地名となったのは明治6年のこと、とある。いずれにせよ歴史的に由緒ある地名なのである。

 司馬遼太郎さんが、出征するまで通いつめ「図書館にある本の全部といってもいいくらい読んでいた」と言及している『御蔵跡図書館』は、私の家から南へ進んで、通称『下駄屋町筋』を越えてすぐの右手にあった(はずである)。なにせ図書館は昭和20年の空襲で焼けてしまっていて、その跡地あたりに小学校と幼稚園が建っていた。その東南側の広場が『御蔵跡公園』で、小学生だった私たちは、公園の隅で定住している「ルンペンのおっさん」たちを交えて野球をして遊んだ。都心部では希な、球技のできる広さの公園だったわけである。
 確か、落語の『天神山』だったと思うのだが、その頃は、「変ちきの源助」が花見ならぬ「墓見」に出かけるくだりを、「紀州街道を超え御蔵跡から寺町筋を下って着きましたのが一心寺」という風に語られていた、と記憶する。まだテレビが一般に普及する以前のこと。夕食後は、ラジオにかじりついて、漫才・落語・浪曲を聴くのが楽しみであった。


『御蔵跡』を古地図で探してみる


 インター・ネットとはまことに便利なもので、試みに「大阪 古地図」で検索すれば、さまざまな古地図を見ることが出来る。『原版:元禄4年(1691年)』などと云う古い時代のものもある。ずっと時代を下って、『文久3年(1863年)改正増補国宝大阪全図』まで来ると、もう私の記憶する大阪の街並みとの対応関係がほぼ読み取ることが出来る。これは多くのサイトで閲覧出来るが、カナダの"THE UNIVERSITY OF BRITISH COLUMBIA"のサイトからは、大きな "jpg"画像がダウンロード出来る。拡大しても細部がぼやけることがないので、飽かずに眺めて楽しめる。その古地図から、変ちきの源助が歩いたあたりを切り抜いてみた。
  https://open.library.ubc.ca/collections/tokugawa/items/1.0216612



 地図は「東が上」で書かれている。
 ほぼ中央の「」で囲んだ部分に『御蔵跡』の文字が確認できる。私の家があったのは、その左の小さな「」あたりだろう。
 右矢印「」を2本引いたが、
 下の「」が紀州街道(現、堺筋)、左隅の「」が『日本橋』
 上の「」が寺町筋(現、松屋町筋)、右隅の「」が『一心寺』だと思われる。文字が判読し難いのだが、その南が『茶臼山』で、北隣に『ヤス井天ジン』『逢坂ノ水』があるから、間違いないだろう。

 落語『天神山』の後半は、今度は「胴乱の安兵衛」が『安居天神』で狐を助ける話となるのだが、
この辺りの位置関係は、落語ではこんな風に再現されてます。

 一心寺行ったら、まだ(若い女の舎利頭が)落ちてるやろか。
 さぁ、もぉ一つぐらいやったら、あんのん違うか。
 そぉか、ほな俺も拾ろてくるわ。
 変わった男で、そのまま酒肴用意して一心寺やってまいりましたが、そぉ幾つも舎利頭のありそぉなはずがない。あっちウロウロ、こっちウロウロ、ポイッと出ますと向かいが天神山、安居の天神さんへやって来よった。

  http://kamigata.fan.coocan.jp/kamigata/rakugo67.htm


『天神山』の花見風景を 広重の絵で観てみる


 この『ヤス井天ジン』の花見風景を、あの安藤広重が描いた浮世絵で観ることが出来る。



 右上に『浪花名所圖会』『安井天神山花見』、左隅に『廣重筆』、とある。
 天保5年(1834年)頃の作であるから、先の古地図が描かれた約30年前頃の風景である。
  『国立国会図書館デジタルコレクション』
  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1303490?tocOpened=1 

 落語のほうへズンズンと踏み込んでしまったのだが、ここらで、話の本筋へもどります。『御蔵跡町』の話をしていたのでした。(汗)


