難波駅を出た電車がわずかに右にカーヴすると、つり革に掴まっていた男たちは一斉に右側の窓から外を見やった。
 ほんの一瞬、大阪球場のスコアボールドが見えるからだ。
 私の家は球場から1キロ以上も離れていたが、物干し場にあがると、観客のあげる歓声が風に乗って流れてきた。
 確かに昭和のある時代まで、私たちは「自分の五感で直接」社会の動きを感じとっていたのだ。                           







1873年(明治6年)陸軍省から『徴兵令』が発布される。
その元となった『徴兵令並近衛兵編成兵額等伺』はこの『公文録』に綴じられている。
(国立公文書館のHPより)

注意すべきは、年号『壬申(みずのえ さる /じんしん)十一月』と記されていること。
『皇紀xxxx年』でもなければ、『明治xx年』という元号表記でもない。
干支(えと)による表記なのだ。


そう言えば、私の住む土地の村社には、日露戦争に出征した人の記念碑が建っているが、その碑文は
『辰巳戦役碑』である。
(きのえたつ、こうしん)
  →1904年(明治37年)
(きのとみ、いっし)
  →1905年(明治38年)

こんな風に、明治が終わりに近づいても、年号表記はまだ「干支」が一般的であった。
令和への改元の際、仕切りと「元号は日本の伝統」と言う人たちがいたが、それは「極めて最近に作られた伝統である」ことをしかと認識すべきであろう。


さて、『徴兵令』は出されたものの、たちまち各地で徴兵反対一揆(血税一揆)が起こり、徴兵逃れのマニュアル本も次々に出版された。



兵役免除規定の内容は絶えず変化した。
1889年(明治22年)の『徴兵令』の場合はどうだったか。ザッとまとめれば以下の通り。

(1)官庁に勤務している者
(2)陸軍学校生徒、海軍学校生徒
(3)官立学校生徒、公立学校生徒
(4)外国留学中の者
(5)医術・馬医術を修得しようとしている者
(6)一家の主人、跡継ぎ
(7)一人っ子
(8)父兄の代わりに家を支える者
(9)養子
(10)徴兵中の兄弟がいる者
(11)罪人
(12)代人料270円を納める者
(13)北海道・沖縄・小笠原に籍を置く者

(13)の理由が分かりにくいが、北海道・沖縄・小笠原の開発を優先したため、と思われる。屯田兵としての意味があったのかも知れない。不勉強ですみません。


さて、前回のコラムは映画づくしだったので、今回は『津軽』を引用した成り行き上、日本文学で攻めようか。チョット苦手の分野だけれど。


夏目漱石は、1902年(明治25)年、北海道後志国岩内郡吹上町の浅岡さんという人の養子となり、そこに本籍を移している。上の(13)を利用して徴兵を免れたわけである。
1889年(明治22年)の『徴兵令』では、学生は満26歳まで徴兵を猶予されていた。漱石が籍を移したのは、26歳になる直前だった。
ただし当時は、いわゆる知識人層においては、本籍移動で徴兵を逃れることは一般的に行われていた、とも言われている。



じじつ『我が輩は猫である』1905年(明治38年)〜1906年(明治39年)の第六章には、自身をほのめかす文人を『送籍』という名で登場させている。
これは『ホトトギス』に発表時の装丁下絵。

「せんだっても私の友人で送籍(そうせき)と云う男が一夜という短篇をかきましたが、誰が読んでも朦朧として取り留めがつかないので、当人に逢って篤と主意のあるところを糺して見たのですが、当人もそんな事は知らないよと云って取り合わないのです。全くその辺が詩人の特色かと思います」「詩人かも知れないが随分妙な男ですね」と主人が云うと、迷亭が「馬鹿だよ」と単簡に送籍君を打ち留めた。


だが、次で述べる丸谷才一は、この徴兵忌避が漱石の国家にたいする負い目となった、と分析している。確かに、後期の作品群における、主人公の煮え切らない態度(じっさい、何に悩んでいるのか、今ひとつはっきりしない)は、そう考えると理解しやすくなる。

丸谷才一



『笹まくら』(1966年;初版)
徴兵忌避者が主人公の小説と言えば、私は丸谷才一『笹まくら』(1966)しか浮かべることができない。はたして、これ以外に、徴兵忌避をまともに扱った文学作品があっただろうか?

