難波駅を出た電車がわずかに右にカーヴすると、つり革に掴まっていた男たちは一斉に右側の窓から外を見やった。
 ほんの一瞬、大阪球場のスコアボールドが見えるからだ。
 私の家は球場から1キロ以上も離れていたが、物干し場にあがると、観客のあげる歓声が風に乗って流れてきた。
 確かに昭和のある時代まで、私たちは「自分の五感で直接」社会の動きを感じとっていたのだ。                           

『惑星ソラリス』(1972)の監督
アンドレイ・タルコフスキー


原作『ソラリスの陽のもとに』の
スタニスワフ・レム


『惑星ソラリス』のポスターを何枚か。
まず、本家ソヴィエト(らしい)


原作者のポーランド(らしい)


イタリア版(らしい)
抽象性が消え、エロチックになる。


英語版
「悪夢が現実になる惑星」
なんて書いてあって、半分ネタバレ


日本版
「そこには不思議な姿の生命が存在し、その豊かな海は理性を持つ有機体と判明!」と、こちらは完全にネタバレ。コピー全体も微妙に的外れ。
でも、黒沢明なんかの尽力で、やっと5年後に公開されたのだ、『岩波ホール』で。大手は何をしていたのだ。


黒沢明(左)と
タルコフスキー(右)
下手くそなスナップ写真である。これは中央部分だけを切り取った。映像の巨匠も写される側にまわると、普通のおじさんになってしまうのだろうか。


映画の冒頭
揺らめく水草


種々のあいだを歩く


見事な樹


池の向こうに自宅が見える


首都高速の場面


首都高速の場面の最後




在りし日の数寄屋橋


数寄屋橋の
春樹(佐田啓二)
真知子(岸惠子)
これはまだ防空頭巾風だね


そう、これが真知子巻き


『君の名は』は『哀愁』(1940)からイメージを借りている。
ヴィヴィアン・リー
ロバート・テイラー


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蹂躙された日本橋、消滅した数寄屋橋。
     もうオリンピックなんか、止めてしまえ。 その6
                  (平成31年 1月25日)



日本橋をめぐる陳腐な議論


 前回、1970年大阪万博の直前に、水都大阪のシンボルであった「堀」の多くが埋めたてられ、その跡地に『阪神高速』が造られた、という話をした。万博のため交通網を整備するという名目に乗じて、「どぶ川と化した堀をどう浄化するのか」という命題を葬り去ったのである。まさに「臭いものに蓋」の例え通り。
 では、その前の、1964年東京五輪ではどうだったのだろう。ちょっと調べてみたら、さすが首都東京、もっとド派手にやってました。

 もちろん、1964年の東京オリンピックを機に出来た東京にとって最大規模の交通インフラストラクチャーは自動車専用道路である「首都高速道路」に違いない。
 初めて首都高が開通したのは1962年、京橋-芝浦(4.5km)だった。その後、本町-京橋(1.9km)、1号羽田線芝浦-鈴ヶ森(6.4km)、都心環状線呉服橋-江戸橋JCT(0.6km)が1963年までに開通した。
 1964年になると開発・開通は急ピッチで進む。8月に1号羽田線の鈴ヶ森-空港西(4.6km)、八重洲線汐留JCT-新橋(0.3km)、神田橋-代官町-新宿線初台(9.8km)、都心環状線呉服橋-神田橋(0.4km)が開通する。さらに9月には、都心環状線の三宅坂JCT-霞ヶ関(0.4km)開通。そして、10月1日オリンピック開幕直前に、都心環状線浜崎橋JCTが完成したことで芝公園(1.4km)までが繋がり、ほぼ都心環状線と羽田空港まで首都高速が開通したことになる。つまり、羽田国際空港-国立競技場、そして代々木公園にあった米国の日本占領・駐留の象徴ともいえる米軍属らのワシントンハイツ跡地に建設した「オリンピック選手村」を結ぶネットワークが完成した。

  『財経新聞』2016年2月20日の記事より
   https://www.zaikei.co.jp/article/20160220/294421.html

 おやおや、オリンピック開会式の直前まで、建設現場は突貫工事の渦中にあったわけだ。もう出来ません、無理です! 馬鹿を言え、死んでもやれ! こんな怒号の応酬が幾度となく繰りかえされたはずである。「ネットワークが完成した」のは良いとして、おかげで、あの『お江戸日本橋』(A)は、とどのつまり、こうなってしまった(B)。

