難波駅を出た電車がわずかに右にカーヴすると、つり革に掴まっていた男たちは一斉に右側の窓から外を見やった。
 ほんの一瞬、大阪球場のスコアボールドが見えるからだ。
 私の家は球場から1キロ以上も離れていたが、物干し場にあがると、観客のあげる歓声が風に乗って流れてきた。
 確かに昭和のある時代まで、私たちは「自分の五感で直接」社会の動きを感じとっていたのだ。                           











宮城まり子『ガード下の靴みがき』
(1955年)
作詞:宮川哲夫
作曲:利根一郎
最初はSP版で発売されたはず。
SP版は質素な紙ジャケットに入っていて、曲名などの表示はなかったように記憶する。
盤面のレーベルがこれ。

歌詞の一番と二番のあいだに、
こんなセリフが語られていた。

ねぇ 小父さん みがかせておくれよ/
ホラ まだ これっぽちさ/
てんで しけてんだ/
えっ 父さん? 死んじゃった/
母さん 病気なんだ/



この靴みがきの子供の写真は、
見るのもつらいけれど …… 、



映画『愛と希望の街』
(大島渚1959年)では、
母親の望月優子さんが靴みがきで一家を支えている。彼女が病気で働けなくなることで、物語が展開し始める。

映画の題名が中身とはまるでちがう。このことを、監督自身がこう振り返っている。
題名は最初『鳩を売る少年』だったのだが、
ところが、題名がいかん、他のタイトルを考えろといってきた。「怒りの街」や「愛と怒りの街」など別の題名を出すと、怒りという言葉が不穏当だという。それではと「愛と悲しみの街」を出し、多分これでいけると思っていたところ、「愛と希望の街」に変わっていた。悲しみと希望では100パーセント違うが、新人の第1号作品ということで、結局、自分の希望は通らず、会社のつけた題名でいってしまった。ですから今でも、この題名を口に出すと怒りで体が震える思いです。
『映画監督50人・自作を歩く』








鳥山石燕『今昔画図続百鬼』
に描かれた覚(さとり)

左側の解説文には、こう書かれている。
飛騨美濃の深山に※(かく)あり/
山人呼んで覚と名づく/
色黒く毛長くして/
よく人の言(こと)をなし/
よく人の意(こころ)を察す/
あへて人の害をなさず/
人これを殺さんとすれば、先その意(こころ)をさとりてにげ去と云/










日産オースチン



日野ルノー



日野ルノーのリア・ビュー

エンジンが後部にあったので、放熱用のフィンが着いていた。だから後ろ座席に座るとやかましかった。


大阪環状線『寺田町』駅の
ガード下を走る市電。

終点は『百済』だった。もう一方の終点は『福島西通り』で、高校の授業が終わった後、この電車に乗って『あみだ池』まで行った。市立の中央図書館があったからである。


初代トヨペット・クラウン。

後部ドアの羽根のようなサイドモールが印象的だった。








手塚治虫『ブッダ』が描く
「四門出遊」









GHQ本部を出るマッカーサーを待ち受ける民衆。

「ビートルズ」とか「嵐」なみの人気だったわけだ。











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日本人は、何故、歴史的景観を平気で破壊するのか?
     もうオリンピックなんか、止めてしまえ。 その7
                  (平成31年 2月25日)



歴史的景観殺し、 大阪かて、負けてまへんでぇ! 


 オリンピックとか万国博とかの国威発揚事業のたびに、我が国の政治家と行政府のリーダーたちは、「美しい日本」の壊してはならぬ物を壊し、造ってはならぬ物を造ってきた。
 1964年の東京五輪では、江戸城(つまり皇居であるぞ!)の外堀を埋めて「君の名は」の『数寄屋橋』を消滅させ、返す刀で、あの「お江戸日本橋七つ立ち」の『日本橋』を「ガード下の靴みがき」と同じ境遇に追いやった。その代償が、頭上を覆う高速道路だったわけである。

 大阪だって負けてはいなかった。同じ1964年、長堀川の東半分の埋めたてを完了。向こうが高速道路なら、こちらは駐車場、ときた。それも、地上と地下の二層構造。その結果、大阪ミナミの象徴『心斎橋』は消滅。その跡地に架けられた横断歩道橋に『心斎橋』というプレートが埋め込まれることになる。今、手元に、『昭和の大阪』という写真集(光村推古書院、産経新聞の報道写真を集めたもの)があるが、それには『新・心斎橋の渡り初め』の写真が載っている。橋の下には、『心斎橋復元橋架設工事』という看板の掛かった現場事務所があり、『NHK』の中継車が止まっているのも見える。 …… もう漫画。こういうまやかしを日本では古来からこう言った、そう「子供だまし」だと。

