難波駅を出た電車がわずかに右にカーヴすると、つり革に掴まっていた男たちは一斉に右側の窓から外を見やった。
 ほんの一瞬、大阪球場のスコアボールドが見えるからだ。
 私の家は球場から1キロ以上も離れていたが、物干し場にあがると、観客のあげる歓声が風に乗って流れてきた。
 確かに昭和のある時代まで、私たちは「自分の五感で直接」社会の動きを感じとっていたのだ。                           







今回のコラムは、
すべて1943年の映画でまいります。





まずは、ご存じ『カサブランカ』
1943年アカデミー作品賞受賞作



サム、何べん言うたら分かるねん、
その曲弾くなて言うたやろ。
そやかてダンさん、あのお方が ……

むかし一晩だけウィーンに立ち寄ったことがある。同行していたイタリア人が、せっかくだから「ウィーンの森の」レストランへ行こう,楽団がいてウィーンの調べを奏でてくれるぜ、と言う。行くと、楽団(と言うよりバンド)は、ワルツでもポルカでもなく "As Time Goes By" を奏していた。
まぁ、これでも良いか、と思っていたら、突然、バンドリーダーが「今、日本の方がみえましたので、五木ひろしの新曲を」とアナウンス。だが、私の知らない曲だった。



我が家では、このシーンでいつも二人の身長論争がおこる。ネットで調べたら下記の通りだったけれど、確かな情報ではないだろう。
ボガード  173p
バーグマン 175p
別にどっちでも良いことで論争するのは限りなく楽しい。





誰が為に鐘は鳴る(1943)
"For Whom the Bell Tolls"
こちらのバーグマンのお相手は
ゲイリー・クーパー




この映画では、このスチルを見ても身長論争は起こらない。





『姿三四郎』(1943)
黒澤明、初監督作品

むかし阪急伊丹駅の近くにあった『伊丹ローズ』で、「黒澤明 深夜連続上映」というのがあった。画質も悪く、半分居眠りしながら観たのだけれど、黒澤は初作品ですでに黒澤である、と感じた。風の描写など見事。


でも、こんな時局に沿った風の作品でも、検閲・カットが酷かったようである。「戦後復刻版の冒頭には、次のような「お詫び」が入れられている。
「昭和一九年三月再上映した際當時の國策の枠を受け監督黒澤明氏並びに製作スタッフの関知せぬまま一八六八尺短縮された」とある。










『無法松の一生』(1943)
監督;稲垣浩
脚本;伊丹万作
主演;阪東妻三郎



スチル写真を見るだけで、
この映画が傑作であることが分かる



ところが、のべ3回に渡り、検閲と削除で、無残にも切り刻まれた。
1,シナリオの事前検閲による削除
2,完成後 4カ所計10分の削除
 その際の検閲室町の言葉。
「これは夜這いではないか。俥引きが軍人の未亡人に恋とは言語道断である。このような非国民映画は絶対に通さんぞ」
3:戦後 GHQに計 8分削除される





ここで思い出されるのが、
『青空に踊る』1943年
"The Sky's the Limit"
主演;フレッド・アステア

ここでのアステアは、柄にもなく空軍の兵士。中国戦線で日本軍の戦闘機を多く撃墜し、休暇でニューヨークへ帰ってくる。だが英雄扱いで予定がぎっしり。例によって美女を追いかけることしか頭に無く、西へ向かう列車が停車したすきに「脱走」してしまう!
戦時中の同じ「国威発揚映画」でも、内容がここまで違う。
彼の映画のなかでは何故か評価が低いが、いつものアステアが十分に楽しめます。










1本だけ戦後の映画を。


『心中天網島』(1969)
監督;篠田正浩

個人的な好みでいうと、私は篠田監督の作品があまり好きではありません。でも『心中天網島』だけは別格。

原作が優れているのは言うまでもないが、そのスタッフがすごい。
音楽;武満徹、美術:粟津潔、
脚本;篠田正浩・武満徹・富岡多恵子、

それに、何と言っても、主演二人の「艶気」のすごさ。

治兵衛;中村吉右衛門
小春;岩下志麻



おさん;岩下志麻の二役



初公開時、この映画を観たある友人は、中村吉右衛門に本気で嫉妬を感じたと告白した。


「名残の橋づくし」







このショットで、二人の身体は、人形浄瑠璃の「人形」に立ち戻ったように見える。原典への見事なオマージュである。










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昭和18年10月21日、学徒出陣壮行会、進め悠久大義の道。
     もうオリンピックなんか、止めてしまえ。 その10
                  (2019年 6月 5日)


