難波駅を出た電車がわずかに右にカーヴすると、つり革に掴まっていた男たちは一斉に右側の窓から外を見やった。
 ほんの一瞬、大阪球場のスコアボールドが見えるからだ。
 私の家は球場から1キロ以上も離れていたが、物干し場にあがると、観客のあげる歓声が風に乗って流れてきた。
 確かに昭和のある時代まで、私たちは「自分の五感で直接」社会の動きを感じとっていたのだ。                           












明治村の正門
旧制第八高等学校(名古屋)
の正門を移設
1909年(明治42年)の建造物
看板の文字は『博物館 明治村』




今日は「明治152年3月31日」
平成とか令和とか言うより
分かりやすい




東山梨郡役所
1885年(明治18年)建設
やはり木造は美しい




帝國ホテルライト館
1921年(大正10年)建設
関東大震災、東京大空襲にも堪えた
解体は1970年万博増床のため




三重県庁舎の2階に
『明治の時計』展示室がある




蒸気機関車は2台
1874年(明治7年)英国から輸入と
1912年(明治45年)年の米国製




京都市電
1910年(明治43年)頃の製造





















『ショーシャンクの空に』
フランク・ダラボン監督(1994)
この映画がスゴいのは、
これは囚人たちの人間ドラマだと思わせて、
その筋で十分に堪能させておいて、
最後の最後に …… 、




溶かしたアスファルトを
バケツで運び上げ




モップで塗りたくる
見づらくて、ゴメン。





















難波 高島屋




日本橋 松坂屋
後に、高島屋東別館




精華小学校




心斎橋 大丸





















1936年の
オリンピアシュタディオン
・ベルリン




現在のオリンピアシュタディオン




外装の大理石はそのまま




観客席からの眺め
Sehr gut!
観客席の切り込みは聖火台の跡









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国立競技場は、なぜ解体されたのか?
     もうオリンピックなんか、止めてしまえ。 その12
                  (2019年 8月 1日)



国立競技場 誰が壊した? どんな理由で壊した?


   いったい誰が『国立競技場』(国立霞ヶ丘陸上競技場)の解体を決めたのか?

 『その9』で、こう問いを立てたのだが、いまだに「いったい誰が」の「誰」が誰なのか、私にはよく分からない。同様に、

   なぜ、国立競技場は解体する必要があったのか?

と、問うてみても、なかなかその答えを得ることができない。

 試みに、「国立競技場 解体理由」で検索しても、 "JSC"(日本スポーツ振興センター)とか、文部科学省とか、の正式な見解に到達することができない
 ちなみに、 "JSC"(日本スポーツ振興センター)は、国立競技場を管理運営する「独立行政法人」であり、また、文部科学省の「中期目標管理法人」である。(看板は寿限無なみに立派だね) サイトの奥深いところに、そっと隠すように、 PDFファイルか何かが置かれているかも知れないが、検索してヒットするのは、 "OKWAWE" とか "Yahoo!" などの質問サイトに残された、素人同士の問答ばかりである。


どんな理由で壊した? 素人の問い、素人の答え。


 検索したついでに、検索結果2件目に出てきた「Yahoo! 不動産 教えて住まいの先生」の問答をコピーしておく。2015年7月の記事である。この、2015年(平成27年)7月、という日付をよく覚えておいていただきたい。

《質問》
 教えてください。国立競技場はなぜ壊したんだっけ? 老朽化? 新国立競技場は建てる必要があるのですか?
《ベスト・アンサー》
 理由は、オリンピックの開会式に使うのだが、元々、傘を差さないと通れないほどの漏水が多い老朽化した建物。最新の耐震性能も無いため、ココがチャンスで解体したのだ。


 当時の報道が伝えていた解体理由は、私の記憶と照合しても、確かに、この《ベスト・アンサー》君の言うようなものだった。つまり、次の3点。

  1) 老朽化が進んでいる。
  2) 耐震基準を満たしていない。
  3) 2020年のオリンピックに使用するには、機能と収容力の両面において不足がある。


 「だから国立競技場は解体される」と言うのだ …… ?
 あなた、納得できますか、こんな理由が?

 私は、ああ、そうですか、と素直には承服しかねる。この3点では「国立競技場を是非とも解体せねばならない理由」にはならない。これが理由なら、補強・改修・改築で済んだ話のはずである。
 《ベスト・アンサー》君の「最新の耐震性能も無いため、ココがチャンスで」という言葉は、実際はどうだったの? という庶民の疑惑を、うまく表現している。やろうと思えば、補強・改修・改築で済む話なのに、「最新の耐震性能も無い」という一項を「切り札」のように使って、そそくさと解体を決めたのだろう。
  "JSC"の行った、新国立競技場の国際デザイン・コンペのキャッチ・フレーズは「世界一を作ろう」であった。 "JSC"と審査委員会の、浮ついた気分がそのまま表現されている。


公(おおやけ)の議論で、こんな曖昧さが許されて良いのか?