学生時代、主人公浜田庄吉には二人の親しい友人がいた。三人はいつも、徴兵は忌避したい、どうすれば徴兵忌避できるだろうか、と話し合う仲であった。だが、一人は入営、もう一人は自死を選ぶ。唯一、彼だけが徴兵忌避を実行するのだ。憲兵と出会う大都市をさけ、名と出生を偽り、ラジヲと時計の修理、後には砂絵の香具師となって、地方から地方へと逃避の旅を続ける。流浪の先の隠岐島で一人の女性と知り合い、彼女に囲われることで、終戦までをしのぐ。戦後二十年、彼はある私立大学(丸谷が奉職した國學院大學を思わせる)で事務職として働いている。生活は平穏で、課長職も目前のこととなっている。兵役忌避はすで過去のこととなっているように思えた。だが …… 、


谷崎潤一郎

谷崎潤一郎は、1943年(昭和18年)つまり『学徒出陣壮行会』と同じ年に、『中央公論』に『細雪』の連載を開始するが、検閲に触れ連載禁止となる。だが秘かに執筆を続け、翌1944年(昭和19年)上巻を私家版として発行する。そして終戦を挟んで、1948年(昭和23年)に全巻を完成させるのである。すごい根性だね。
『細雪』が発禁となったという一点だけで、『大東亜戦争』に幻想を抱く人たちの「美しい日本」「誇りある日本」が、とんだ食わせ物だということが露呈していると思うが、如何?

この『私家版上巻』がある古書店に在庫として置かれていて、262,500円という値が付いている。
安い! と思う。 ……
私には買えないけれど。


太宰治



『津軽』は、1944年(昭和19年)11月15日、小山書店より刊行された。

初版発行部数は3,000部、定価は3円だった。


永井荷風



永井荷風は、1920年(大正9年)5月麻布区(現港区)市兵衛町に転居。ペンキ塗りであったことから、偏奇(へんき)館と名付ける。





この『断腸亭日記』は荷風自身が製本したものと言われている。

そのなかから、1945年(昭和20年)3月9日の一部を引用する。空襲で偏奇館が焼けてしまった日である。

1945年(昭和20年)3月9日
…… 予は風の方向と火の手とを見計り逃ぐべき路の方角をも稍知ることを得たれば、麻布の地を去るに臨み二十六年住なれし偏奇館の燒け落るさまを心の行くかぎり眺飽かさむものと、再び田中氏邸の門前に歩み戻りぬ。巡査、兵卒、宮家の門を警しめ、道ゆく者を遮り止むるが故、予は電柱または立木の蔭に身を隠し小徑のはづれに立ち我家の方を眺むる時、隣家のフロイドルスベルゲル氏褞袍にスリツパをはき、帽子も冠らず逃れ來るに逢ふ。崖下より飛來りし火にあふられ其家まさに燒けつゝあり。君の家も類燒を免れまじと言ふ中、我門前の田島氏、その隣の植木屋もつゞいて來り、先生のところへ火がうつりし故、もう駄目だと思ひ各々その家を捨てゝ來りし由を告ぐ。予は五六歩横町に進み入りしが、洋人の家の樫の木と予が庭の椎の大木炎々として燃え上り、K烟風に渦巻き吹きつけ來るに辟易し、近づきて家屋の燒け倒るゝを見定むること能はず、唯火?(炎)の更に一段烈しく空に舞上るを見たるのみ。これ偏奇館樓上萬巻の圖書、一時に燃上りしがためと知られたり。 ……





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大東亜戦争完遂も、機密保持も、その振りをしていただけ。
     もうオリンピックなんか、止めてしまえ。 その11
                  (2019年 7月 5日)



 1943年(昭和18年)10月21日、明治神宮外苑競技場において『學徒出陣壮行会』が執りおこなわれた。前回は、この『壮行会』の様子を、当日の『朝日新聞』夕刊紙面で検証した。写真、見出し、と進んで、本文の検証に入ったところで終わっている。引き続き本文の検証を続ける。もう一度、原文(抜粋だが)を引用しておく。三文節なので、便宜上、上段、中段、下段、としておく。

〔上段〕
この朝午前八時、出陣学徒東京帝大以下都下、神奈川、千葉、埼玉縣下七十七校○○名は執銃、帯剣、巻脚絆の武装も颯爽と神宮外苑の落葉を踏んで、それぞれ所定の位置に集結、送る学徒百七校六万五千名は早くも観客席を埋め尽くした。

〔中段〕
午前九時二十分、戸山学校軍楽隊の指揮棒一閃、心も躍る観兵式行進曲の音律が湧き上がって『分列に前へツ』の号令が高らかに響いた、大地を踏みしめる波のような歩調が聞こえる、この時会場内十万の聲はひそと静まる、見よ、時計台の下、あの白い清楚な帝大の校旗が秋風を仰いで現れた、纉ぐ剣光帽影『ワァツ』といふ歓声、出陣学徒部隊いまぞ進む、『頭ァー右ッ』眼が一斉に壇上の岡部文部相を仰いだ、
〔下段〕

