難波駅を出た電車がわずかに右にカーヴすると、つり革に掴まっていた男たちは一斉に右側の窓から外を見やった。
 ほんの一瞬、大阪球場のスコアボールドが見えるからだ。
 私の家は球場から1キロ以上も離れていたが、物干し場にあがると、観客のあげる歓声が風に乗って流れてきた。
 確かに昭和のある時代まで、私たちは「自分の五感で直接」社会の動きを感じとっていたのだ。                           

『第3回アジア競技大会』記念切手

この記念切手シートを買うために、私は郵便局の窓口に並んだ。
家の中を探せば、どこかに眠っているはずである。

当時、葉書は5円
年賀は4円


封書が10円
印刷物の場合、封筒の縁を切って、中がのぞけるようにすれば、9円だったはず?


14円は何用か思い出せない。
速達料金込みか?


24円は外国郵便だったとおもうが?


田畑政治



大正のモダンガール


これも大正のモダンガール


竹久夢二『宵待草』

待てど暮らせど来ぬ人を
宵待草のやるせなさ
今宵は月も出ぬさうな

『赤玉ポートワイン』のポスター

大正11年(1922年)
モデルの松島恵美子は、
オペラのプリマドンナだった。
大阪来演のおり、壽屋社長の鳥居信治郎が自ら出向いて、モデルになってくれることを請うた、という。


学徒出陣壮行会
1943年(昭和18年)10月21日

ネット上にはたくさんの写真がアップされている。
説明が欲しい人は、
本文最下段のURLを見てください。


ドイツ海軍の暗号機エニグマ
エニグマとはギリシャ語で「謎」


エニグマの開発者
アルトゥール・シェルビウス


"bombe" のレプリカ


"bombe"の開発者
アラン・チューリング


映画『イミテーション・ゲーム』
(2014)は、
アラン・チューリングの"bombe"開発がテーマである。
これは、おすすめ。
ぜひ、ご鑑賞あれ。



オッペンハイマー

彼の一家もまた、ナチスから逃れたユダヤ人一家であった。アインシュタインと同じようように。
つまり、ナチス・ドイツは、ユダヤ人迫害で優れた英知を失って自滅したわけである。


『国民抗戦必携』
絵は劇画調で上手いけれど ……


同じく『国民抗戦必携』



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いったい誰が、国立競技場の解体を決めたのか?
     もうオリンピックなんか、止めてしまえ。 その9
                  (2019年 5月 5日)



いったい誰が、国立競技場の解体を決めたのか?


 国立霞ヶ丘陸上競技場(国立競技場)の解体工事が始まったのは、2015年(平成27年)の1月であった。もう4年も前の話になる。しかとは思い出せないのだが、われわれ下々には十分な告知もないまま、いつのまにやら競技場の解体が始まっていた …… 、こんな感じだった。
 だが、一体誰が、どの様な権限で、国立競技場解体を決定したのだろう
 下っ端役人どもは、いえ、いえ、しかるべき手続きを経て決定されました、それは官報できちんと告知されています、などとしたり顔で言うだろう。だが、これは、官報に記載があればそれで済み、というレベルの話ではない。競売物件の告知などとは訳が違う。国立競技場は、まさに国民の歴史的建築物だったのである。
 では、どの様な歴史的建築物だったのか?

 「国立」と銘を打たれている以上、それは言葉の本質的な意味において「国家の管理する国民の財産」であるはずである。しかも「並の」財産ではない。繰り返すが、国立競技場といえば「国民の歴史的建築物」であった。しかし、国家公務員と称する人物が我が家を訪問して、国立競技場を解体して良いでしょうか、と尋ねられた覚えはないし、国立競技場を解体して良いかどうかを問う、国民投票を行った記憶もない。それとも「国立」とは「国家が勝手に造ったり壊して良い建造物、ただし国民の税金を使って」という意味なのだろうか。
 まぁ、原理論を振りかざすのは止めておこう。今さら詮の無い話である。
 その代わり、国立競技場とは一体どの様な建造物だったのか、を少し考えておこう。


