難波駅を出た電車がわずかに右にカーヴすると、つり革に掴まっていた男たちは一斉に右側の窓から外を見やった。
 ほんの一瞬、大阪球場のスコアボールドが見えるからだ。
 私の家は球場から1キロ以上も離れていたが、物干し場にあがると、観客のあげる歓声が風に乗って流れてきた。
 確かに昭和のある時代まで、私たちは「自分の五感で直接」社会の動きを感じとっていたのだ。                           








映画『風と共に去りぬ』は、
とても昔に作られた映画で、
1939年(昭和14年)の制作です。

ところでこの1939年には、
よく知られた名作が、
たくさん公開されています。

では、ポスター展を。



『風と共に去りぬ』

"Gone with the Wind"(1939)
by Victor Fleming



何と、ヴィクター・フレミングは、
同じ年にもう一本、
有名な映画を残しています。

『オズの魔法使』

"The Wizard of Oz"(1939)
by Victor Fleming




西部劇にも名作が、

『駅馬車』

"Stagecoach"(1939)
by John Ford



ドイツから逃れた
エルンスト・ルビッチも、

『ニノチカ』

"Ninotchka"(1939)
by Ernst Lubitsch

"Garbo Laughs"とあるのは、
昔、グレタ・ガルボが初めてトーキーに出演した時、
"Garbo talks!"
が、流行語になっていたから。

ルビッチはその3年後、
『生きるべきか死ぬべきか』
"To Be or Not to Be" (1942)
で、見事に、ナチスに仕返しをします。



イタリアからの移民組も、

『スミス都へ行く』

"Mr. Smith Goes to Washington"
(1939)
by Frank Capra

フランク・キャプラは、
淀長さんのお気に入りだったので、
我々にもなじみ深いものでした。



フランス映画にも、

『望郷』
日本での公開(1939)

"Pepe le Moko"(1937)
by Julien Duvivier



日本にも、

『殘菊物語』(1939)
監督;溝口健二

傑作です。
この映画を観ると、
戦前の溝口作品の多くが
失われたしまったことが
誠に残念に思えます。










映画だけでなく、現実世界にも眼を向けてみましょう。

1939年5月は、『ノモンハン事件』が起こりました。
日本史では、満州国とモンゴルとの国境をめぐる日ソ間の紛争と云った程度の扱いですが、
実はこれが第二次世界大戦の初戦であったと解釈すべきでしょう。

その後、
9月1日、ドイツのポーランド侵攻、
9月17日、ソ連のポーランド侵攻、
と続き、
世界中が大戦の渦に巻き込まれて行きました。


『ノモンハン事件』



『ドイツのポーランド侵攻』

































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被告人に自らの無罪が証明できるのか?
        『カルロス・ゴーン vs 東京地検』 その1
                   (2020年01月26日)



「常識的で分かりやすい憤懣感」に覆い尽くされる日本


 Mr.Ghosn, Gone with the wind flying!

 昨年末、暮れも押し迫った12月29日、カルロス・ゴーン氏は日本から脱出した。それが「不法な密出国」であったことから、これで自分の罪を認めたようなものだ、もし自分が無罪であるなら裁判で堂々と闘えば良かったはずだ、といった風な「常識的で分かりやすい憤懣感」が日本を覆い尽くした。
 明けて1月8日、カルロス・ゴーン氏は「逃亡先の」ベイルートで記者会見を行う。これに対しても、一方的な主張の繰り返しだとか、独演会だとか、揶揄するばかりで、まぁ、それなら一度彼の主張を聞いてみようじゃないか、と冷静に受けて立つような態度をとろうとする人は、ほとんど見当たらない。マスメディアでは、三流の批評家や芸人どもが寄って集って "ゴーン叩き" を繰りかえしている。最近では見慣れた風景となったが、極めて不愉快である。一例を引こう。自称落語家の "立川志らく" という男はこう言ったらしい。

  …… 何の内容もない。ただ開き直って自分の主張だけを言って。なぜ言う事いわないの? どうやって法を破って逃げたかとか。政治関係者の名前を出すっていうから聞いてたのに。日本の司法を批判して自分は法を破って。日本の司法を批判してもいいけど、それは法を守っている人が言うことですよ。破ったヤツが何を言うんだって思います。

 芸名から察するに、立川談志の弟子筋にあたる人なのだろうが、冥界の談志は、こんな男を弟子にとったことを一生の不覚と嘆いているに相違ない。師匠の“放言癖”をうわべだけ真似ている。談志の放言はいわば「捨て身の放言」であった。だからたびたび舌禍事件となった。だが、この志らくの放言は「100%世間の常識の側に待避しての放言」である。落語という芸が笑いの対象として客体化したのは、まさにこの「常識」ではなかったか。だから、この志らくの話は面白くもなんともないのである。面白くない落語家なんぞ、盗みを止めた盗人以上にたちが悪い。まあ、落語論を展開するのが今日の目的ではないので、この位にしておくが …… 、


自称落語家 "志らく" は、ゴーン氏の会見に何を期待したか?