幾十、幾百、幾千の足が進んでくる、この足やがてジャングルを踏み、この脛やがて敵前渡河の水を走るのだ、拍手、拍手、歓声、歓声、十万の眼からみんな涙が流れた、涙を流しながら手を拍ち帽を振った、女子学徒集団には真白なハンケチの波のように、花のように飛んでいる、学徒部隊はいつしか場内に溢れ、剣光はすすき原のやうに輝いた、十時十分分列式は終わる、津波のひいたやうな静けさ、やがて喇叭『君が代』が高らかに響いて。宮城遥拝、君が代奉唱…
  http://syowakara.com/07guntai/G03gakutosyutujin.htm

 ご覧の通り、「感極まり、感涙にむせぶがごとく、扇情的語彙」の吐出が続くのであるが、彼ら彼女らは、つまり、主催者や、出陣學徒や、女子學徒集団たち、報道記者たち、つまりこの場の構成員のすべては、会場に木霊する言葉の数々を、本当にその通りだ、と納得し、集団アナフィラキシー的感動に酔いしれていたのだろうか?
 
彼らの本心はどうだったのだろう?
 今回はここからスタートする。さて、もう一度ゆっくりと読み直してみよう。


「伏せ字」にすることの意味


 〔上段〕1行目から、奇妙なことに気づかされる。

    出陣学徒東京帝大以下都下、神奈川、千葉、埼玉縣下七十七校○○名は

 学徒出陣の人数が「○○名は」と「伏せ字」になっている。
 これって、変でしょう。何を今さら、ここの学生の人数だけ伏せ字にする必要があるのか?


 話を明確にするために、学徒出陣に至るまでの歴史的経過をザッとおさらいしてみる。
 1889年(明治22年)の『徴兵令』は、初めて法律で定められた徴兵令であるが(それまでは太政官布告だった)、「国民皆兵」を理念として掲げていたものの、実際に徴兵されたのは成人男性の 3% 〜 4% に過ぎなかった。何故なら、1873年(明治6年)に陸軍省から発布された徴兵令以来の、多くの兵役免除条項がそのまま存続していたし、だいいち政府の財源にも限りが有った。
 成人男子を富を生む生産現場から離脱させ、衣食住を保証、兵士として教育・訓練し、武装させ、前線に送り込み、兵站を確保する。軍隊の育成・維持・出征には巨額の費用がかかるのである。だから兵隊とは、本来的に精鋭部隊であり、軍団の規模と訓練度の全貌は国家的機密事項であった。

 しかるに、現役には不適当とされた丙種合格者や、国家的再生産活動の推進役となるべき学生たちまで、現役兵士に登用するとなると、たちまちこれは「兵士が絶対的に不足していること」と「兵士の質の低下」を不用意に周知させることになる。本来なら大々的には公表できない「こちらの事情」。つまり『學徒出陣』とは、そっと、潜に、秘密裏に行われてしかるべきものだったはずである。
 しかるに、時の為政者たちは、逆に、これを『學徒出陣壮行会』という国家的プロパガンダに仕立て上げてしまう。これ、矛盾ですね。

 1937年(昭和12年)から続く『支那事変』、それに加え、1941年(昭和16年)からは『大東亜戦争』が始まり、前線は四方八方に拡大、そのまま膠着状態となる。兵力の不足が慢性的なものとなる。これに対応して、大学・高等学校・専門学校の学生たちに対する兵役猶予は、1941年(昭和16年)以来、なし崩し的に無効化されてきた。
 『壮行会』は1943年(昭和18年)が最初(で、最後)だったけれど、1941年(昭和16年)から、広報や新聞などは、学徒出陣のたびに、ヤイノ、ヤイノと騒ぎ立てていた。だって、国家とマスコミがこぞって煽り立てなければ、多くの学生たちは、すんなりと、繰り上げ卒業 → 徴兵検査 → 入営、という手順には従わないだろう、と懸念されたから。すでに、国家的機密を逆にプロパガンダに仕立てなければ戦時プロジェクトが進まない、という矛盾に陥っていたわけである。