 1943年(昭和18年)10月21日『明治神宮外苑競技場』において『学徒出陣壮行会』が執りおこなわれた。この歴史的事実について、いま少し検証しておきたい。ただし、「検証」と言っても、それほど大層なものではない。
 私の机上には、数冊の歴史概説書と「西暦=元号対照表」とが置いてある。記事を書くとき、それを縁(よすが)として、むかし学習した歴史の諸項目を呼び戻してくるのだが、思い出せないことはネットで検索し、ときおり近在の図書館に出向いて内容の精査・確認をする。これが私の言う「検証」の水準である。つまり、誰もが知っていて、仮に忘れていてもチョットした努力で回復できるぐらいの、「常識的な歴史的事実の確認」である。
 前回から「一体誰が、どの様な権限で、国立競技場解体を決定したのか」を、書こうとしている。ますます話の本筋から離脱してしまうのだが、何故「常識的な事実の確認をあらためてここで行わねばならないのか」は、以下を読んでいただければ納得してもらえるはずである。

 まずは、新聞報道から見てみよう。『学徒出陣壮行会』当日の『朝日新聞』夕刊である。




まず、紙面レイアウトと標題に驚かされる。


 第1面トップが、二段ぶち抜きの大判写真。一目見て、一昔まえの駅売りプロレス新聞を連想してしまうのは、私だけでは無いだろう。『米英撃滅! 出陣學徒堂々の分列行進』というコメントも、「16文キック炸裂! 馬場堂々の初戦勝利」なんていうプロレス新聞の口調にそっくり。

 本文の標題には、もっと驚かされる。

  『沸る滅敵の血潮 けふ出陣學徒繰徒壯行大會』

 「沸る滅敵の血潮」などと云う言い回しは、もう骨董的に古くさくて、今ではめったに使われることもない。でも、レイアウトが過日のプロレス新聞と酷似しているのと同じように、この標題も何かに似ている。そう、北朝鮮のテレビニュースを連想させるではないか。金正恩が時折しでかす、原爆実験や軍事パレードの報道がそうだ。彼ら、けっこう日本の歴史を勉強していて、その軍国主義的表現をパクっているのかも知れない。案外「親日家」 …… だったりして、
 日本のテレビ・ニュースは、北朝鮮報道の「極端な部分だけを切り取って」放送しているのだろうが、それでも「北朝鮮の報道が偏向した異常なものである」ことは間違いない。黒い猫の写真は、何処を切り取っても黒い猫なのだ。ごく平均的な感覚の持ち主なら、そう感じて当然である。

 私だけでなく、たいていの日本人なら、イデオロギーとか政治的主張より以前に、北朝鮮の報道スタイル自体を漫画的時代錯誤だと感じるだろう。ならば、『大東亜戦争』への郷愁だけで戦後民主主義を否定しようとする輩どもの場合は、どうなのだろう? 『大東亜戦争』における軍事的威力誇示の典型であるこの『学徒出陣壮行会』が、北朝鮮の軍事的威力誇示のスタイルと酷似していることに、違和感を覚えないのだろうか。我が大日本帝国の『学徒出陣壮行会』にはうっとりと恍惚感に浸るのに、北朝鮮の軍事パレードにはアナフィラキシー的嫌悪を感じる。もし、そうなら、前後不一致、論理の絶対的矛盾、超絶技巧的二枚舌。
 いったん筆を止めて、輩どもの精神の拠り所(宗教団体風に言うなら総本山、旧左翼風に言うなら前衛部隊)である日本会議のホーム・ページを閲覧してみた。だが、「戦後の経済的繁栄は、大東亜戦争に命を捧げた英霊たちの犠牲によって築かれた」ことを忘れている世相(まったく仮想的なものだが)への糾弾や、「戦没者への追悼事業や昭和史検証事業」を粘り強く続けてきた、という自慢話が、序論・総論風に繰り返し述べられているだけで、個々の歴史事象に関する具体的な論評は一切なされていない。