 それにしても、このTS君は、ゴーン氏の記者会見に何を期待していたのだろう。

 「なぜ言う事いわないの? どうやって法を破って逃げたかとか」ですと!

 TS君、あなた、縄抜け・籠脱けマジックのタネ明かしが聞きたかったわけですか? それって三文週刊誌的ゴシップ趣味だよね。俗物的のぞき見根性丸出し。
 ゴーン氏がその点に「しかと」をきめこむのは、そうしないと自分の逃亡を助けてくれた人たちに累が及ぶからである。これは自分と一緒に「危ない橋」を渡ってくれた人に対する礼儀として当然のことである。つまりゴーン氏は極めて「常識的に」振る舞っているのだ。

 「政治関係者の名前を出すっていうから聞いてたのに」ですと!

 TS君、あなた、ゴーン氏が、例えば(あくまで「例えば」だよ)、「日産の幹部と共謀して私を罠に填めたのは、菅義偉官房長官と今井尚哉首相補佐官である」と明言する、という場面を期待していたわけか? これもまた三文週刊誌的ゴシップ趣味ですね。この点について、事実経過を整理しておこう。
 1月7日、つまりゴーン氏会見の前日、このような報道があった。

 大久保武・駐レバノン大使は7日、首都ベイルート郊外の大統領府でアウン大統領と会談し、保釈中にレバノンに逃亡した日産自動車前会長のカルロス・ゴーン被告を巡る事件についてレバノン政府の協力を要請した。  (毎日新聞2020年1月7日)

 この記事からは「レバノン政府の協力を要請した」ことの中身を、我々は知ることはできない。だが、日本とレバノンとの間には「犯罪人引渡し条約」が締結されていないから、大久保大使は「ゴーンを引っ捕らえて日本に送還せよ」とは、言えなかったはずである。だったら具体的に大久保は何を求めたのか? 政治家の言い回しを真似るなら「今後の日本・レバノンの友好的外交関係に齟齬を来すことのないよう配慮願いたい」てなことを言ったのだろう。日本はレバノンに繰りかえし経済支援を行っている、という事実を思い起こすなら、要請の中身は透けて見える。
 『外務省』HPを、トップページ > 国・地域 > 中東 > レバノン共和国 > レバノン基礎データ、とたどってゆけば、「日本の援助(2017年度末まで)」として「(1)有償資金協力 130.22億円、(2)無償資金協力 69.11億円、(3)技術資金協力 17.56億円、」という数字が読める。
 だから、翌1月8日の会見で、ゴーン氏はこう述べざるをえなかった。

 「日本政府関係者の名前を挙げることもできる。だが、私はいまレバノンにいて、レバノンを尊重している。レバノン当局が自分にしてくれたことに感謝している。レバノン当局の仕事を難しくすることを望まない。なので、この部分については沈黙を保ちたい。何かを言って、レバノンの人々やレバノン政府の利益を損なうことはしたくないからだ」

 これは、ごく自然な流れの話であり、ゴーン氏は極めて「常識的な」言動を維持している。
 だから、TS君にこう問うてみたくなる。あなたは、ゴーン氏を「不法な密出国という非常識を犯したこと」で非難するが、今度は一転して「極めて常識的なモノの言い方をしていること」で非難している。一体どっちなのだ? ゴーン氏が「常識的でなかったこと」が気に入らないのか、それとも「常識的であったこと」が気に入らないのか? 理屈が前後で逆転しているではないか。つまり、常識的か、否か、その何れであろうと、ゴーン氏が気に入らないという結論が先にあったわけだ。



自称落語家 "志らく" コメントの、欺瞞性と世論誘導


 まぁ、理屈の前後不一致なんて、実はどうでも良い。常に一貫した理屈を述べるなんぞ、そう簡単にできることではないのだから。
 私が最も気に入らないのは、TS君が「私は素人だから難しいことは分からない、だから、もし間違っていても許してね」という「予め責任回避を宣言する無垢な大衆」に擬態して、カマトト言葉で喋りながら、その煙幕の背後から、被疑者に対して石礫を放っていることである。「日本の司法を批判して自分は法を破って。日本の司法を批判してもいいけど、それは法を守っている人が言うことですよ。破ったヤツが何を言うんだって思います」と、彼は言う。聞き飽きた台詞である。それだけ「無垢な大衆」の賛同を得やすい言葉なのだろう。
 だが、「法を破るようなならず者に、モノを言う権利などない」とは、法治国家の原則に反している。被疑者は裁判によって有罪とされた後、その判決内容に服することで法的に罪状を償うのである。そのいかなるプロセスにおいても被疑者・被告は「モノを言う権利」を喪失することはない。