 だったら、いまさら、隠すこともなかろう。赤紙に応じて入営はするものの、内心は「嫌々ながら」という輩はたくさんいる。いや、大きな声では言えないが、いまだに兵役忌避者だっている。それなら、いっそのこと『壮行会』を大々的に催して、大日本帝国が決定したことには逆らえない、嬉々として従うべきだ、という気風を醸成する国家的イベントとして利用したらどうか。このところ戦局ははかばかしくない。焦点をぼかした大本営発表を胡散臭く感じているやつだって多い。だったら、ここらで国民の気分を高揚させるため、派手に、ボーンと、景気よく、『壮行会』でもぶちあげたらどうだ。でも待てよ、学生を繰り上げ卒業させて戦線に送るなんぞ、本来なら国家の最高機密事項じゃないか。大騒ぎをするのは良いが、実はこれ、最高機密だぜ。機密漏洩はまかり成らぬ、という建前はどう保持する。こりゃ困った。そうだ、出陣學徒数を伏せ字にしてしまえ。本当は秘密なんだけれど教えてやるぞという風を装えばいい。そうだ、そうだ、出陣學徒数は伏せ字だ。既にバレているのだ。機密保持を貫いています、という振りだけすればよい。



振りをして済ましているうちに、知性と道徳感が霧散する


 そう「振をしていただけ」だったのです。もう一度、本文に戻ってみようか、

 〔上段〕の終わりに「送る学徒百七校六万五千名は早くも観客席を埋め尽くした」とあるから、観客席にいたのは間違いなく「65,000名」なんだよな。

 ところが、〔下段〕に「拍手、拍手、歓声、歓声、十万の眼からみんな涙が流れた」とあるが、これ、一体、どういうことじゃ。映画『二十四の瞳』は「12人の児童・生徒」の話だったから、それと同じように数えると、「50,000名」が泣いたことになる。すると残りの「15,000名」はシラーとしていた、というわけか? それではおかしいから「十万の眼」は「100,000人の眼」と読むべきか? 確かに〔中段〕にも「この時会場内十万の聲はひそと静まる」とあるから、この「十万」が「具体的な数値の表現ではなく、とても沢山の、という意をあらわす形容詞」とでも理解しないかぎり(それでは、ほとんど曲解に近くなる)、「この時会場にいたのは 合計100,000人」と断定するしかないだろう。

 すると、観客席の「65,000名」との差=「35,000名」が出陣學徒の数、という計算になる!
 だったら、冒頭の出陣學徒の人数を「○○名は」と伏せ字にする意味が無効化されてしまうではないか!

 じじつ、いくつかの歴史書には「この時の出陣学徒の人数は、正確には記録されていないが、約35,000名程度だったと思われる」という記述があった。推定の根拠は、この引き算だったのに間違いなかろう。
 冒頭の「出陣学徒 …… ○○名は」という伏せ字は、ナンセンスな格好つけ。最後まで読めば、誰にでも単純な引き算で数値が確定できる。ドアに鍵を掛けたものの、その鍵をドアの横に吊しておくようなものだ。

 こんないい加減さが通用していた、とは驚きである。戦争に勝利することを真剣に考える、などといった最低限の知性・道徳感も霧散していて、ただただ、「戦争遂行に身も心も捧げています、という振りをすること」で万事OKとなっていたのである。酒席の座興じゃないんだ。若者を死に追いやるイニシエーション。若者に「死んでまいります」と宣言させて、その報道がこれかよ!

 冒頭で「主催者や、出陣學徒や、女子學徒集団たち、報道記者たち、つまりこの場の構成員のすべての、本心はどうだったのだろう?」と問うたが、素直に考えれば、次のとおりだった、と結論づけざるを得ないだろう。

1) 彼ら彼女らは「感動に酔いしれたふりをしていただけ」である、
2) 記者諸君は「機密保持を貫いているふりをしているだけ」である、
3) まわりの誰もがそうするから私もそうするしかなかった、というのがその理由であるが、
4) つまるところ、その後全員が演じた通りの艱難辛苦を味わわされた」のであった。


 この「機密保持を貫いているふりをしているだけ」という実際を、同じ時代の文芸作品でみてみよう。例として示すのは、『學徒出陣壮行会』の翌年に発行された、太宰治『津軽』。ここで太宰は、「国防意識の建前」に恭順の意を表するふりをしながら、実は「まやかしの国防意識」をからかっていると、私には読める。