国立競技場は『第3回アジア競技大会』のために造られた


 国立競技場は、何時、何の目的で、造られたのか?
 1958年(昭和33年)の『第3回アジア競技大会』のため、であった。

 第2次大戦の終了から十年と少し。日本による占領統治という悪夢からまだ十分には覚めやらぬ東南アジアの諸国に対し、さあ、一度日本に来てください、来て見てください、日本は変わりました、ここまで変わりました、これからは経済と文化とスポーツの交流でもって、皆さん方の国々と親交を深めようとする国になっているのです ……、『第3回アジア競技大会』とはそのような国家イベントであった。当時小学生だった私でさえ、そう思っていた。ちっとも勉強をしない政治家やネトウヨどもには想像も出来ないことだろうが、これは厳然たる歴史的事実である。

 その4年前、1954年(昭和29年)の『第2回アジア競技大会』(フィリピン、マニラ)では、行く先々で日本の選手団は、この侵略者どもめ、殺人者どもめ、と罵声を浴びせかけられた。石礫(つぶて)まで飛んできたという。旧日本軍がフィリピンの国土と人々を陵辱した事実は、選手たちの記憶にも新しかったから、彼らはただ唇をかんで耐えるしかなかった。このアスリートたちが味わった悔しさが、平和国家日本をアッピールするという『第3回アジア競技大会』(東京)の基本理念として結実したのである。
 だから、大会にフィリピンが 152人という大選手団を送り込んできて、開催国日本に次ぐメダルを獲得したことに、人々は拍手喝采した。フィリピン以外にも、ベトナムとかビルマとか、名前しか知らなかった国々の選手たちが活躍する姿を見ることが出来た。「卓球は日本が強いと言われていましたが、ベトナムの選手もとても強かったです」と、小学生だった私は学校の作文に書いている。

 マニラでの第2回大会の選手団長であった田畑政治(たばたまさじ)は、その後、1964年夏期オリンピックの東京誘致に尽力する。彼は、マニラにおける苦い経験から、アジア諸国の日本軍国主義に対する反発と警戒心を少しでも緩和しようと努力し、五輪の聖火リレーコースを、アジアの諸都市を順次めぐったあと日本に入る、という風に設定した。ここには、アジア競技大会の発展的延長として、「反戦平和を目指す東京五輪」というメッセージ性が明瞭に示されている。
 具体的には、ラングーン(ビルマ)→バンコク(タイ)→クアラルンプール(マレーシア)→マニラ(フィリピン)→香港(イギリス統治下)→台北(中華民国)→那覇(アメリカ統治下)、とリレーされた後、聖火は日本に入ったのである。ご覧のように、香港・沖縄はまだ本国に返還されていなかったし、"IOC" は中華民国を中国の代表としているなど、戦後のきな臭さと冷戦構造がそのまま反映したリストとなっている。実際、五輪の大会中に中国(中華人民共和国)は嫌がらせのため原爆実験までしでかした。だが、我々日本人は無垢・無邪気を装って、聖火の平和的リレーを楽しんだのであった。

 今回この稿を記すにあたって少しばかり検索してみたが、1958年(昭和33年)の『第3回アジア競技大会』の歴史的評価として、「この大会の成功で、日本がオリンピックを開催しうる実力を持つことを世界に知らしめた」という趣旨の記述ばかりがヒットすることに驚かされた。「平和国家としての日本を知らしめる」という流れはすっかり忘れ去られたかのようである。
 白を黒と言いくるめるのはあからさまな捏造であるが、そんなウソはすぐにバレる。だが、こんな風に、ある歴史的局面の多面性から、ある属性だけを取り出して強調し、他の属性を欠落させる。ウソでは無いが、全体像を歪め、核心をぼやかしてしまう。これこそ質の悪い歴史の捏造である。
 聞くところによれば、某公共放送には「大河ドラマ」という放送枠があって、今年はこの田畑政治がそれに登場するらしい。ドラマはこの田畑政治をどう描くのだろう。田畑の指向した反戦平和の祭典という東京五輪の最重要メッセージを、どの様に再現するのだろう。それとも某公共放送の某役員がウッカリ本音を漏らしたように「国威発揚事業」としての五輪の提灯持ちをするだけのドラマに終始するのだろうか。
 まぁ、我が家にはテレビ受像器が無いし、あっても「大河ドラマ」など観ることはないので、別にどうでもいいことなのだけれど。


国立競技場の建てられた「場所」とは?