大阪名物『心斎橋』               とどのつまりの『新・心斎橋』

 
しかし、その当時、子供であった私は騙されなかった。
 月に一度か二度、当時中学生だった私は、どぶ臭い川面の風に吹かれ、水に浸かった丸太の臭いを感じながら心斎橋を渡り、北詰にある駸々堂書店をめざした。少しのお小遣いで買える、岩波文庫の「☆」か「☆☆」とか、「音の出る雑誌」が謳い文句の「ソノシート」とかを、物色するのが楽しみだったからである。
 堀の水がせき止められ、大型の重機が川底をえぐるのを見て、一体何をしているのだろうと訝ったのだが、その結果が、まったく見栄えのしない駐車場とポンチ繪的な歩道橋の出現であったことで、私は一瞬にして「公共事業とは何であるか」を見抜いてしまった。自我に目覚め、社会悪への憤怒がリビドー的内圧として精神域に充満する思春期の直感力を侮ってはいけない。ちょうど、住井すゑさんの『橋のない川』が年一冊のペースで刊行されていたころでもあり、なんだ、これじゃ「川のない橋」じゃないか、と友人どうしで笑えない冗談を言い合ったのを覚えている。政治・行政の愚行を戯れ言で皮肉るという、日本の伝統的な苦渋表現の作法まで、きっちりと体得したのであった。

 その約5年の後、大阪も万国博をめざして、堀を埋め、高架を架けて市内に高速道路網を張り巡らす。今や高速道路は汎世界的に敷設されているのだろうが、前回述べた通り、東京や大阪のように、都心部において、地下鉄と同等の密度で「都市内高速」が走っているのは、他の「先進国」には類例がない。
 それにしても、われわれ日本人は、何故、何の躊躇もなく歴史的景観を破壊し、都心部に高速道路を造ることができたのだろう。まるで、何かに取り憑かれたかのように。
 一体、何に、取り憑かれたのか?

 今回はその正体を探ってみたい。
 この問題に関しては、さらに以前の、小学生であった私自身のささいな体験を掘り起こせば、その答えの「端緒」が見えてくるように思える。


ボクは土木技師になりたい、と思っていた。


 小学生ぐらいの子供に向かって、よく大人は、ぼくは将来何になりたいのかな? などと尋ねてみたりする。たびたび尋ねられるから、子供の方も、それなりの答えを用意しているものだ。
 私は、将来何になりたいのか? と尋ねられるたびに「土木技師になりたい」と答えていた。お金持ちとか、野球選手とかの、子供らしい無邪気な答えを期待していた相手は、いささか困惑して、「それは、なぜ?」と問いを返してくる。それには、こう答えていた。

 「あるアメリカの偉い人が、日本に道路は無い、あるのは道路予定地だけだ、と言ったそうです。だから立派な道路を造るんです、アメリカに負けない位の。」

 なぜこの問答をリアルに記憶しているかといえば、相手が、答えを聞くなり、ギョッとした表情を見せたからである。生意気なガキだ、という反発でもなく、利発な子供だ、という感嘆でもない。それは、突然こんな子供に「己の心を見透かされた」という驚きではなかったか? まさに、山中で妖怪「覚(さとり)」に出くわした杣人(そまびと)のように。

 いったい何に取り憑かれて高速道路を造りまくったのか、という、先ほどの設問の答えが、ここにはそのまま示されていると思う。込み入った事情があるわけではない、うんと荒っぽく「アメリカに馬鹿にされた、だからアメリカに追いつき、追い越してやるのだ」と言う心情、と言い切って何の間違いもない。
 「萬世一系の天皇之を統治す」という「国体」の概念が崩壊し、宙ぶらりんになった日本人の心は、今度は一転して、アメリカを軍事・政治・経済・文化・教育、その他あらゆる活動領域における『規範』とすることを共同幻想として凝縮させてゆく。ただし、武力で打ち負かされ、主要都市を焼き払われ、原爆まで落とされ、信仰していた(あるいは信仰しようと努力していた)「国体」を破壊され、敗戦後の食うや食わずの混乱のなか「12歳の少年並の文明度」と馬鹿にされたことを、恨みとして超自我の底に秘めたまま


「マイカー」が増え、「交通麻痺」が起こるようになる。


 「土木技師になりたい」と言った、私の「私的な心情」について少し述べておこう。
 物心の付いたころ、近在の道路はいたってのんびりとしたものだった。堺筋に出ると、要所要所に信号機が設置されていたが、歩行者はいつでも向こう側に渡ることが出来た。時折、日産オースチンとか、日野ルノーだとかのタクシーが走ってくる程度だったから。千日前通りと交差する日本橋筋一丁目(大阪人はこれを、日本一、にっぽんいち、と略称する)と、日本橋筋三丁目松坂屋前に、市電の停留所があったのだが、その中間地点の二丁目にも停留所を造ってほしいという要望があって、署名集めに各戸をまわる祖母に付いていった覚えがある。難波まで足を伸ばせば南海電車があり、地下鉄の駅もある。その先は国鉄湊町で、東に向かって上町台地の坂を登れば、近鉄上本町だってさほど遠くはない。それで十分に「市民の足」は確保されていた。下の『大阪市路面電車案内図』を見れば、なるほど、と納得していただけるだろう。どこまで乗っても均一料金。私の中学生時代の記憶では、片道13円、往復を買うと 1円割引で25円だった。