太宰治『津軽』を読む


 日本の作家のなかで、第二次大戦中の思想統制を、もっとも上手くヒラリとかわして創作意欲を堅持し続けたのは、谷崎潤一郎太宰治の二人ではないか、と思う。私は日本文学の良い読み手ではない。正直言って、それほど多くの作品を読んできたわけでもない。だが、この谷崎と太宰に対する評価はまず間違ってはいないだろう、という自信がある。
 もちろんこの二人とて、検閲・発禁・削除・書き換え、など、様々な干渉から無縁であったわけではないが(特に谷崎は)、時勢に抗わず逆らわずの態度を見せながら、自我と自らの美意識を守り切った作家は、他に類を見ないのではないか。これに永井荷風を加えてもよいが、抵抗の意思と美意識の墨守がより頑強であった彼の場合、最悪の時代にはすでに「印税で食える」ようになっていた。当面は非公開のつもりで、日記『断腸亭日乗』を持ち歩き、それに好きなことを書いていたのである。

 さて太宰の『津軽』である。この作品は、いま検証している『學徒出陣壮行会』のほぼ一年後に出版された。上梓された時期を考えると、この作品が、「時節」とはまったく違った時間の流れのなかで書かれていることに驚かされる。まこと奇跡のように思える。
 いま私は、この稿を中断させて『津軽』を再読する余裕を持たないし、文学論に踏み込むほどの素養もない。だから極めて荒っぽい理屈を述べるしかないのだが、繰り返し読んできて、頭の中に定着している『津軽』の印象をそのまま述べさせていただく。

 『津軽』は不思議な魅力を持つ作品である。『津軽』を読むと、どんな時でも、心の芯まで「清涼感」がじんわりと染みこんで行くのが分かる。どんなに頑強にねじ曲がった精神でも、もとの柔らかさへと解きほぐしてくれる治癒力、と言い替えても良い。
 理由は明白である。この作品は、自らが生まれ育った津軽地方への紀行文、という体裁をとっているが、作家が、この時代のほとんどの人がそうであったように、日本人全体を覆い尽くしていた「国家幻想」で煮詰められた「故郷」を幻視するのでなく、彼が、無垢な精神のまま、彼自身の故郷とそこに住まう人々に直(じか)に向かうからである。
 加えて、私は初めて読んだときから、作家の仕掛けた、巧妙なユーモアの罠に気づいていた。
 明らかに検閲官向けと思われる字句を、検閲官が気に入るように書きながら、実は検閲官をからかっている、という手の込んだ仕掛けである。原文を引こう。

【例1】
 三時間ほど北上すると、竜飛(たつぴ)の部落にたどりつく。文字どほり、路の尽きる個所である。ここの岬は、それこそ、ぎりぎりの本州の北端である。けれども、この辺は最近、国防上なかなか大事なところであるから、里数その他、具体的な事に就いての記述は、いつさい避けなければならぬ。

 下線部分で、国防上の理由から地理的な詳細は書かない、と彼はわざわざ書くのだが、もともと「里数その他、具体的な事に就いての記述」など一切書く必要のない文脈ですよね、ここは。この作品で、彼は一貫して「心象的風景」を描写してきたのであって、ここで俄に、探検家の踏査記録風の文体にならねばならぬ理由は何もないのである。


まったくの余談になるが


 まったくの余談になるが、私が『津軽』を初めて読んだのは、高校3年の春頃である。
 1960年代の半ば頃は、戦後ベビーブーマーが(この言葉は当時まだ一般的ではなかったが)そろそろ読書年齢にさしかかるころで、大手の出版社はこぞって『○○文学全集』といったタイトルのアンソロジーを売り出していた。文学少年、文学少女たちは、学校図書館の慎ましやかな蔵書を読み尽くすと、収録作品やら、値段やら、装丁やらを矯めつ眇めつ(ためつすがめつ)しながら、思い思いの一冊、また一冊を選んでいったわけである。私は、初版復刻主義、旧字、旧かなづかひの『筑摩書房現代文学大系』がお気に入りだったのだが。

 ある日、"I君"が、「太宰では、ツガルが一番好きだ」と言った。
 僕は「ツガル」という作品名が聞き取れなくて、「エッ?」と聞き直す。
 「ツガルだよ、つがる、青森県の津軽」と"I君"。
 お気に入りの『筑摩書房現代文学大系54 太宰治集』には、『津軽』が収録されていなかった。だから、太宰に『津軽』という作品があること自体、僕は知らなかったわけだ。
 前後の脈絡はぜんぶ忘れているが、ツガルだよ、つがる、青森県の津軽、と言った"I君"の語り口を今でも覚えている。この後すぐに読んだ『津軽』(おそらく"I君"の持ち物を借りたのだと思う)が、彼の言うとおりとても素晴らしかったので、"I君"とのやりとりも記憶に定着したのだと思う。だから、『津軽』を初めて読んだのは高校3年の春頃、と断言できるわけだ。これが「作品の力」というものなのでしょう。