(A)お江戸日本橋              (B)とどのつまりの日本橋
  
 ネットで「日本橋 首都高速」と検索してみると、この日本橋に覆い被さる道路を地下に埋める案が、出現しては消滅する経過が数多く述べられている。いずれも、その膨大な費用をどこが負担するのか、という問題で行き詰まってしまう。すると、今度は、銭の問題は横へ置いて、首都高速はそれほど「醜い景観」だろうか、だとか、そもそも日本橋とは、その上に「空」を取り戻さねばならぬほど立派な橋であろうか、とか、撤去推進派の抱く日本橋のイメージは「素朴すぎる」、だとか言う屁理屈が出現する。日本橋に高速道路が覆いかぶさっていて何が悪い、と居直っているわけだ。大学の先生だとか、財界の偉い人がそう言っている。

 むかし勤めていた会社の東京営業部が、この日本橋の近くにあったので、私は何度もこの日本橋一体の景観を観ているが、それは「醜い」を通り越して「陰鬱」であると感じた。あの大学の先生たちが、日本橋一帯の景観をみて、「醜い」とも「陰鬱」とも感じないのだとしたら、彼らはごく当たり前の感受性を喪失しているのである。もう哀れんでやるしかない。目先の経済性で語ることが現実的思考である、という幻想に取り込まれ、その論理が壁にぶち当たると、今度は、ごく当たり前の感受性の攻撃に矛先を向ける。人間的生理を完全喪失するまで干からびて、化石のような爺ィになれば良いのだ。


都市交通のあり方とは? 世界の趨勢を確かめる


 それにしても、どうしてあの時、オリンピック、オリンピックと浮かれて、こんな物を造ってしまったのだろう、という歴史的反省の弁がまったく見当たらないのは何故だろう。

 私は欧州の諸都市をつぶさに歩いた経験をほとんど持たないし、欧州の道路事情について調べたこともない。しかし、私の貧しい経験から得たイメージで述べると、欧州の高速道路とは都市と都市とを結ぶ幹線道路であり、目的の都市に近づくと、その都心を取り囲むように環状道路があって、その辺りで高速道路は終点となっていたように思う。東京や大阪のように、高速道路が都心部まで網の目のように張り巡らされている例を、私は知らない。唯一わが「美しい日本」だけが、道路建設のために歴史的建造物や都市的景観をぶち壊したり、ビルに道路を貫通させたりして平気なのである。
 ネットで検索したら『世界の大都市圏の環状高速道路比較』というブログがみつかった。主要都市の道路状況を表す地図が同一縮尺で掲示されていて、それを見ると、私の抱いていたイメージが誤りでなかったことが確認できる。
  https://blogs.yahoo.co.jp/festiva1202/64813093.html

 さらに最近では、自動車の都心部への乗り入れを制限する動きが活発になっている。
 ちょっと検索するだけで、次のような事実が確認できた。

★ ドイツでは、排気ガスのクリーン度を4段階に査定し、それを示すステッカーを貼って排ガスのきれいな自動車であることを表示しなければ、都心部に入れない。43都市で実施。この低排出ガスゾーンの設定は、ストックホルム、ロンドン、コペンハーゲン、プラハ、でも行われている。
★ ロンドンでは、「C」の路上マークで都心部を表示し、そこを通り過ぎたら渋滞税を課している。これで市内の自動車通行量は30%減少した。この『混雑税』(Congestion charge)は、ストックホルム、オスロ、ベルゲン、トロンハイム、東洋でもシンガポールで実施されている。
★ アムステルダムでは人々が1日に自転車で走行する距離を合算すると、 200万kmになる。
★ コペンハーゲンでは、住民の約45%が日々の通学や通勤に自転車を利用している。
★ オスロでは、市議会が、2019年までにオスロ中心部約3q圏内への自家用車の乗り入れを全面的に禁止することを決めた。その代わりに、延べ35マイルの自転車専用レーンを造る。
★ マドリッドは、2020年までに車両の使用を都市中心部で禁止する計画を立てた。

 これが「西欧先進諸国」における都市交通政策の流れである。過度に進行しすぎた「モータリゼーション」を、その弊害が集中して現象する都心部から問い直して行こうという試行である、という点において一致してる。
 これらはすべて、都市の生活環境を守るためという大義を掲げているが、その根本には、このまま手をこまねいているだけでは、都市部への人口集中による交通渋滞がさらに深刻化し、それによる経済的損失が膨大なものとなるという「経済的課題」への対応という意味を含んでいる。決して「素朴すぎるイメージ」や「原理主義的自然志向」で脱自動車社会を訴えているのではないのだ。「経済学の対象」を「生活者・生産者全体の生産性の問題」として、きわめて的確に捉えている