 二言目には「戦後レジーム超克のための憲法改正」を唱える安倍晋三や、その周囲に群がる閣僚たち。連れだって靖国神社に遠足に出かける国会議員たち。畏れ多くも天皇陛下に向かって「靖国参拝せよ」と詰め寄る日本会議の面々は、この『学徒出陣壮行会』の新聞報道をどう読むのだろう? 日本国中、その行く先々で、美しい日本とか、その日本を守るための改憲だとか、大見得を切るのなら、その人たちは『学徒出陣壮行会』という歴史的事実をどう解釈しているのかを、説明する義務を負っている。確かに、行き過ぎた面もあった、悪い面もあった、だが …… 、なんていう言い逃れは絶対に許さない。


小見出しの『悠久大義』という言葉に、徹底的にこだわってみる。


 ついでに、本文中の小見出しについても触れておこう。切り取られた画像なので、下の端が欠けているが、想像で補って読めば、おそらく『進め悠久大義の道 敵米英學徒を壓倒せよ』だろう。
 紙面の騒々しさの中では、うっかりと読み過ごしてしまいそうだが、この文章も許容できない矛盾を含んでいる。上で列挙した面々には、何がおかしいのか分からないだろうが。じっくりと見直していただきたい。これ、二重の欺瞞を含んでいます。

  『進め悠久大義の道』

 日本会議を信奉するする人たちは、「大義」だとか、「道義」だとかいう風に『義』の付く言葉に酔いしれて、たちまち判断停止、前後不覚に陥るようである。だが、儒教由来の『義』とは本来どういう概念なのか、ほんのチョットでも調べたことがあるのだろうか? チョー面倒くさいことであるが、チョー常識的な『義』の意味を確認することから始めよう。何冊か漢和辞典と国語辞典を開けばOKだが、ネット検索で済ますことにする。

『小学館 大辞泉』によれば『義』とは、
1、人のふみ行うべき正しい筋道。
2、私欲を捨て、公共のためにすること。


『ウィクショナリー』によれば『義』とは、
 儒教の徳目のひとつ。孔子が重視した「仁」に次ぐものとして孟子により強調される。
 仁が社会一般における普遍的な道徳観であるのに対して、義は個別具体的な行為に対して正しく報いることを重視する。


 単純明快ですね。「義を見てせざるは勇無きなり」とは、確か『論語』にある警句だったと記憶するが、これを現代風に解題すればこうなる。
 上司が女子社員にセクハラを働くのを見かけたとする。その時、毅然として上司を批判して狼藉を止めさせることが、「義」を通すということである。上司の反感を買うのを恐れて見て見ぬふりをするなら、己のちっぽけな「利」のために「義」に背くことになる。「義」を貫くには勇気がいる。利己に逃げ込み「ヘタレ」に甘んじるのは「勇無き」ことなのだ。こんな風に、「義」とは優れて「個々人の行動倫理にまつわる概念」なのである。
 しかし人間は霞を食って生きて行くことは出来ない、何らかの生産活動や交易で「利」を求めなければならない。「義」は努力して獲得してゆくものであるが、「利」は無意識のあいだに自己増殖し、往々にして「義」を侵食してしまう。だから、儒家たちは、二千年のあいだ、この「義」と「利」を、どう整合させるかを論じ続けてきた。

 以上、要約すれば、「義」は個々人の行動倫理に関する概念であり、「利」と対概念を成す。
 「義」とは「為すべき事を為す」こと。「利」とは「己の利益になることを為す」こと。
 それ以上でも以下でもない。