 1955年に発売された初代トヨペット・クラウンが、町中に多く見受けられるようになった頃、つまり1950年代の終わりになると、事情が違ってくる。市内の主要な交差点で、特に市内の幹線道路が国道に出るあたりの交差点で、渋滞が発生するようになる。お金持ちの友達のお父さんなどに「マイカー」に乗せてもらう機会がたまにあったが、たいてい「交通麻痺」に巻き込まれた。ちょっと進んでは止まっての繰り返しで、排気ガス(今のような排ガス規制などなかった時代である)をふんだんに吸い込んで、たちまち車酔い。嘔吐してしまうこともあった。
 学校の教室の窓の下は、ちょうど高島屋・南海電車難波駅前。御堂筋の終点から左折してくる車が一車線に集中してくる地点だから、終日クラクションが鳴りづめ。先生は「警笛止めて、街を静かに」なんていう啓蒙ポスターを生徒に描かせたりしたが、車を運転するのは大人なのに、なぜ自分たち子供が音頭をとらねばならぬのか、と不思議に思ったものだ。
 電車で神戸や京都から帰ってくると、30分内外で梅田に着くのに、駅前から市電に乗ると、たちまち渋滞する自動車群に取り囲まれて身動きがとれず、ミナミへ着くのには1時間以上もかかってしまう。約4キロの行程だから歩くより時間がかかったのである。
 だから「日本に道路は無い、あるのは道路予定地だけだ」という偉いアメリカ人の言葉を、まことその通りだとすんなり了解したのは、当然の成り行きであった。


日本人の大人と、アメリカの兵隊さん。


 さらにもう一点、それまでの私は「アメリカ人とは親切で、とても子供に優しい人たちだ」と信じていたことを述べておかねばならない。
 母方に、努力家でとても目先の利く叔母がいて、敗戦後進駐軍がやってくると、即 "YMCA" に通って英語を習得し、進駐軍将校の家でメイドの職を得た。その将校の部下だった兵隊さんと恋に落ち、結婚することになった。その結果、その兵隊さんをはじめ、何人かの米兵が我が家にやってくるようになる。真っ赤に日焼けした大男が、鴨居に行き当たるたびに、その下をかいくぐるようにして家の中を行き来する。ところが、その兵隊さんたちが、とても優しかったのである。何も、お土産にハーシーズやチューインガムを持ってきてくれたから、そう思ったのではありません。彼らは、「私をキチンと子供として取り扱ってくれたから」である。

 そりゃ、あの頃の、日本の大人は非道かった。まさに、自分たちが生きるのに精一杯で、子供のことなどとんと眼中に無かった。何も、事あるごとに折檻された、とか、与えられた食事が貧しかったとか、いうのではない。世の中全体が粗暴だったし、誰も彼も食うや食わずの生活だった。でも、子供が生まれると「よくやった」とか、特にそれが男の子だったら「でかした」などと言って大喜びするのに、しばらくすると知らん顔なのである。
 知人の夫妻が我が家へやって来る。両親とも不在だと告げると、じゃあ、帰ってくるまで待つわと腰を下ろす。室内を無遠慮に眺め回して、何と汚い家だと亭主が言い、でも、子供がいればこうなるわ、と嫁が応える。その子供である私を目の前に置いて、である。子供は子供なりに、大人の会話を聞き、それなりの判断をしている、という事実に気づかないのである。AとBが集まると、Cの悪口を言い。AとCが一緒の時はBの悪口を言う。最悪だったのは、祖母と父親が不在の時、母親が近所の奥さん連中と「井戸端会議」を始める時である。お互いの亭主や舅・小姑の悪口を言い合っているあいだはまだ良い、話題は次第にゴシップ・三面記事の領域に侵入してゆく。老人の臨終に立ち会ったのだが彼がどんな風に苦しんで死んだとか、悲惨な事故を目撃して人体がまるで××のようだったとか、知人の出産に手伝いに行ったのだが大和撫子にあるまじきほど大騒ぎをした、とか。話の中身はほとんど理解できているのに、僕は何も分かりません、いったい何のこと、と無関心・無表情を決め込むしかなかった。
 こんな風に、シッダールタが「四門出遊」するより幼い時に、私は「生死の苦」を悟らされたわけであるが、それがあまりにもパパラッチ的戯れ言であったゆえ、幼い心中に芽生えたのは、出家の意思などではなく、もし女の人がみんなこんなだったら一生結婚などすまい、という健気な決意だったことを、あの女たちは知らないだろう。
 男連中は女たちほどお喋りではなかったけれど、子供の存在を無視することは女以上で、幼い私が挨拶をしても知らん顔。何の配慮もなくドカドカと歩き回り、子供の方が部屋の隅に避難して難を避けるよりほかはなかった。