 それに反して、日本の政治家・行政・御用学者どもは、いったい何を考えているのか。
 「アベノミクス」でいう経済とは、所詮「上場企業の株価と為替相場」のことでしか無いのと同様に、御用学者どもにとっては、従来通り、石油を焚きまくり、自動車を増産し、高速道路を延長し、それらの使用者・利用者から税金と使用料を搾り取り、公共投資と称して税金を使いまくることが『経済』なのである。おそらく彼らは、マルクスやケインズなどの古典的経済学をまじめに学んだことなどないのだろう。いや、もっと今日的課題に取り組んだシュンペーターやサミュエルソンだって読んだことはないだろう。逆に、超古典的な『国富論』や『経済学および課税の原理』や『人口論』であってもかまわない。時代が違うから読みこなすには苦労が伴うが、彼らが、経済活動全体のなかから「何を考察すべき対象として選択したか」という、研究者としての良心と意思力は間違いなく読み取れるはずである。御用学者どもは、その論説以前に、「何を論ずべきか」という時点で、既に魂を権力に売り渡しているのだ。


「名所・歌枕」になれない『日本橋』


 日本橋の話に戻ろう。
 安藤広重は、江戸の「名所」として日本橋を描いている。では、現在の表現者が、絵画であれ、映画であれ、文学であれ、一度は観ておくべき「名所」として、その上に高速道路が覆いかぶさる日本橋を描いたことがあっただろうか? 高級車に乗って高速道路を突っ走る、というシーンは、映画・ドラマでよく見られるが、それは、登場人物の政治的・経済的優位を誇示するための大道具として高速道路が借用されているにすぎない。「その上に高速道路が覆いかぶさる日本橋」は、今後、いくら時間を積み重ねようが、「名所」として画題にされたり、「歌枕」として詩歌に詠まれることはないだろう

 例外的にたった一例、首都高速を自動車が走行する風景を「意味のある映像」として採用した映画がある。意外にもそれは日本映画ではない。アンドレイ・タルコフスキーが1972年に公開した『惑星ソラリス』がそれである。

 惑星ソラリスに起こる「異変」を報告した宇宙飛行士アンリ・バートンが、その「異変」の調査のためソラリスへ向かうことになっている心理学者クリス・ケルヴィンを訪問して、その報告会のヴィデオを見せる。ヴィデオのあと、両者の間にちょっとした口論があって、アンリはそのまま自動車で帰宅する。帰宅の途中アンリは車中からテレビ電話のようなもので、言い残したことがあるとメッセージを送ってくる。その「未来都市の道路」に設定されているのが、東京の首都高速なのだ。
 テレビ電話はすぐに終わるのだが、カメラは首都高速を走る自動車の中から、フロントガラスから見える風景を映し続ける。高速道路の路面と、走行する自動車と、東京の街を。これはストーリー展開とは全く無関係な映像なのだが、それが5分以上続く。
 タルコフスキーは何故このような場面をSF映画に挿入したのだろうか。
 この首都高速走行シーンは、そっくりそのまま "YouTube" にアップされているから、先にそれを観ていただくのが良いだろう。
  https://www.youtube.com/watch?v=rswYl7RLRNE

 この映画はカラー作品である。冒頭、水の流れで揺らめく水草や、霧に包まれた草地や樹木、駆ける馬などが映し出される。明日出発予定の心理学者クリスは、その中をゆっくりと歩き、水に手を浸したりする。彼は田舎(それも田畑のない)に住んでいるのだ。彼の父親が、「親の建てた家が気に入っていたので、その通りに建て替えた」という台詞がある。突然の驟雨にあっても、クリスはテラスで濡れたままでいる。時代を超えた現実的世界はこのような美意識で描かれる。