古典芸能で、日本人の『義』の意味を確かめる。


 今、『論語』の一節にある「義」を、セクハラ上司への対応という例で読み解いてみた。しかし、
二千年の時空を越えて、現代日本の凡庸な例を引き合いに出さずとも、江戸時代の演芸・文芸を見れば、「義の理(ことわり)」(要注意;現代用語の『義理』とは意味が違う)を通そうとする葛藤の絡みが、当人たちの意思とは裏腹に次第に悲劇的な終末に向かう、という筋立てがごまんとあり、多くの作家たちにより、悲それは劇的美学の極致にまで昇華させられている。
 一例として、『心中天網島』(近松門左衛門;1720年)を挙げる。有名な話だし、映画にもなった(篠田正浩監督;1969年)。私が下手な解説をすることもないだろう。
 紙屋治兵衛、その女房おさん、遊女の小春、この三者がお互いに義理立てしようとする。そのベクトルの絡みが、当人たちの意思とは裏腹に、三人をジリジリと悲劇の結末に導いて行く。江戸文化の研究者、田中優子さん(法政大学の総長さんだ)が、そのプロセスを見事に活写・要約しておられるので、そのまま拝借させていただく。

…… 近松門左衛門の『心中天の網島』は恋人どうしの心中ものだが、夫婦の話でもある。紙屋の治兵衛にはおさんという妻と二人の子供がいた。その一方で治兵衛は、遊女の小春と真剣な恋をしていた。しかし治兵衛の経済力では、小春を請け出すことはできない。一方、別の金持ちの男性が小春を請け出したいと言っている。治兵衛と小春は心中を考え始めた。治兵衛のためにすっかり客が寄りつかなくなった小春だが、ある日久しぶりにひとりの武士が客としてついた。小春はその武士に、「心中の約束をしてしまったが、じつは死にたくない。助けてほしい」と相談を持ちかける。それを外で聞いていた治兵衛は、裏切られたと知って荒れる。しかし小春の言葉の裏には、治兵衛の妻おさんとの女どうしの約束があった。
 おさんは治兵衛が心中するつもりだと見て取り、「夫の命を救ってくれ」と小春に手紙を書いたのだった。小春はその手紙に深く心を動かされ、「自分の命にかえても惜しくないほどいとおしい人だが、引くに引かれぬあなたとの義理。治兵衛さんとはきっぱり別れます」と返信する。この手紙のやりとりで、「女どうしの義理」が生まれた。義理とはこの場合、自分の外にある社会的義務のことではない。自分の中にある人間としての生き方、価値観のことだ。いったん約束したことは必ず守るということも、相手に対する人間としての義理である。この約束を守るために、小春はひとりで死ぬ決意をする。
 しかし「小春がひとりで死ぬ」ことを悟ったおさんは、こんどは人間どうしの義理を守るために、「小春の命を救わねば」と思う。自分の箪笥を開け、商品の仕入れに用意してあった金と、自分と子供たちの着物を次々に取り出して風呂敷に包み、それを売って小春を請け出す手つけ金にしろ、と夫に言う。 ……
田中優子『江戸の恋 ― 「粋」と「艶気」に生きる (集英社新書)』( 146p.)

 これで、事態は好転するかに見える。だが、

  …… 武士以外は、基本的には夫が離縁状を妻に渡す。とは言っても妻が離婚を望む場合もあるし、協議離婚もある。たとえば夫が妻の財産(たとえば衣類など)を勝手に質に入れてしまった場合、妻の父親はその夫に対して離縁状を請求する権利があった。『心中天の網島』では最後に、夫が妻おさんの衣類を質入れしに行こうとしたため、おさんの父親がおさんを強引に実家に連れてゆく成り行きとなったのである。  同上( 154p.)

 かくして、治兵衛と小春はふたたび心中を契る。浄瑠璃は「名残の橋づくし」の心中道行から終末へとなだれ込む。網島の大長寺で、治兵衛は小春を刺し、自らは首を吊る。これはおさんへの義理立てでもあった。

 さて、「粋」も「艶気」もない現実にひきもどして恐縮だが、引用部分の下線部分を再読していただきたい。

  義理とはこの場合、自分の外にある社会的義務のことではない。
  自分の中にある人間としての生き方、価値観のことだ。


 ここでも『義』とは、『論語』での意味や、漢和辞典の解説と完全に一致しているいる。
 『義』とは、「社会的義務のことではな」く、「自分の中にある人間としての生き方、価値観」が、相対する親しい人たち(特に、恋人や夫婦など)に向かう時の思念の有りようのことなのだ。吉本隆明が『共同幻想論』で提示した概念を借りるなら、『義』は『対幻想』領域にある。そして再び吉本の表現を借りるなら、「対幻想は共同幻想に逆立する」のであった。