 今回も、この稿のため、近在の図書館に出向いたのだが、太宰治アンソロジーの類いにはまたしても『津軽』の収録がなく、文庫版の棚にも見つからなかった。そこでネットの『青空文庫』からテキスト・ファイルをダウンロードするという苦肉の策にでた。閲覧につかったテキスト・エディタには検索機能が付いていたから、試みに「国防」で検索したら、上掲の部分がヒットしたわけである。怪我の功名とでも言うべきか。
 検索を続けると、さらに三カ所で「国防」という文字が使われているのが分かった。

【例2】
 東北の海と言へば、南方の人たちは或いは、どす暗く険悪で、怒濤逆巻く海を想像するかも知れないが、この蟹田あたりの海は、ひどく温和でさうして水の色も淡く、塩分も薄いやうに感ぜられ、磯の香さへほのかである。雪の溶け込んだ海である。ほとんどそれは湖水に似てゐる。深さなどに就いては、国防上、言はぬはうがいいかも知れないが、浪は優しく砂浜を嬲つてゐる

【例3】
「竜飛だ。」とN君が、変つた調子で言つた。
「ここが?」落ちついて見廻すと、鶏小舎と感じたのが、すなはち竜飛の部落なのである。兇暴の風雨に対して、小さい家々が、ひしとひとかたまりになつて互ひに庇護し合つて立つてゐるのである。ここは、本州の極地である。この部落を過ぎて路は無い。あとは海にころげ落ちるばかりだ。路が全く絶えてゐるのである。ここは、本州の袋小路だ。読者も銘肌せよ。諸君が北に向つて歩いてゐる時、その路をどこまでも、さかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこの外ヶ浜街道に到り、路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼれば、すぽりとこの鶏小舎に似た不思議な世界に落ち込み、そこに於いて諸君の路は全く尽きるのである。
「誰だつて驚くよ。僕もね、はじめてここへ来た時、や、これはよその台所へはひつてしまつた、と思つてひやりとしたからね。」とN君も言つてゐた。
 けれども、ここは国防上、ずいぶん重要な土地である。私はこの部落に就いて、これ以上語る事は避けなければならぬ。


【例4】
 湖が日本海に開いてゐる南口に、十三といふ小さい部落がある。この辺は、いまから七、八百年も前からひらけて、津軽の豪族、安東氏の本拠であつたといふ説もあり、また江戸時代には、その北方の小泊港と共に、津軽の木材、米穀を積出し、殷盛を極めたとかいふ話であるが、いまはその一片の面影も無いやうである。その十三湖の北に権現崎が見える。しかし、この辺から、国防上重要の地域にはひる。私たちは眼を転じて、前方の岩木川のさらに遠方の青くさつと引かれた爽やかな一線を眺めよう。

 最初の一例だけでは、「検閲官向けと思われる字句を、検閲官が気に入るように書きながら、実は検閲官をからかっている、という手の込んだ仕掛け」という私の主張に同意できずにいた人でも、四カ所ならべて読めば、なるほどと納得していただけると思う。


茶番が続いているあいだ 兵士も国民も殺され続けた


 ともあれ、太宰の本心は今さら確かめようもないだが、「聖戦遂行に身も心も捧げていますというふり」さえしていればOK、あるいは「機密保持を貫いているふり」さえしていれば、それでOK! だった、という歴史的事実・具体的事実は十二分に確認しておかねばならない。ここまで、人々の行動原理が、論理性と倫理性を喪失した時代は、それまでの日本歴史には無かったのではないか?

 何度も同じ事を言うが、『大日本帝國』や『大東亜戦争』に幻想を持ち続ける人たちは、総論的イメージの幻覚に酔うことを止め、このような歴史的事実・具体的事実に関し釈明する義務を負っている。安倍君、百田君、君たちのことだよ。
 この様な茶番で人々は死地に追いやられたのだ。上級軍人たちが、『聖戦完遂ごっこ』と『國体維持』に腐心している間に、兵士たちは、飲み水にも事欠き、飢えて、病んで、密林をさまよい、機銃掃射に晒され、投降という兵士に残された最後の権利も、その行使を禁じられていたのだ。壮行会で、主賓の訓示を述べたのは、「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」と示達した、東條英機まさにその人であった。
 一般人もまた、おなじ憂き目を見たことは、いまさら言葉を重ねることもないだろう。軍人たちが「本土決戦」と称して沖縄から遁走したあと、取り残された多くの老若男女は自決して果てたのである。