 実名をあげて恐縮至極なのだが、安倍君とか麻生君とかのように、せめて教育漢字ぐらいはきちんと読めるようにしようという、最低限の努力すら回避しようとした学友は別として(同じ名前の有名人がいるそうだが)、教科書の隅に落書きしたり、気になる女子の横顔を盗み見したりしながら、なんとか退屈な授業を堪えた、ごく中庸・きわめて平凡な児童・生徒であった私にとって、唯一不満だったのは、社会科「歴史」の授業がいつも尻切れトンボで終わることであった。算数・数学や英語と違って、「歴史」は少しばかり寛いで過ごせる授業であった。予習の必要もないし、とつぜん名指しで解答を求められる恐怖もない。暗記物などと呼んで蔑視する向きもあったが、古色蒼然とした歴史用語やそれにまつわる逸話など、現在・現実という檻(おり)・柵(しがらみ)に取りこまれている子供に対し、それは空想力を刺激し目覚めさせるには十分な効能を持っていた。

 だが、日本歴史の授業は、明治維新の祝典的雰囲気の後、和魂洋才で切磋琢磨の間もなく日清・日露と戦(いくさ)が続き、しかし國民はふんばってギリギリ勝利、といったあたりで、たいてい3学期が終了してしまう。この事情は、中・高と上級学校へ進んでも変わらなかった。教科書の終わりの方の、まだ白いままのページをつまんで、これから後は各自で読んでおいてください、あまり試験にも出ない所だし …… 、と教師は曰う(のたまう)のだった。

 そこで、流し読みぐらいはしてみるのであるが、紙面の印象はそれまでの歴史とは、ガラリと様相が違うのである。デモクラシーとモダンガール、竹久夢二の宵待草、こんな大正ロマンのリリシズムはほんの一時のことで、後は、ただただ陰鬱な記述が、これでもか、これでもか、と続くのである。
 関東大震災の後の昭和の歴史は、金融恐慌取りつけ騒ぎモラトリアム、に始まって、山東出兵特高警察の設置3.15事件張作霖爆殺治安維持法改正、と続く。昭和3年末までのたった2年間でこれですよ。(昭和元年は12月25日に始まるので、正味1週間しかなかった。)
 もうそれから後は、事件・事変と偽称される侵略戦争、社会・共産・無政府・自由など、主義と名の付く物すべての弾圧、世界恐慌・農村恐慌、要人暗殺とクーデター、国際社会からの離脱と孤立、 …… 、もう何が先で、何が後なのか、さっぱり理解出来ないほど陰鬱・粗暴な出来事が続く。読む方は、暗いなぁー、怖いなぁー、と呟いてみるしかなかった。
 小・中・高、と一貫して、授業で日本歴史のこの部分が割愛されたのは、決して授業時間が足らなかったからではなく、先生たちの「歴史のこの部分を一体どう教えたら良いのか? 出来れば触れずにおきたい」という逡巡の気持ちが、そうさせたのではなかったか。記述のあまりの暗さ・怖さに、私はそう勘ぐってみたりした。

 その中でも、最も私を震え上がらせたのは、『学徒出陣壮行会』の写真であった。
 「壮行」とは、どの辞書を引いても、「出発する人に対して、その前途を祝し励ますこと」「遠くへ旅立つ人の前途を祝し、励ますこと」と出ている。学徒を死地に追いやり、学徒も「生等もとより生還を期せず」と答辞を返す。「死んでこい!」「はい、死んでまいります!」という応答の儀式を、何故「壮行」と呼びえたのか
 「送る学徒百七校六万五千名」(朝日新聞の記事)のなか、「オレは嫌だ!」と、一体、誰が叫びえただろうか。口中でそう呟いた学徒はたくさんいただろうが、それは人の肉声として伝えられることがなかったのである。