『御蔵跡』の消失


 ところが、1980年代はじめ、行政が私の動静を監視していたわけでは無いのだろうが、私が奈良に転出したあとすぐ、この『南区・御蔵跡町』という地名は消失してしまう。何と『中央区・日本橋』になってしまっていたのである。

 確かに、堺筋が道頓堀に架かる日本橋から南は、恵美須町まで、日本橋筋一丁目、二丁目、……、と呼ばれていて、日本橋筋といえば、東京の神田・秋葉原の規模には及ばないものの、古書店街・電器店街として繁盛し、大阪人には馴染みのある地名であった。(現在はさらなる変貌を遂げているらしいが …… ) だが、それは、あくまで、日本橋筋沿いだけの話であって、一筋裏手に入れば、ここが日本橋であるという意識は誰も持っていなかった。事実、商店に配達などを頼むとき、「御蔵跡」と言えば、「ああ、黒門市場を越えたあたりの」という答えが返ってきたものである。
 役場が合併するのは役場の勝手である。だが、区名・町名まで勝手に変える権限を、役場は持たないはずである。業務の簡略化・能率化を云うのなら、1960年代の終わり頃から制定された郵便番号を、そのまま転用すれば済む話ではなかったか。あれは郵政省の決めたこと、市や区の管理方法は自分らで決める、などと対抗心を燃やしたのだろうか。

 司馬遼太郎さんの名前で思い出したのだが、平成12年に行われた『司馬遼太郎記念学術講演会』という催しで、桂米朝さんが『司馬遼太郎と芸能』と題して話をしている。聞き手は、当時立命館大の教授だった木津川計さん。そのなかに、次のようなやりとりがある。

木津川: …… 詩人の杉山平一さんに「私の大阪地理」といういい詩があります。「東西に折れて 炭屋町 畳屋町 笠屋町 玉屋町 鍛冶屋町 竹屋町 …… 」というのが、今は全部ありませんね。瓦屋町だけが残っていますが、地名というのは歴史の索引ですから、あれを消してしもうたらもう引きようがないんです。
米朝 :キタでも樽屋町とかはなくなったんですね。今は老松町もないようになったかな。
木津川:老松町も真砂町もなくなって西天満になりました。たしかに地名というものは、文化の遺産だと思います。

 『司馬遼太郎記念講演会より 日本文化へのまなざし』(河出書房新社 228p.)


地名は文化の遺産


 木津川さんは「地名は文化の遺産」と言っている。これは決して大げさな言い方ではない。何も高邁な学術的調査・研究をイメージする必要はない。ここで挙げられている町名は、大阪のミナミやキタの人間にとっては、「あの店があり、あの人が住む、あの町」とイメージできる馴染みの町名であった。だから私は、『文久3年』の古地図を見て、あれこれ想像たくましくして、楽しむことが出来るのである。
 だが、御蔵跡町が日本橋○丁目○−○に、老松町が西天満○丁目○−○に変更された後、大阪で育った人たちは、私と同じように『文久3年』の地図を気楽に楽しむことは出来ないだろう。地名が分からないのだから、地図の「解読」は不可能となる。

 いままで『天神山』は何度も聴いてきたが、いつ頃からか、ヘンチキの源助は、道中の経過をすっ飛ばして、いきなり一心寺に到着するようになった。紀州街道とか御蔵跡とか寺町筋などと言っても、聴き手には通じなくなったからだろう。だが、一心寺や安居天神は、舎利頭が転がっていたり狐が捕れたりする所、つまり大坂の町が途切れ田畑や森林と接する所、として場面設置がなされている。紀州街道・御蔵跡・寺町筋という道中を語ることで、その地域に不案内な人でも、源助の歩いた距離感が実感出来たわけである。道中を省略することで、落語はその表現している意味の一部を喪失せざるをえなかった。生前、米朝さんは、「まくら」で解説しておかないと、語れない落語が多くなった、と嘆いておられたが、解説仕切れぬものは、こんな風に省略するしかないだろう。
 世は移り変わるものだから、風俗や生活習慣が変化したり消滅するのはやむを得ぬことであろう。だが、「行政があえて地名を変えなければならぬ必然性」は全く無いはずである。