[悠久→{(大)→(義)}]という修飾の関係


 こんな風に『義』の語義を明確にしてゆくと、新聞小見出しの「進め悠久大義の道」という表現は、きわめて奇妙なものに見えてくる。[悠久→{(大)→(義)}]という 修飾 → 被修飾 の関係になるのだろうが、いま[悠久→ ]の大括弧はさて置いて、{(大)→(義)}という中括弧の中だけを考えてみる。
 『義』とは、恋人・夫婦・親子・ごく親しい人たち、といった「個人と個人の密接な係わり」の関係性において成立する極めて具体的な概念であった。しかし、それを修飾している『大』とは、
その場その場で多様な意味を含ませることのできるウルトラ抽象的概念である。はたして『大』は『義』の修飾語たりうるのか? 修飾とは論理的に言い換えれば「意味の限定」である。では、『大義』の『大』は、『義』の意味をどの様に限定しているだろうか。
 日本会議のメンバーのように、曖昧な言葉遣いを垂れ流して平気な人たちは、お前は何にこだわっているのだ。訳が分からぬ、そんな事どうでも良いだろう、と言うだろう。だが、私は、ごく凡庸な言語センスしか持ち合わせていないが、彼らほどに語彙に鈍感にはなれない。訳の分からぬ言葉を、訳の分からぬまま使うのは、寝床で小便をたれるぐらいに気持ちが悪い。

 そこで、少し調べてみた。中国古典のなかに、『大義』という言葉はあるのか?
 あったとして、ごく普通に使われる熟(こな)れた表現だったのか?
 一例、見つけました。『日本大百科全書(ニッポニカ)』『大義名分』の項にありました。

 大義とは、君臣の大義、すなわち臣下の君主に対する忠誠の義務を、人の道義のなかでも重要なものとみる意味を表現した語で、それが父子の間の親愛の情よりも優先させられた場合には、「大義、親を滅す」(『春秋左氏伝』隠公(いんこう)四年の条)と記述された。しかし中国では、君臣よりも父子の関係のほうが人倫の基本とみなされていたから、前記のような事態はむしろ例外的なものであった。

 ほらね、『大義』となると、「臣下の君主に対する忠誠の義務」という風に、意味の変容が生じてます。変容というより、ねじ曲げだね。しかも、中国では、「君臣よりも父子の関係のほうが人倫の基本とみなされていた」から、まったく不人気な言葉だったのだ。「大義、親を滅す」とは、ズバリ「対幻想は共同幻想に逆立する」の具体例になっている。

 私は勉強家ではないので、この日本で、『大義』という言葉がいつから乱用されるようになったのか、知らない。中国で先に使われだしたのか、日本固有の流行だったのかも、よく分からない。
 でも、だいたい見当は付いてます。
 次に、この奇妙な『大義』という造語の成立過程を想像してみる。


『大義』という言葉の成立過程


 「おおブレネリ、あなたのおうちはどこ?」と尋ねられたブレネリは「わたしのおうちはスイッツランドよ」と、答える。しかし、江戸時代の人々は「あなたのお国はどこ?」と問われても、「うち、京都どすえ」とか「おいどんは薩摩でごわす」とか答えていたはずである。(いい加減な方言ですんまへん、わて、河内でんねん)。秀吉は他の大名を制圧した時点で「天下人」と呼ばれた。「藩」の上位概念は「日本」を素通りして、一気に「天下」まで上昇する。「日本」というナショナリティはまだ希薄で、靄(もや)のようなものだった。
 
 だが、『心中天網島』の約20年後、1739年、ロシアの探検船が蝦夷地から太平洋側を南下し、潮岬沖までやってきた。これを『元文の黒船』と呼ぶ。ロシアは1700年代の初めから極東へ進出する機会をうかがっていた。西方が西欧列強の壁に阻まれているので、東へ向かうしかなかったのである。後の日露戦争と同じ序盤展開ですね。1739年といえば、ペリーの黒船が太平洋を西回りで渡ってくるのより1世紀以上前、南回りでやってきたイギリスが清にアヘン戦争を仕掛けるちょうど1世紀前にあたる。この黒船出現が、日本の為政者たちに、自分たちがロシアの対象となっていることを自覚させ、日本という国家的アイデンティティを作り出す必要を感じさせる契機となった。