 教科書に載せられていた写真は粗悪なものだった。粒子が粗く、灰色の階調が崩れ、白黒の対比のみが目立ち、いかにも「昔の写真」であるように見えた。被写体は「ずっと過去の出来事のもの」であると思えた。しかし、そこに記された、1943年(昭和18年)10月21日という日付が、私を驚かせる。何と、自分の生まれる、たった5年前の出来事ではないか! 決して昔の話ではないのだ。

 この『学徒出陣壮行会』が執りおこなわれた『明治神宮外苑競技場』の跡地に建てられたのが、
『国立霞ヶ丘陸上競技場』つまり『国立競技場』だった
のである。


学徒出陣壮行会の映像が粗悪であることの意味


 全くの余談になるが、静止画・動画を問わず、この頃の映像の画質がきわめて粗悪であることに注目し、そこに意味を読み取ろうとする人がいないのが不思議である。この時代よりずっと前、大正やら明治やらの、それも民間人が撮った写真の方が、より美しく見事である。NHKや新聞社の使うフィルムや機材が、民生品と同等の普及品レベルだったはずはなかっただろうに。

 兵器としてのダイナマイト使用の例を出すまでもなく、普通、戦争はその時代の科学技術を急伸させる方向に働く。先端的科学技術の成果を、短期間に実用化・量産化し、戦力強化に還元する。そうしなければ戦いを優位に進めることは出来ない。どの国の指導者もそれを理解していた。
 無茶苦茶のし放題であったナチス・ドイツでさえ、1938年にフォルクス・ワーゲンの量産を開始、1940年にはアウトバーン網を 4,000キロ近くにまで拡張、1944年にはフォン・ブラウンの『V2』ロケットを量産して、1,300発以上のミサイルをロンドンに打ち込んだのであった。
 イギリスも負けてはいなかった。1940年、ブレリッチ・パークに設置された暗号解読学校で、アラン・チューリングの率いるチームは、ドイツ海軍の誇る暗号『エニグマ』を効率的に解読するためのツールとして、"bombe" を完成させる。(電子計算機はこれの発展形である。)"bombe" はのべ 400機生産され、これによりドイツ海軍の暗号通信はほとんど解読されていた。『エニグマ』の優秀性を過信していたドイツ海軍は、敗戦まで暗号が解読されていることを認識しようとしなかった。これが戦勝国と敗戦国との差である。軍備の物量の差ではなく、知力の差であることに留意していただきたい。

 では、我が大日本帝国はどうであったか? まことに残念ながら、神国日本は、科学技術の戦争利用に対し、常識的なレベルの認識すら持たなかった唯一の例外国であった、と言わざるを得ない。
 1938年(昭和13年)の『国家総動員法』は、産業・技術・学問・伝統など、國家と國民の実質的財産と知的財産のすべてを投げ打って、「非力な兵力」つまり「ただ飢えて病み、最後に無駄死にするしかない兵隊たち」すなわち「我が命を國体に捧げることでしか兵隊になり得なかった兵隊たち」を乱造したのである。暗号がことごとく解読されていたのも、レーダーの開発が出来なかったのも、上で述べたように、国威発揚映画の画質があれほどまでにお粗末だったのも、玉音放送の御言葉が雑音に埋もれてほとんど聞き取れなかったのも、すべて同じ理由である。

 1945年(昭和20年)、オッペンハイマーのチームが原子爆弾開発の最終段階に達していたころ、大本営陸軍部は『国民抗戦必携』と題した「白兵戦図解マニュアル」を発行し、「銃、劍はもちろん刀、槍、竹槍から鎌、ナタ、玄能、出刃庖丁、鳶口に至るまでこれを白兵戰鬪兵器として用ひる」べしと檄を飛ばし、私たちの母親や祖母たちは竹槍で突きの練習をさせられていた。竹槍将軍荒木貞夫の、没科学的ウルトラ精神論『竹槍三百万論』が現実の戦術となったのである。