 ところが、宇宙飛行士アンリが「異変」を報告するヴィデオは、急にモノクロームの画面になる。遠い異空間にあるソラリスまで自由に行き来できる時代なのだ、ヴィデオだってカラー化されていて当然だろう。その方が自然でSFとしてのリアリティも増すはずなのに、何故かモノクロなのだ。アンリが、ガチャ、ガチャ、と操作するヴィデオ・デッキも古くさい造りである。
 ヴィデオで映し出される報告会は、政治家や軍部の偉いさんや学者やらが出席する堅苦しいものなのに、アンリが報告を続ける背後を、コーヒーカップを手にした男が行ったり来たりする。奇妙な光景である。タルコフスキーはこの映画を「わざと、分かりにくくした」と言ったらしいが(分かりにくくしたのは、この映画だけじゃないだろう、と言い返したくなるが)、「コーヒーを飲む」という日常的行為が逆に違和感を感じさせる、という感覚の逆転が、ここで成立している。
 アンリが車中から掛けてくるテレビ電話もモノクロである。しかし、電話が終わって、アンリが乗る自動車の車内に視点が移行しても、現実の首都高速の風景はモノクロのままで色彩を取り戻すことがない。カメラは時々車中のアンリと後部座席にいる彼の息子に向かうが、すぐ車窓風景に戻る。長い走行映像の終盤、やっと、追い抜いて行く1台のタクシーに茶色が付き、次に、トラックのブレーキ・ランプが赤く光り、ゆっくりと映像は色彩を取り戻してゆく。最後に、カメラは屋外の高みに上昇し、夜の都心部で、複雑に交差する高層道路を行き交う無数の車の流れを映し出す。眩い派手な映像に昇華されて、首都高速のシーンはストンと終了するのだが、ここは明らかに複数の映像の合成である。
 このシーンに関して、ウィキペディアは次のように解説している。
 
 未来都市の風景として東京の首都高速道路が使われているが、「タルコフスキー日記」によれば、この場面を日本万国博覧会会場で撮影することを計画していたものの当局からの許可が中々下りず、来日したときには既に万博は閉会。跡地を訪ねたもののイメージ通りの撮影はできず、仕方なしに東京で撮影したとのことである。巨匠はビル街の高架橋とトンネルが果てしなく連続する光景の無機質な超現実感にご満悦だったらしく、日記には「建築では、疑いもなく日本は最先端だ」と手放しの賞賛が書き残されている。

 確かに、タルコフスキーは首都高速の映像を否定的イメージで描いているのではない。「建築では、疑いもなく日本は最先端だ」という賞賛は文字通りに受け取って良いだろう。
 しかし、タルコフスキーが映画の最初に、原作には無い「出発前のクリスの日常」を付加している点に注意しよう。水の流れ、揺れ動く水草、大気の澱み、起伏のある地面を覆う草木、飛び跳ねる馬、これらが濃厚な色彩で描かれ、そのなかをクリスはゆっくりと歩む。驟雨にあっても濡れるがままなのだ。つまり「豊穣なる大地の現実感」が描かれている。
 それに対して、首都高速の映像は「無機質な超現実感」だったわけである。SF映画の制作に当たって、やっと見つけた「無機質な超現実感」にタルコフスキーは大喜びしたわけだが、それなら貴方は此処に住んでみたいですか、と問うたとしたら、彼はどう答えただろうか。


撤去された「名所・歌枕」『数寄屋橋』


 頭上に高速道路が覆いかぶさる『日本橋』は、永遠に「名所・歌枕」とはならないだろう。
 だが、同じ東京の橋で言うなら、戦後新たに「名所・歌枕」となった『数寄屋橋』は、消滅してしまったのである。その経過を覚えておられるだろうか?

 あの、番組が始まる時間になると銭湯の女湯から人が消えた、と言われた『君の名は』(菊田一夫原作のほう、新海誠さんのアニメじゃないよ)で、春樹と真知子が出会い、再会するのが数寄屋橋である。『君の名は』は、ラジオ・ドラマで放送された後、三部作の映画となり、繰り返しテレビ・ドラマ化され、「真知子巻き」は「ヘップ・サンダル」とともに映画由来のファッションとして定着し、岸惠子は多くの日本女性が目指す理想像(今風に言えば、なりたい顔・なりたい体型、No.1)となった。そして、大阪の子供であった私でさえ、何となくロマンチックな響きのする言葉として、数寄屋橋と言う名を覚えたのであった。
 その、戦後東京の代表的名所・歌枕である数寄屋橋は、1959年(昭和34年)に解体・撤去された
 何のために? ええ、もちろん首都高速を造るために、ですよ。
 1959年(昭和34年)とは、1964年開催の東京オリンピック招致が決まった年である。その時、同時に皇居外堀も埋め立てられてしまったのだ。当時まだ存在していた本物の右翼が、よく黙っていたものだ。

 こんな風に、オリンピックや万博の開催が決定されるたびに、わが美しい日本は、壊してはならぬ物を壊し、造ってはならぬ物を造ってきた。
 今度のオリンピックでも同じことをするのではないか、と懸念していたら、やっぱりやっちまいましたね、2020年の東京五輪開催が決まるやいなや、国立競技場をぶっ潰してしまったではないか。
 次回は、この話から。
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