 そんな日本の大人たちに比べると、アメリカの兵隊さんたちは、格段に優しかった。子供の側を通り抜ける時は、子供にぶち当たらないよう、自分のほうが部屋の隅をゆっくりと歩いていたし、何か話しかけると、しゃがみ込んで、こちらの眼を見ながら、分からぬ子供の日本語に相づちを打ってくれる。食事の時など、皿が配られると、それを先に子供の前に回してくるし、箸の使い方を教えると、とても喜んで私の指使いを真似て見せた。何も、おべんちゃらを言うわけではないし、猫かわいがりしてくれるわけでもない。ただ、子供という人格として相対してくれたことが、例えようも無く心地よかったのである。


南海電車『難波』の駅で


 長くなるが、もう一例書いておこう。小学校に入ってすぐ、一年間ほど南海電車高野線の郊外の借家に転居したことがあった。難波まで電車で通学した。ところが朝、駅へ入ってくる普通電車はもう満員で、電車が停車すると通勤の男女は我先にと扉に殺到した。小学生の私は、潜り込もうにも跳ね飛ばされて、なかなか乗車できない。ホームに取り残された小学生を見て、車掌が車掌室に入れてくれたりした。難波駅に着くと、ほとんどの乗客は地下鉄への連絡通路に向かう。正面出口へ出ようとする私は、なかなかその群れの流れから抜け出せない。先を急ぐ大人は子供など眼中になく、ぶち当たり、跳ね飛ばして平気だったからである。
 ある日、やっと改札を抜け正面出口への階段を降りていくと、10代後半ぐらいのお姉さんが階段半ばでしゃがみ込んでいる。見れば、風呂敷に包んだ白米を階段にぶちまけてしまったのだ。泣きながら米を一粒一粒拾い集めている。多くの人たちは、見て見ぬふりをして通り抜け、中には散らばった米を平気で踏んづけていく奴もいる。その時、一人のアメリカ兵がお姉さんのそばにしゃがみ込み、一緒に米を拾いはじめた。時々、泣き止まぬお姉さんの肩に手を乗せ、慰めの言葉をかけ、また階段に這いつくばるのである。まだ若い、少年のような顔の兵隊さんだった。
 このような体験が重なれば「アメリカ人とは親切で、とても女・子供に優しい人たちだ」、と信じて当然だろう。

 話を元に戻そう、こんな風に、優しいと信じていたアメリカの偉い人が「日本に道路は無い、あるのは道路予定地だけだ」と言い放ったのである。
 この衝撃は大きかった。
 何だ、うわべは優しかったのに、アメリカ人は心の底では日本人を馬鹿にしていたのか!

 だから、土木技師になりたい理由として「アメリカに負けない位の、立派な道路を造る」と言った私の言葉は、相当に気負ったものとなり、それを聞いた大人たちは、たじろいで、自分の心を見透かされたかのように思ったのである。
 すると、こう言うことか、日本人をさげすんだアメリカに反感を持ち、それなら、アメリカに追いつけ、追い越せと、しゃにむに努力したことが、歴史的景観まで破壊して高速道路を造り続けた理由だったと言いたいのか。君の子供のときの些細な体験を一般化するな、と人は言うかもしれない。
 だが、少年時代の私の体験は、当初マッカーサーを解放軍の指導者のように崇め、彼の顔を一目見ようと人々が道路に群がっていたのに、彼の「12歳の少年並の文明度」という発言あたりから一転して反発に転じたという、日本人一般の「対米意識」と、奇妙なほど一致しているように思える。

 だから「日本人をさげすんだアメリカに反感を持ち、それなら、アメリカに追いつけ、追い越せと、しゃにむに努力したことが、歴史的景観まで破壊して高速道路を造り続けた理由だった」という解析は、あながち的外れではない、と思う。ただ、的を擦りはしたが、的の中央を射貫いている、とは言えない。だから、先ほど私は「答えの端緒」だと言ったのだ。
 答えの核心に至るには、もう少し考えてみる必要がある。まず第一にすべきことは、「日本に道路は無い、あるのは道路予定地だけだ」と言った「アメリカの偉い人」とは一体だれか。その発言の真意は何だったのか、を確かめることである。
 予告しておくが、それは、ラルフ・J・ワトキンスという経済学者だったようである。

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