 行政は、何のためらいも無く「文化の遺産」である「地名」を変更した。だが、廃棄・破壊された「文化の遺産」は「地名」だけではなかった。我々がそこに住み、往来し、記憶に留めてきた「街並み・町の景観」もぶち壊してきたのである。



浪花八百八橋


 むかし『浪華八百八橋』と言う言葉があった。
 大阪国道事務所が『ひと みち くらし』というサイトを公開しているが、そのなかに『大阪八百八橋』というコラムがある。まこと簡便的確に「浪華八百八橋」の説明をしているので、全文を引用させていただく。

 水の都・大阪。
 江戸時代、大阪は、「江戸の八百八町」「京都の八百八寺」と並んで、「浪華の八百八橋」と呼ばれていました。これらの言葉は、本当に 808ヶ所の寺や橋があるではなく、それほどの勢いで寺や橋が立ち並んでいたことの比喩的表現です。
 となれば、大阪と江戸との橋の数を比べれば、当然大阪の方が多いはずですが、実際の数は江戸の約 350橋に対して、大阪には約 200橋ほどしか架けられていませんでした。
 では、なぜ大阪が八百八橋の町と呼ばれていたのでしょうか。
 その答えは、誰が橋を架けたのかにあります。
 江戸の橋は、約 350ある橋の半分が公儀橋と呼ばれる幕府が架けた橋でした。一方の大阪では、公儀橋は「天神橋」「高麗橋」などのわずかに12橋。残りの橋は、全て町人が生活や商売のために架けた「町橋」でした。町橋に対する幕府からの援助はなく、町人たちは自腹を切って橋を架けました。
 自腹を切ってでも橋を架けた町人たちのこの勢いが、「浪華の八百八橋」と呼ばれる所以です。


  https://www.kkr.mlit.go.jp/osaka/commu/road_dat/bridge.html

 『浪花八百八橋』という言葉には、浪速の人々の、この街は自分たちが造りあげてきた街である、という自負心が込められていたことが、よく分かる。
 明治以降、大阪の街が巨大化するに従って、橋の数も当然増加した。私が子供の頃聞いた話であるが(たぶんラジオで)、物好きな人がいて、いま大阪に何本の橋が架かっているか実際に数えてみたらしい。何と二千を越えていた、という。大阪は、川と堀と橋の街だったわけである。「東洋のベニス」を自負し、戦後いち早く、大阪の復興を願って始められ夏の催しは『水都祭』と呼ばれた。花電車が走り、淀川の河川敷では花火大会が行われた。


堀の汚染


 ところが子供の頃の私は、正直言って、「大阪の水」とは、それほど自慢できるものではない、という印象を持っていた。なぜなら、当時の「堀」の水は随分と汚れていたから。
 旧淀川の本流であった「大川、土佐堀川・堂島川、 ……」は、「川」という名の通り「流れ」があるからだろう、多少濁ってはいたが、汚れている、とまでは思わなかった。都心部を流れる川なのだから、まあ、こんなもんだろう、という風に割り引いて見ていたのかもしれない。
 だが、「堀」の水は、どこもかしこも黒ずみ淀んで異臭を放っていた。『長堀』などの比較的幅が広い箇所は、まだ木材の貯蔵に使われたりしていて、男たちが、水に浮かんだ丸太の上をぴょんぴょんと飛び移り、先端に手鉤の付いた竹竿を器用に扱って、木材を移動させている光景をよく眼にしたものである。
 ところが、私の家の近くを流れていた『高津入堀』ぐらいの川幅になると、もう『どぶ川』としか言い様がなかった。ゴミや腐った玉葱や小動物の死骸などがゆっくりと流れていた。流れが止まると沼気の大きな泡がポコポコと湧いてでた。そして干満が逆転すると、一度流れ去ったゴミなどが、また戻ってくるのである。