 この理屈が本当に有効ならば、今の日本に乱立しているホーム・センターは、そのまま武器庫として転用可能だろう。何も、我々の税金を湯水のように使って、訓練中に海中に没してしまうような『最新鋭ステルス戦闘機F35A』など買う必要はない。
 『しんぶん赤旗』は、防衛省の『中期防衛力整備計画』のデータで計算すれば「 147機体制で、購入費と維持費を合わせると、総額は6兆2000億円」になる、と報道している。一方『サンケイ』は「1機あたりの単価が減少したので、安い買い物になるだろう」と読める記事を書いている。これ、ほとんどフェイク・ニュースだよな。単価云々で誤魔化すな。重要なのは『しんぶん赤旗』の言うとおり、総額だろうが。
  https://www.jcp.or.jp/akahata/aik18/2019-01-10/2019011001_01_1.html
  https://www.sankei.com/world/news/180929/wor1809290010-n1.html


【知力の劣化が、悲劇を拡大させる】


 先ほど「暗号がことごとく解読されていた」と書いたが、敗戦間際、ソ連に和平の仲介を依頼しようとした暗号電文もきっちり解読されていた。暗号傍受から数日後には解読を終え、レポートが提出されていたと言われる。時のアメリカ大統領はトルーマン。ルーズベルトの急死により、右も左も分からぬまま、にわかに大統領に昇格した男である。彼は日本の依頼通りにスターリンが動くことを恐れた。すでに戦勝は眼に見えていたのに、どうしてもアメリカ主導のまま対日戦争を終結させたかった。戦後処理におけるソ連の影響力拡大を恐れたからである。それが「原爆使用」という選択枝となる。
 オッペンハイマーをはじめ政府高官や側近たちは「原爆実験の威力を見せつけることで、日本政府の戦意喪失を狙っていた。日本本土への原爆投下には反対していた」と解説されているが、トルーマンの焦る気持ちが原爆の使用という結果となった。これは現代史の常識である。いわゆる「核による抑止力理論」は初発の段階で破綻している。馬鹿な政治家は「核があれば使う」のである

 どんな状況となっても、国家は戦争という選択をしてはならない。しかし、仮に開戦となった場合には「勝つための合理的な判断」をする。これは当然だろう。当たり前だ。どんな国でも、どんな戦争でも、国家のリーダーたちは常にそうしてきた。唯一、日露戦争以後の大日本帝国の判断だけが、この常識から逸脱している。
 明治維新をその「合理性の快復」ゆえに肯定的に評価する司馬遼太郎さんは、日露戦争以後の歴史を「日本はなぜその合理性を喪失していったのか」という視点で歴史考察を続けた。ドナルド・キーンさんは、あの見事な文学を創り続けてきた日本精神が、太平洋戦争で何故あれほどまでに崩壊してしまったか、という謎に取り憑かれて、日本との係わりを深めてきた。心ある人たちは、みんな、同じことに、戸惑い、悩み、考えぬいてきたのである。それが戦後日本の精神史なのだ。

 しかるに、安倍晋三を首領とする政府主流派や、『日本会議』とやらに群がる爺ィどもや、幼稚園の遠足よろしく連れだって靖国参拝を繰り返す国会議員どもは、その先人たちの苦渋の営みを「戦後レジーム」などと呼び捨て、いまだにあの『大東亜戦争』に幻想を持ち続けている。
 『日本会議』だと?
 意味不明の団体名を冠していることを恥よ。
 ぅん? 日本が会議する、とでも言うのか?
 それとも、日本について会議する、という意味なのか?
 訳の分からぬ日本語を使うな、日本語の破壊者どもめ。お前らこそ、最悪の「反日集団」だろうが。
 それほどまでにあの時代が良かったと言うのなら、いま述べた「大日本帝国の体たらく」について、お前たちは釈明をすべき義務を負っている。それが言えないのなら、もうこれ以上何も喋るな。
 こら、そこの爺ィ。何とか言ったらどうだ。

 おっと、余談が過ぎてしまった。
 馬鹿をいくら相手にしても、こちらの気持ちが荒ぶるだけだ。
 怒りを鎮めて、『明治神宮外苑競技場』から『国立霞ヶ丘陸上競技場』への変遷に話をもどそう。言わねばならぬことが、まだまだ、たくさんある。   (この項 続く)


学徒壮行会の写真は、次のサイトにたくさん掲載されています。
  http://www5a.biglobe.ne.jp/~t-senoo/Sensou/gakuto/sub_gakuto.html


                  ページの上段へ


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