 2012年(平成24年)11月、ザハ・ハディド案が決定してから、2015年7月の計画の白紙化に至るまでのあいだ、多くの建築家・専門家・有識者たちが様々な私案・プランを提示していた。ザハ・ハディド案に代わる「新」競技場のプランもあった。「旧」競技場の改修案もあった。既存の民間施設の借用で良いではないか、というクールな意見もあった。
 しかし、2015年7月17日、安倍晋三君が「計画白紙化」を表明より以前に、具体的には、その年の3月の時点で既に、「旧」国立競技場の解体工事はスタートしてしまっている(!)。この時間差をどう理解すれば良いのだろう? 我が家を建て替えようとするとき、新築のプランも煮詰まっていないのに、早々と今住んでいる家を解体したりする馬鹿がいるだろうか?

 さきに引用した「Yahoo! 不動産 教えて住まいの先生」の、問答は「2015年 7月」のものであった。安倍晋三君が「計画白紙化」を表明した、まさに、その時の問答である。

 質問者は、安倍晋三君の「計画白紙化」表明を聞いた。そして不思議に思った。えっ、あの案は中止だって? 白紙に戻すだって? 待てよ、だいぶ以前に「旧国立競技場の解体が始まった」というニュースを聴いた覚えがあるぞ。「新」計画がまだ未確定の状態なのに、早々と「旧」を壊してしまっていいの? 順序が逆ジャン!
 これが庶民の常識的感覚です。為政者たちの施策が、それも最重要の国家的プロジェクトの進め方が、最低限の論理性・合理性をも保持していないから、専門家・有識者たちがいくら諸説を開陳してもピントのズレた議論にしかならないし、庶民だって勘が狂ってしまう。「怒り」にスィッチが入るタイミングがずれてしまって、不可解さだけが残る。

 混同してはいけない。建て替え案の優劣を論ずるより以前に、問わねばならぬことが二つあったはずだ。もっと、根源的な問いが。

   A) 壊してはならないものを、壊してはならない。
   B) 造ってはならないものを、造ってはならない。


 なぜ、建て替えることが「既知の事実」となって、議論が進行してゆくのか? 
 なぜ、公(おおやけ)になされる議論が、この二つの命題から無限に乖離してゆくのか? 
 公の議論にそんな曖昧さが許されていいのか? 
 冒頭に掲げた疑問には、何の答えも得られないままだ。

 いったい誰が『国立競技場』(国立霞ヶ丘陸上競技場)の解体を決めたのか?
 なぜ、国立競技場は解体する必要があったのか?


「老朽化」とは、どういうことを言うのか?


 一つ一つ、ハッキリとさせておこう。

 「老朽化」とは、基本設計が要求した力学的構造自体が、経時変化によって劣化してしまった状態のこと、を言う。
 国立競技場は、1958年のアジア競技大会のために建設され、1964年の東京オリンピックにむけ大幅に増改築された。第1次の工事から数えても、まだ60年しか経っていないのだ。木造の建て売り住宅だって、築後60年は十分に耐用年限内である。ましてや鉄筋コンクリートの建造物が人間の還暦と同じ年数でお釈迦になると思えない。

 いま、わざわざ「基本設計が要求した力学的構造自体」と言ったのは、それ以外の「内外装・配線・配管・屋上防水・水回り・設備・備品」などは、日常的に点検・保守によって更新・維持されるものだから、である。いくら鉄筋コンクリートの建造物といえども、雨ざらしのまま何のメンテナンスもしなければ、その諸設備を含めた総体は、たちまち荒廃して使用・居住に差し障りが出てくる。ただしこれは「メンテナンス不備」と呼ばれる状態であって、断じて「老朽化」ではない。

 もし、国立競技場が築後60年で使えなくなったのだとするなら、それは、
  a) もともと手抜き工事であったか、
  b) 予算不足で保守メンテが不十分だったか、
  c) 管理者が無能で荒れるにまかせたか、のいずれかである。

 どの場合でも、問われるべきは、管理責任・監督責任である。「人災」による荒廃である。「老朽化」などというような、自然的経時劣化を連想させるような言葉に逃げ込み、責任回避を謀ってはならない。


保守とは? メンテナンスとは? 実例を示そう。


 愛知県犬山市にある『明治村』に行かれたことがあるだろうか。
 看板には『博物館 明治村』とある。博物館と称しているが、標本や複製品が展示されているわけではない。明治期の建物が(多くは木造で、優に 100年以上経っている)そのまま移築され、使用可能な状態で「動態保存」されている。階段の踏面(ふみづら)は大きくすり減っており、柱には虫食いの跡がある。しかしどの建物もとても美しく保たれていて、時計だって正確に時を刻んでいる。いやいや蒸気機関車だって、京都市電だって、きちんと運行されている。少し注意すれば、どの建物も、あちこちの窓がほんの少し空けられていているのが分かる。常日頃の換気が留意されているのだ。
 では、国立競技場の職員だった人に訊いてみたい、競技場では、使用されていないとき、定期的に室内の換気を行うルールがあったのですか、と。