 1781年、工藤平助『赤蝦夷風説考』(あかえぞふうせつこう)の刊行を始める。完成は1783年。赤蝦夷とはロシアの事。つまりこの本はロシアの研究書である。
 林子平『海国兵談』第1巻を出したのは1873年、全巻の刊行を終えたのが1791年。ロシアの極東進出に対抗するには、海軍力の整備・増強が必要だ、と説いた。
 特に工藤平助の意を汲んで、時の老中田沼意次は、1783年、蝦夷地に調査団を派遣する。それまで江戸幕府の根本原理であった米作農本主義の行き詰まりから、重商主義の政策をとった田沼は、もしロシアと平和裏に交渉が進むのなら蝦夷地で貿易を、もし戦を交える事になるのなら、なるべく遠隔地に前線を敷くため、その足がかりとして蝦夷開発を進めようとしたのである。
 歴史上の人物評価は一義的にはいかない。私の時代、学校の授業では、彼は賄賂政治を横行させた腐敗蔓延の張本人のような説明がなされていた。しかし、上記の流れのなかに置けば、彼は知的な戦略家であるように見える。経済の行き詰まりの現実を直視し、ロシアという外的脅威の正体を見極め、どう転ぶか分からぬ将来にむけて具体的な対策を立てようとした。判断力と実務能力に長けた人であったように思える。実際、最近の歴史概説書は、賄賂政治は江戸時代を通じて一般的なことであったとし、彼が年貢の増収だけに頼る経済維持は不可能であると見定め、今で言う社会的インフラの整備や、明治の殖産興業を先取りする政策を次々と打ち出したことを肯定的に評価している。

 だが教科書の教えるとおり、1786年、田沼は失脚。翌年から、松平定信「寛政の改革」が始まる。改革と言えば聞こえが良いが、これは農本原理主義への反動的復帰であった。これが今日における歴史家の標準的評価である。
 田沼は失脚のあと、降格、減封、財産没収、江戸屋敷明け渡し、蟄居、長男暗殺と、散々な目に遭わされる。同様に、『赤蝦夷風説考』の工藤平助も蟄居、林子平の『海国兵談』は版木没収。いわゆる『処士横議の禁』の標的とされた。これは幕府を批判する人々の言論弾圧であったが、それに止まらず、公序良俗を乱すとして、戯作世界の、山東京伝、恋川春町、さらには版元の蔦屋重三郎まで取り締まりの対象となった。
 さらに『寛政異学の禁』が出され、昌平坂学問所では、儒家の中でも朱子学だけが「正学」とされた。実利が多いと認識されていた蘭学も禁止される。『禁』は民間や諸藩の学問まで規制するものではなかったが、例によって、ほとんどの学問所や塾は「右へ倣え」。その後、朱子学は純粋培養的に縮小方向に発展して「水戸学」となる。この「水戸学」が造りあげた造語こそ『大義名分』であった。かくして「大義とは秩序が実現しうる究極の制度を意味する」『世界大百科事典』第2版)までに意味が膨張・変質させられてしまう。

 世界史的にみれば、ある地域・ある民族の自生的自立が、帝国主義的侵略の危機に晒されたことが契機となり、ナショナリズムが形成される場合が多い。日本とて例外ではなく、その定式どおり、田沼意次らは、黒船の出現で自らを客観視する能力を獲得し、ロシアの接近に備えようとしていた。
 だが、それは即座に挫折させられる。諸外国の事情を探ることも、海外に対する備えをすることも、その後1世紀近く放置されたままになる。海外からの脅威に、「見て見ぬふり」を決め込んだのであった。諸外国から学ぶことまで停止したわけだから、新たに国家的アイデンティティーを創造する萌芽を芽生えさせることは不可能だった。
 では、どうしたのか? 手持ちのネタで誤魔化すしかないではないか。
 かくして、誰もが経験的に熟知している『義』という対幻想を、無理やり『大義』という共同幻想に祭り上げることとなる
 何も知ろうとするな、何も考えるな、お上の願う「秩序が実現しうる究極の制度」を崇めよ。これが、わが日本国民の根本的ポリシーであると。(こんな言葉遣いじゃなかったでしょうが)
 もう「粋」も「艶気」も、目黒のサンマのように消し飛んでいますから、人気出ませんでしたね、この言葉。だから、近代的ナショナリティーの構築を放棄したまま、いたずらに時の流るるにまかせ、1世紀の後、ペリー来航で、武士も平民も慌てふためくのであった。