 一体、いつ頃から、水都大阪の水はこんなに汚れてしまったのだろう。だが、今まで、この問題の歴史的経過について書かれた書物に、私はついぞ出会ったことがない。それほど、書く気の起こらない、研究するに値しないテーマなのだろうか。「水都 大阪 水」等で検索しても、行政主体のお祭り騒ぎの記事がヒットするばかりである。

 しかし私は、たった一つの「状況証拠」から、『高津入堀川』の水があれほどまでに汚れたのは、そんなに古いことではない、と考えている。小学生の頃、『高津入堀川』にかかる橋のたもとに、次のように書かれた立て札を見た記憶があるからである。何せ、小学生だった頃の記憶である。正確な再現は無理であるが …… 、

 危険 ここで 魚を採ったり、泳いだりしないやふにしませう

 この辺りは空襲で丸焼けになった、と聞いていた。でも、この立て札はその文体といい、古びようと言い、戦後のものとは思えなかった。住宅から離れ、土手にポツンと立てられていたから延焼をまぬがれたのであろうか。小学生の私は大いに困惑したのであるが、どぶ川を前にして驚愕の事実に気がついたのである。

 この立て札が立てられた頃には、ここで、魚釣りや水泳が出来たのだ!

 幸いネットで、昭和12年頃の道頓堀の夜景写真を見つけることが出来た。これで見る限り、道頓堀の水が、小学生の私が見ていた道頓堀ほど汚れているとは思えないのだ。




総力戦の戦争が、水都を破壊した。


 つまり、水都大阪の水は、総力戦としてすべての人的能力を戦争のために費やした時代と、戦後のなりふりかまわぬ経済復興の、合計30年ほどの短期間であそこまで汚されてしまったのである。天下の台所といわれた大坂の、通商・交易のための最重要インフラを、維持・整備し、廃棄物・汚染物を処理するシステムを、あの戦争が破壊したのである。

 行政は、この問題をどのように解決しようとしたのか。

 ウィキペディアの『高津入堀川』には、たった三行だが、この堀の略年表が書かれている。

  1734年(享保19年) 開削。
  1898年(明治31年) 延長開削。
  1968年(昭和43年) 埋立。


 ここに昭和16年(1941年)の太平洋戦争の開始が、致命的汚染の開始である、という私の仮定を一行割り込ませると、こうなる。

  1734年(享保19年) 開削。
  1898年(明治31年) 延長開削。
  
1941年(昭和16年) 致命的汚染始まる
  1968年(昭和43年) 埋立。


 単純に引き算をしていただきたい。高津入堀川は 200年以上、水運の重要な役割を担い、水都浪華の誇りとして存続してきた。だが、戦争のため、たった30年足らずで致命的に汚染され、昔の流れを取り戻すこと無く、無慈悲に埋め立てられてしまうのである。
 高津入堀川だけではない、他の多くの堀もほぼ同じ時期に埋め立てられた。そして『阪神高速道路として活用』されるようになる。今日も多くの車両が、埋め立てられた堀という墓碑の上を走行しているわけだ。

 埋め立ての、1968年(昭和43年)という年号に注意していただきたい。
 あの大阪万博の2年前なのである。


 これは、単なる偶然ではない。政府も、地方行政も、オリンピックや万国博という国家的プロジェクトの狂騒のなかで、かけがえの無い伝統的文化を破壊することで、処理できぬ問題の解決を図ろうとする
 つまり、政府・行政の無策・無能が、文化を破壊するのである。


 最後に、『高津入堀川』といっても、もう埋め立てられてしまったのだから、何処を流れていたのか地図を見てもお分かりにならないだろう。幸い『大正13年大阪南区地図』という古い地図を見つけたので、一部をコピーさせていただく。道頓堀から南に分岐する流れがそれである。


 
 一度東に向きを変え、再び南に向きを変える地点から、現在では高層道路になっている。環状線から松原線に入り、夕陽丘出口の手前あたりが、その位置に当たる。


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 −−【その5】了−− 

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