 映画『ショーシャンクの空に』を観られたことがあるだろうか。
 アンディが看守たちの心に取り入るきっかけとなったのは、屋上での作業であった。囚人たちは、黒いドロッとした液体を屋上に塗る作業をしていた。あれは屋上のアスファルト防水に重ね塗りをしているのである。アスファルト防水は、古くからあるごく一般的な防水方法であるが、アスファルトが硬化してひび割れを起こすから、このようにメンテナンスをする必要がある。
 「傘を差さないと通れないほどの漏水が多い」のは、このメンテナンスを怠ってるからで、建物の力学的構造自体が「老朽化」したからではない。


鉄筋コンクリートの建築物は、80年たってもOK!


 建物の「法定耐用年数」を調べてみた。
 「鉄骨鉄筋コンクリート造又は鉄筋コンクリート造のもの(構造又は用途)」のうち「住宅用、寄宿舎用、宿泊所用、学校用又は体育館用のもの(細目)」は、「47年」と表に出ている。

 これは「47年で耐用年数が切れ、それ以降は危険である」という意味ではありません。固定資産として貸借対照表の借り方に計上されている金額を、47年かけて費用として償却しなさいという、会計処理上の規則である。この耐用年数を過ぎると、それ以上減価償却という費用は発生しない。さあ、本当に儲けが出るのはこれからだ、と事業主はほくそ笑む。
 この、本当の儲けが出る時期となってから、10年そこらで「老朽化」したという話は、会計処理の常識から言ってもおかしいのである。

 私にとって馴染みの深い、鉄筋コンクリート造りの建造物が、建設後何年を経過しているか調べてみた。
 以前、『《教育勅語なぜ悪い?論》は、なぜ悪い? その7』(平成29年08月10日)で、「大阪空襲で焦土と化した ”ミナミ”」の写真を掲げた。もう一度、観てみよう。そこに写っている建物の場合はどうか?



A;難波 高島屋
 1932年(昭和7年)の完成である。1945年(昭和20年)の大阪大空襲で多大の損傷を受けたが、見事に修復され、現在も南のランドマークとして御堂筋の南詰に鎮座している。選挙ともなればその前で候補者たちが他党候補の悪口をがなりたてている。築後88年、依然現役。

B;日本橋 松阪屋
 1934年(昭和9年)に第1期竣工。現在も高島屋東別館として現役。築後86年。

E;大阪市立 精華小学校
 私が通った学校。竣工は1929年(昭和4年)で、2015年頃に商業施設建設のため解体。築後87年。

G;心斎橋 大丸
 着工は1922年(大正11年)、第4期まで工事を重ねて1933年(昭和8年)に完成した。こちらも空襲の戦火で炙られた。2015年から建て替え工事中であるが、初代の外壁や内装を一部残すと言う。つまり、着工から83年後に建て替えられた。

 いかがでしょうか。写真を見れば分かるとおり、いずれも戦火に炙られた焼け残りの建物だった。しかし我々の祖先は、それを取り壊すようなことをしなかった。それに修復の手を加え、いつまでも使い続けようとしたのです。(左コラムの写真をご覧ください) 小学校が解体されたのは廃校となって久かったから。大丸の建て替えは、使い勝手の問題から。「老朽化してしもて、建て替えなあきまへんわ」などといった泣き言は、何処からも聞こえてこなかったのだ。

 最後にもう一つ、「国立競技場、60年で老朽化、解体やむなし」と放言して恥じぬ、無能政治家・ヘタレ官僚のわが日本国に対する、強烈なアンチ・テーゼを示しておく。
 第二次大戦において大日本帝國とともに枢軸国であったドイツの場合である。1936年のベルリン・オリンピックにあたり、彼らは、ベルリン・オリンピック・スタジアム(Olympiastadion Berlin)を建設した。さて、83年後の今日、このスタジアムはどうなっているでしょうか?

 写真を見れば驚かれると思うが、もちろん現役どころか、何と云う美しさだろう。
 2006年、サッカー・ワールドカップ・ドイツ大会の会場として使われた際、大規模な改修を行い、屋根も付けた。構造体と大理石の外壁はそのまま維持されている。その後、2009年には世界陸上選手権に、2011年には女子サッカー・ワールドカップにも使われた。現在はヘルタ・ベルリンの本拠地になっている。くどいようだが、築後84年です、念のため。


「耐震基準を満たしていない」とは、どういうことか?