さて、明治


 この『大義』は明治となってから急遽復活させられる。{(大)→(義)}という、 修飾 → 被修飾 の関係が捏造品であることはバレバレだったから、さらにその上に[悠久→ ]という修飾語を重ねなければならなかった。むりやり急造した概念を、「大昔からそうだった」と言うことで権威づけたわけである。これ、太古神話の王権生成プロセスと同じやり方ですね。

 やっと、『進め悠久大義の道』という、「新聞小見出し」の話まで復帰してきました。
 『大義』には具体的な内実が無い。前にいくら修飾語を重ねても無内容であることに質的な変化は起こらない。それは、新聞の本文を読めばよく分かるはずです。
 あれこれ検索したら、原文の一部がみつかりました。最初に掲げた紙面の、赤い枠でかこんだ部分の文章です。まぁ、読んでみてください。大見出しの『沸る撃滅の血潮 けふ出陣學徒繰徒壯行大會』と呼応して、ただただ、仇敵を憎め、この国に生を受けたこと有り難いと思え、大義に殉ずることに感動せよ、と咆哮しているだけの図である。

この朝午前八時、出陣学徒東京帝大以下都下、神奈川、千葉、埼玉縣下七十七校○○名は執銃、帯剣、巻脚絆の武装も颯爽と神宮外苑の落葉を踏んで、それぞれ所定の位置に集結、送る学徒百七校六万五千名は早くも観客席を埋め尽くした。

午前九時二十分、戸山学校軍楽隊の指揮棒一閃、心も躍る観兵式行進曲の音律が湧き上がって『分列に前へツ』の号令が高らかに響いた、大地を踏みしめる波のような歩調が聞こえる、この時会場内十万の聲はひそと静まる、見よ、時計台の下、あの白い清楚な帝大の校旗が秋風を仰いで現れた、纉ぐ剣光帽影『ワァツ』といふ歓声、出陣学徒部隊いまぞ進む、『頭ァー右ッ』眼が一斉に壇上の岡部文部相を仰いだ、

幾十、幾百、幾千の足が進んでくる、この足やがてジャングルを踏み、この脛やがて敵前渡河の水を走るのだ、拍手、拍手、歓声、歓声、十万の眼からみんな涙が流れた、涙を流しながら手を拍ち帽を振った、女子学徒集団には真白なハンケチの波のように、花のように飛んでいる、学徒部隊はいつしか場内に溢れ、剣光はすすき原のやうに輝いた、十時十分分列式は終わる、津波のひいたやうな静けさ、やがて喇叭『君が代』が高らかに響いて。宮城遥拝、君が代奉唱…

  http://syowakara.com/07guntai/G03gakutosyutujin.htm

 全国紙第1面の記事を書くほどの記者なら、文系高学歴、エリート中のエリートだろう。そんな「彼」が、ここまで空疎な言葉を羅列できるのは何故だろう? 感極まり、感涙にむせぶがごとく、扇情的語彙を吐出しつづける。恥じらいの感覚や、ためらいの一片をも見せることがないのは何故だろう?

 だが、しかし、彼らの本音はどうだったのか
 今から、その「本音」を探ってみる。

 『学徒出陣壮行会』のほぼ一年後に発行された、太宰治『津軽』を素材として活用する。
 エッ、何で、ここで太宰治なの? と、思われた方は、ぜひ次回も読んでみてください。


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 −−【その10】了−− もうオリンピックなんか、止めてしまえ 目次へ