 では、九死に一生を得た人、あるいは無事生きながらえた人たちには、そののち平穏が回復したのだろうか。
 答えは、ここでも、否、である。


『學徒出陣壮行会』の記録映像を観る


 "You Tube"には、『學徒出陣壮行会』の動画がいくつかアップされている。その中では、画質・音質とも最悪であるが、文部省映畫『學徒出陣』が15分に編集されていて全体の流れが分かる。百聞は一見にしかずである、ぜひご覧になっていただきたい。朝日新聞夕刊以上に、壮行会々場の「空虚な騒々しさ」が伝わってくる。
  https://www.youtube.com/watch?time_continue=2&v=GzxGnKvwIW8

 出陣學徒の入場行進のあと、宮城遙拝、『君が代』斉唱、東條内閣総理大臣訓示、岡部文部大臣訓示、在學學徒代表の送辞(?)(字幕が出るが、はっきり読めない)、出陣學徒総代表答辞、『海行くかば』斉唱、と続き、皇居前への移動行進があって、「皇陛下万歳」で終了。
 このなかでは、出陣學徒総代表答辞がつとに有名で、多くのサイトで、文章化されて掲載されている。

 明治神宮外苑は学徒が多年武を練り、技を競ひ、皇国学徒の志気を発揚し来れる聖域なり。本日、この思ひ出多き地に於て、近く入隊の栄を担ひ、戦線に赴くべき生等の為、斯くも厳粛盛大なる壮行会を開催せられ、内閣総理大臣閣下、文部大臣閣下よりは、懇切なる御訓示を忝くし、在学学徒代表より熱誠溢るる壮行の辞を恵与せられたるは、誠に無上の光栄にして、生等の面目、これに過ぐる事なく、衷心感激措く能はざるところなり。惟(おも)ふに大東亜戦争宣せられてより、是に二星霜、大御稜威の下、皇軍将士の善謀勇戦は、よく宿敵米英の勢力を東亜の天地より撃攘払拭し、その東亜侵略の拠点は悉く、我が手中に帰し、大東亜共栄圏の建設はこの確乎として磐石の如き基礎の上に着々として進捗せり。然れども、暴虐飽くなき敵米英は今やその厖大なる物資と生産力とを擁し、あらゆる科学力を動員し、我に対して必死の反抗を試み、決戦相次ぐ戦局の様相は、日を追って熾烈の度を加へ、事態益々重大なるものあり。時なる哉、学徒出陣の勅令公布せらる。予ねて愛国の衷情を僅かに学園の内外にのみ迸しめ得たりし生等は、是に優渥なる聖旨を奉体して、勇躍軍務に従ふを得るに至れるなり。豈に感奮興起せざらんや。生等今や、見敵必殺の銃剣をひっ提げ、積年忍苦の精進研鑚を挙げて、悉くこの光栄ある重任に獻げ、挺身以て頑敵を撃滅せん。生等もとより生還を帰せず。在学学徒諸兄、また遠からずして生等に続き出陣の上は、屍を乗り越え乗り越え、邁往敢闘、以て大東亜戦争を完遂し、上宸襟を安んじ奉り、皇国を富岳の寿きに置かざるべからず。斯くの如きは皇国学徒の本願とするところ、生等の断じて行する信条なり。生等謹んで宣戦の大詔を奉戴し、益々必勝の信念に透徹し、愈々不撓不屈の闘魂を磨礪し、強靭なる体躯を堅持して、決戦場裡に挺身し、誓って皇恩の万一に報い奉り、必ず各位の御期待に背かざらんとす。決意の一端を開陳し、以て答辞となす。昭和十八年十月二十一日。

 この答辞の「効果」は抜群で、会場にいた者は勿論、ラジオを聴いていた者も感動に酔いしれた。女子学生の多くは涙を流し、一部の女子学生は、学生たちが退場する際、ゲートになだれを打って駆け寄った、という。

 現代も我々も、また、この文章を熟読吟味すべきでる。
 人の心を揺さぶった、希代の名文であるからか?
 否!
 あの『教育勅語』の思想的神髄が、その完成形態としてここにあるからである。

 特に下線を引いた部分は、教育勅語を実感を込めて意訳すればこうなった、と言ってもそのまま通用するだろう。 "YAHOO知恵袋" に、ちょうどこの部分の現代語訳を求める投稿がある。それの "ベストアンサー" に選ばれた回答をそのままコピーさせてもらう。