 このTS君の言辞を、素人の戯言として笑って看過するわけにはいかない。
 ゴーン氏の記者会見を受け、法務大臣森まさこが、次のような「法務大臣にあるまじき、とんでもない」発言をしている。それが「ごく、当たり前の」発言として、放送され、新聞に掲載されるための国民感情の素地を、志らくを初めとする三流の批評家や芸人どもが提供しているからである。


法務大臣のコメントを、報道、会見の動画、法務省のHPで確かめる。


 当たり前のことを確認するが、日本は法治国家(のはず)であり、その「法治国家」という属性における最高責任者は法務大臣である。因みに、法務大臣森まさこは東北大学法学部卒の弁護士である。いまさら、法律についてはよく知らなかった、などと云う言い訳は許されない。
 では、森まさこ(せんせぃ、せんせぃ、それは先生ぃー、の森昌子さんではないぞ。森昌子さんの名誉のため、蛇足ながら付け加えておく)は、どう言ったのか。

 "NHK NEWS WEB"は、こう記事にしている。
   https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200109/k10012239431000.html

 森法務大臣は、9日午前1時前に法務省で臨時に記者会見し、「ゴーン被告は、嫌疑がかかっている経済犯罪について、潔白だというのであるなら、司法の場で正々堂々と無罪を証明すべきだが、国外に逃亡し、刑事裁判そのものから逃避した。どの国の制度のもとでも許されることではない」と指摘しました。

 午前1時前(深夜だよ)の記者会見だなんて、安倍内閣の閣僚たち、よほど慌てふためいていたのだろう。もし日本政府側になんら疚しい点が無いと確信しているのなら、翌朝ゆっくりと記者会見すれば良いではないか。閣僚たちが数時間わいわい騒いでひり出した文面がこれかよ。後段で述べるが、この文言、法治国家における裁判制度について、閣僚たちが最低限の常識すら持ち合わせていないことをそのまま暴露する結果となっている。もう一例、確認しておこう。

 "THE SANKEI NEWS"の場合は、こうだ。
   https://www.sankei.com/affairs/news/200109/afr2001090003-n1.html

 保釈中にレバノンに逃亡した日産自動車前会長、カルロス・ゴーン被告(65)の会見を受け、森雅子法相は9日午前0時40分すぎから臨時の記者会見を開き、「潔白というのなら司法の場で無罪を証明すべきだ」と述べた。

 私は我が目を疑った。法務大臣たる人物が、本当にそう言ったのか! 公式発表をそのままコピペするしか能の無い記者どもが、法務大臣に忖度して、思わず語彙を改竄したのではないか?
 で、私は、まさこ法相の会見動画を直に確かめてみた。"ANN NEWS" が "You Tube" にアップされている。間違いない。確かに、まさこ法相はこう述べている。(開始から10秒を過ぎたあたりから)【註】この動画は、いつの間にか「非公開動画」になっている。こんなこともあろうかと、発言部分の静止画像を保存しておいたので、下に掲げておく。
   https://www.youtube.com/watch?v=v58pnAmMtkk
 
 ご自分が経済活動を行っていた、この我が国の司法制度のもとで、裁判を受け、身の潔白を主張するのであれば、堂々と証拠を出して、具体的に立証活動をするべきである

  

 さらに驚くべきことに、法務省HPにも、「森法務大臣コメント(2)(カルロス・ゴーン被告人関係)―令和2年1月9日(木)」という長い談話が掲載されている。その最後はこう結ばれている。
   http://www.moj.go.jp/kokusai/kokusai03_00011.html

 また,個別事件に関する主張があるのであれば,具体的な証拠とともに,我が国の法廷において主張すればよいのであり,ゴーン被告人においては,我が国の公正な刑事司法手続の中で主張を尽くし,公正な裁判所の判断を仰ぐことを強く望む。

 同趣旨のことが述べられているが、まさこ大臣の会見にあった「立証活動をするべき」が、HPのコメントでは「主張すればよい」微妙に変更されていることに注意していただきたい。後段を読めばお分かりいただけると思うが、これ、「証拠隠滅」的操作だと思いますね。


森まさこ、あなた本当に弁護士出身の法務大臣なの?