 「耐震基準を満たしていないから、解体」という理屈はさらにおかしい。
 逆に訊ねてみたい、では「耐震基準さえ満たしておれば、万事OK」なのですか、と?

 「耐震基準」とは何か? 「その基準を満たしておれば、今後どの様な規模・強さの地震に襲われても絶対に崩壊しないという保証が得られる数値」のことか? そんな神がかり的な数値など存在するわけがないだろう。
 「耐震基準」とは、とりあえずこの数値は全うしておくべきだ、という仮定の数値、あくまで目安の数値である。だから《基準》と呼ばれるのだ。今後も必ず地震は発生する。だから、今までに得られた経験値を精査し、その基準が「甘い」と判断されるなら、従来より厳しい基準の再設定が必要となる。しかしどの程度までの厳しさを求めるのか。万全を期すならば、力学的構造体が巨大化し、使用に供する空間が小さくなってしまう。建設費用も膨大なものとなる。これは現実的ではない。だから、さしあたって、せめてこれ位はしておこう、という妥協点が基準数値となっているはずだ。
 「耐震基準」とは、常に曖昧さを残しており、その「曖昧さの領域」に常に注意をむけ、大切に扱わなければならない。そうでなければ、「耐震基準」が行政の概念として成立しなくなる。だから、耐震基準を満たしているからもう安心だ、とか、耐震基準を満たしていないから即解体、などと、二者択一的に「議論の切り札」として使うのは断じて許されない。このような行政上の概念の扱い方は、役人ならじゅうじゅう承知のはずなのに、いつのまにか役人が、三流政治家の口吻を真似るようになっている。

 そもそも、現行の建造物がどの程度の耐震性を持っているかは、どのように測定するのか?
 「建造物の属性としての耐震性」が、スキャニングでもすれば、はい、どうぞ、と取り出せるのだろうか? そうではないだろう。
 設計仕様から得られた耐震強度に、経年劣化という係数を掛け合わせる。この「計算」で算出しているはずである。つまり耐震強度とは、実測値ではなく、「理論値に理論値を掛けたもの」に過ぎない。確かに、いくつかの検体を抽出して、実際に検査を行うことは可能である。切り出した検体を破壊してみることも出来るだろう。しかし、それらのデーターを統合し「建物全体の耐震性」として意味づけするのもまた理論である。
 つまり「この建物の耐震強度は …… 」と言う場合、それは理論値のまた理論値であること、あるいは、実在値に対する近似値でしかないこと、をよくよく自戒しておかねばならない。

【同じ文科省管轄の学校の場合】

 国立競技場は文部科学省管轄である。では、同じ文科省管轄の「学校」は、どのように「耐震管理」がなされているのだろう。
 文部科学省のホーム・ページには、『公立学校施設の耐震改修状況フォローアップ調査の結果について』という報告が PDFでアップされている。平成30年 4月 1日現在の調査が最新だと思えるので、それを開いてみる。冒頭に、次の表が掲げられている。いと、誇らしげに。



 「非木造」と言うから「鉄骨鉄筋コンクリート造又は鉄筋コンクリート造のもの」なのだろうが、すでに、「校舎の"98.9%" が耐震化の補強工事を終えている」わけである。
 それならば、我が家から歩いて 2分の、T市立A小学校も工事を終えているはずだから、見てきました。



 これが、その写真です。
 つまり、T市立A諸学校の校舎棟における耐震化工事とは「階段室の外壁を鉄筋で補強すること」だったわけです。確かに、階段は最重要の避難通路であり、しかも階段室は吹き抜けになっているから構造的に弱い。補強をするなら、まず、ここ、というポイントは頷けます。ただし、それが鉄筋による補強で十分なのかどうか、私には判断できません。
 「小中学校 耐震化工事」で画像検索してみると、校舎壁面を太い鉄骨の「かすがい」で補強する、という工事が一般的であるように思えます。

 ともあれ、このような工事の、進捗が"98.9%" まで進んでいる、というのなら、文部科学省の実務部隊に対しては、よくやった、と評価すべきでしょう。

 と、褒めたついでに、もう一言。
 だったら、国立競技場も「かすがい補強」で十分だったはずである。

 もし、その手法を採用していれば、とっくに補強・改築工事は終了しているはずだし、こちらに対しても、よくやった、とねぎらいの言葉をかけていただろうに。
 「かすがい」で補強された国立競技場は、世界中のメディアから「巨大化と無駄遣いに待ったをかけた」と絶賛を浴び、「いいね!」のボタンを押してもらえただろう。世界の潮流はすでにそちらに向いていることに、「世界一を作ろう」集団は気づかないでいるのだろう。
 「世界一」なんて、腐臭プンプンの超アナクロニズム、偏狭的ナショナリズムの裏返しに過ぎないことを、世界中の多くの人々は知っている。




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