 我ら出征する学生は、最初から生きて帰ろうなどとは考えていない。後輩の在学生の貴方たちも、また近いうちに我々に続いて出征することになれば、我らの死体を乗り越えて、ひたすら進軍して勇ましく闘い、そして大東亜共和圏を建設するための戦争を最後まで成しとげ、天皇陛下の御心を安心させて差し上げ、大日本帝国の富士のごとき長寿(=永い繁栄)を保たしめねばならない。これらは大日本帝国に生まれた学生の本懐であり、在学生の貴方たちも断固として持ち続けるべき信念である。私たちは生きて帰ってこようとは思っていない。


生きながらえても、平穏な日常は戻らない。


 ただし、この話には後段がある。
 答辞をよんだこの学生は、徴兵検査のあと陸軍に配属され、三式戦闘機「飛燕」の整備兵として国内の基地を転々とする。そして、外征に赴くことなく、そのまま終戦を迎える。
 良かった、無駄に死すことなく生きて戦後を迎えられたのは幸運だった、と、客観的な外部の眼にはそう映るだろう。だが彼は悩み続けることになる。あの學徒壮行会で行進した多くの学生が戦死したのに、自分は生きながらえてしまったことに。
 さらに、根拠のない揶揄、誹謗・中傷が彼に投げつけられる。あれだけ他者を煽っておいて、じぶんはおめおめ生き残ったのか。入営はしたが、一日で除隊したのではないか。実は裏取引があったのだ、等々。これに対し、彼は一切反論することなく、黙って堪えた。

 この学生とは、戦後東京大学などの教授として体育学の発展に貢献された、江橋慎四郎さんである。あの壮行会から60年以上も経過してから、先生はやっと新聞のインタビューに応えておられる。
当時の新聞記事を閲覧する術を持たないが、幸い、ブログ引用されたものが、そのまま残されてるのを見つけた。貴重なインタビューなので、そっくりコピーさせていただく。2010年に書かれたブログである。
  https://plaza.rakuten.co.jp/bluestone998/diary/?PageId=46&ctgy=5

 2010年10月21日 朝日新聞朝刊
『学徒出陣の代表 戦没者思うと言葉出ず − 戦後沈黙の理由語る』から

 太平洋戦争の戦況悪化に伴って、徴兵が猶予されていた学生たちが戦地に駆り出された「学徒出陣」の壮行会が東京の明治神宮外苑競技場(現在の国立競技場)で開かれて21日で67年になる。「生等(せいら)もとより生還を期せず」などと答辞を読んだ学徒代表、江橋慎四郎さん(90)=東京大学名誉教授(体育学)、神奈川県藤沢市在住=が、戦後ずっと黙してきた心境を記者に語った。(編集委員・大久保真紀)

 「答辞は我が身にとっては名誉なこと。だが、戦没者のことを思えば何も言えない」弁護士の父をもち、鎌倉で育った。地元の湘南中から仙台の旧制二高、東京帝国大学(現東大)文学部と進み、大学2年で学徒出陣となった。
 代表に選ばれたのは、水泳部のマネジャーで、体育会の運営を仕切る「総務」の仕事をしていたからではないか、と振り返る。当時としては大きい、 173センチという体格も影響した、とみる。
 答辞の文章は国文学の先生に添削されたが、「若者の心意気として国難に立ち向かうという思いだった。当時の学生の気持ちを代弁したと思っている」。
 1943年12月、航空整備兵として陸軍に入隊。内地にとどまり、敗戦を迎えた。戦後は文部省、東大教授などを経て鹿屋体育大学の創設に尽力、初代学長を務めた。
 学徒には戦没者も多い。そのためか、取材依頼にも「貝になりたい」と語るなど学徒代表の体験についてはずっと口を閉ざしてきた。しかし、語らなかった故に「即日帰郷した」(軍隊に行っていない)などと事実と異なることを著作物に書かれ、批判された。「言いたければ勝手に言えばいいと思ってきた。自分を正当化する必要はない。僕は僕なりの人生をひたすら生きてきた」。学徒は当時の超エリート。だが、「あの時は国があれほど傾いているとは思っていなかった。情報が操作されていた」と漏らす。
 「同じ過ちは絶対に繰り返してほしくない」。そう繰り返す江橋さんは、いまも毎年2回沖縄を訪ねる。日本が中国やアジア、沖縄の人たちに迷惑をかけたことは忘れてはならないと思っている。


 戦争による死は、とても惨い。
 しかし、無事生きながらえることも、また惨い。
 これは、戦争の勝者であろうが、敗者であろうが、戦争を体験した者すべてを待ち受ける地獄である。戦争について語られたもの、書かれたもの、つまり現在の私たちが読むことができるものは、すべて生き残った者の苦悩ではなかったか。

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 −−【その11】了−− もうオリンピックなんか、止めてしまえ 目次へ