 「もしゴーン氏が無実であるならば、堂々と法廷で証拠を示し、無罪を主張すべきである」というモノの言い方に、私が執拗にこだわる理由を述べる。

 雑誌やネットなど、あちこち散見するかぎり、「ゴーン氏は逮捕されたが、それなら、一体、彼がどのような犯罪を犯したのか?」という「犯罪の核心」に関して具体的に述べた例は、一例として見いだすことが出来ない。これ、本当です。一度検索してみてください。どこを探そうが、何を読もうが、ゴーン氏は何をした廉で逮捕されたのか、これがサッパリ分からない。
 ゴーン氏を叩きまくっている人に対して、この質問を投げかけてみればどうだろう。きちんと答を返せる人はまずいないだろう。当時の報道を読み返してみても、さっぱり要領を得ない。おそらく、何の罪で自分が拘束されたのか、ゴーン氏自身も、まったく見当がつかなかったはずである。
 この「論点のすり替え」にこの事件を解く鍵がある。後段でこの点に踏み込んでゆくが、その前にまず「ゴーン氏自身が、証拠を示し、無罪を証明せよ」という常套句をキッチリと否定しておきたい。

 ある日突然、私が逮捕されたとする。罪状は、お宮さんの賽銭を盗んだ容疑であっても、電車で痴漢行為を働いた容疑であっても、コンビニでカップ麺を万引きした容疑であっても、何でもかまわない。(どちらにしてもスケールが小さいなぁ) で、起訴され、裁判の被告となったとして、裁判官から「自分が無罪であることを、証拠を示して証明せよ」と言われたらどうだろう。自分自身で、自分の無実を証明することは可能だろうか? 無理ですね、絶対に不可能である。こんな極小スケールの容疑であっても、自分にかけられた容疑を、無罪であると証明することはできない。
 当たり前だ。私たちは、日々、もしかしたら逮捕されるかもしれないことを想定して、自分の無罪を証明するために生活しているのではないのだから。あなた、一昨日の晩、何を食べたか覚えていますか? 昨晩だって怪しいものだ。

 不可能なことをせよと強要するような法律は存在しない。だから、刑法のどこをひっくり返しても、「刑事事件の被告は、証拠をそろえて、自分の無罪を証明しなければならない」などという条文はどこにもないのである。


安倍晋三以下全閣僚が、「法治国家の原則」を無視している。


 間違えてはならない。法廷物の映画などで、検事と弁護士(被告)が丁々発止とやり合う場面を見て、あれは、検事と弁護士(被告)が、対等の立場で、被告の有罪・無罪を争っているのだ、と。そうではない。
 裁判所が裁くのは被告ではない。裁判所が裁くのは、検察が提出した訴状内容である。より厳密に言えば、訴状の中核である容疑者の『供述調書』である。『供述調書』が正しく起訴事実を表現したものであるかどうか、が法廷において検証されるのである。
 繰りかえす。裁判所は、被告人に対し、「証拠を提示して自らの無実を証明せよ」とは命じない。裁判所は、検察側に対し、「提出した訴状なかんずく『供述調書』により、被告人の有罪を立証せよ」と要求するのである。裁判で要求されるのはこれのみである。この目的のため、検察は『供述調書』の正当性を、弁護士・被告側は『供述調書』の不当性を、お互いが証人や証拠を提出しあって争うのである。(この点をよく覚えておいていただきたい。後段で出てまいります。)
 推定無罪』(Presumption of innocence)と云う言葉は、様々な意味で用いられる概念であるが、その本来的な意味は次の通り。

 刑事裁判における立証責任の所在を示す原則であり、「検察官が被告人の有罪を証明しない限り、被告人に無罪判決が下される(=被告人は自らの無実を証明する責任を負担しない)」ということを意味する(刑事訴訟法336条など)。(Wikipedia)

 だから(と、ダメを押すのも面倒なぐらいだが)、日本国法務大臣森まさこが、深夜の記者会見で述べた内容は、法治国家の原則から完全に逸脱している。まさこ大臣にこれを言わせた安倍晋三以下閣僚諸氏も同罪である。
 これは、小学校の学級会などでよく使われる「権利を主張するなら、義務を果たせ」という台詞、つまり日常生活におけるモラルのあり方をいささか堅苦しく表現した常套句を、そのまま国家レベルの刑事事件にまで膨張させたものである。これこそ、保守反動派ポピュリズの常套的手口であり、国民を正しく啓蒙してゆかねばならぬという義務を放棄している、という点において、反国家的・亡国的妄動であると言わざるを得ない。


森まさこの姑息な謝罪手法


 この森まさこ法相の会見を、問題あり、と指摘したのは、弁護士さんのサイトとか、ツイッターのいくつかのアカウントであった。多くのメディアはこれをスルーしたようである。
 だから、森まさこ法相は、深夜の、あれほど大層な記者会見でマス・メディアに向けて発した文言を、何と、自らのツイッター上でこっそりと謝罪したのである。姑息、の一言に尽きる。



 まぁ、それでも良いだろう。いまさら法相の姑息さを批判しても何も得るものはない。
 大切なのは、ゴーン氏が一体どのような容疑で逮捕されたか、という事の本質の方である。
 次回からは、当時の新聞報道を読み返し、一つ一つゴーン氏の容疑を確認してゆこう。
 それは、もう、驚きの連続である。

 −−【その1】了−−  



   
     
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