難波駅を出た電車がわずかに右にカーヴすると、つり革に掴まっていた男たちは一斉に右側の窓から外を見やった。
 ほんの一瞬、大阪球場のスコアボールドが見えるからだ。
 私の家は球場から1キロ以上も離れていたが、物干し場にあがると、観客のあげる歓声が風に乗って流れてきた。
 確かに昭和のある時代まで、私たちは「自分の五感で直接」社会の動きを感じとっていたのだ。                           











(今回の危険人物)
久木元伸(くきもと・しん)

2018年12月当時
    東京地検次席検事
2020年2月現在
    東京高検次席検事





















「脱獄」をテーマにした映画は
とてもたくさんあります。
一つのジャンルとして
成立するくらい。
思い出すままに並べみました。
年代順です。
名作が多い!!








『穴』
ジャック・ベッケル;1960

実話である。その脱獄犯だった本人が出演している、と聞いて、友人と連れだって観に行った。確か中学2年生だったと思う。ベットの金具をハンマーがわりにして穴を掘る、鏡と歯ブラシで潜望鏡を造る、作業で組み立てている紙箱で寝姿を偽装する、と趣向もたっぷり。穴が貫通してマンホールの蓋を持ち上げると、刑務所の塀の外。この時、観客席から、ホーッ、というため息が出た。
ジャック・ベッケルは『現金に手を出すな』『モンパルナスの灯』などで、すでにおなじみの監督だった。息子さんのジャン・ベッケルも良い監督だね。こちらは『クリクリのいた夏』とか『画家と庭師とカンパーニュ』とか、ドラマで魅せるスタイルだ。







『網走番外地』
石井輝男;1965

犯罪人なのだが精神は善人、という錯綜した人格の高倉健がこの映画で誕生した。この映画でスターとなった健さんは、これ以後繰り返し、この「犯罪人なのだが精神は善人」という役柄を演じ続ける。意に染まぬ犯罪に再び手を汚すのも「巻き込まれる」か「義理と人情を秤にかけた」結果であり、精神の高潔性は保持される。







『パピヨン』
フランクリン・J・シャフナー;1973

これも実話が元になっている。原作には存在しない獄友(?)を設定することで、筋書きを立体的に構成することに成功している。ダルトン・トランボの脚本はやはり非凡。主人公は冤罪なのだが、「赤狩り」の標的にされ、散々な目に遭ったトランボ自身の姿が投影されている、と言われる。







『ミッドナイト・エクスプレス』
アラン・パーカー;1978

タイトルは「脱獄」を意味するスラング。アメリカの青年が旅行先のトルコで、麻薬所持の容疑で逮捕される。なんとか刑期を終えようとしたとき、さらに大幅に刑期が延びてしまう。かくなる上は …… 。主人公の置かれた状況は、ゴーン氏の場合と似てますね。これも実話が元になっているとか。脚本を書いているのは、あのオリバー・ストーン。







『ダウン・バイ・ロー』
ジム・ジャームッシュ;1986

原題は、囚人のスラングで「親しい兄弟のような間柄」という意味だとか。ジム・ジャームッシュの常で、登場人物はいつも戸惑いながら行動するし、会話はとてもゆっくりとしている。だが、ストーリー展開は非常に速い。必死の行動のさなかにも、日常的な時間が流れる。不思議な魅力がある。この時間の流れは、アキ・カウリスマキ監督の映画に似ている。やはり小津の正統的な後継者なのだろう。






『オー・ブラザー!』
ジョエル・コーエン;2000

脱獄モノだがこれはコメディ。男前俳優のジョージ・クルーニーがおバカ役に徹している。コーエン・ブラザーズの映画は、観やすく、解りやすく作られているが、いつもどこかシュール。寓話的な意味が含まれていて、西欧人ならこの話に「オデュッセイア」を読み取るらしい。男たちが連れ立って黄金を探しに行く、その道中で様々な人とモノに出会い、となれば確かに「オデュッセイア」だね。










     ページの上段へ

葬り去られた「逮捕・勾留の一回性の原則」
        『カルロス・ゴーン vs 東京地検』 その4
                   (2020年02月27日)



"a fucking arrest" & "an unbelievable re-arrest"


 カルロス・ゴーン氏の「容疑事実」とはいったい何であったか?
 前々回・前回の二度にわたって、初回逮捕時(2018年11月19日)の容疑事実を確認してきた。
 だが『朝日新聞DIGITAL』の記事4本(11月19日〜11月24日)を素直に読み解く限り、容疑事実は極めて不分明で、この逮捕が理にかなったものであるとは、とうてい思えない。前回の最後で、4本の記事それぞれを、次のように総括しておいた。

1) 確たる証拠もないまま、とにかく逮捕。長時間の取り調べによる自白強要。
2) 任意同行の段階だったのに、マスコミに身柄拘束をリーク。極悪人逮捕ショーを演出。
3) 成立したばかりの司法取引制度の、本末転倒的利用。
4) まだ授受の行われていない「支払の約束」を強引に犯罪とみなす。

 新聞報道風に云えば「不当な逮捕」という言い方になるのだろうが、そんなお上品な形容動詞は、この場合ふさわしくない。東京地検のやり口は、もっと無茶苦茶、もっと支離滅裂である。この逮捕劇を表現するなら、アメリカ映画に頻出する "fucking" = "イカれた" 以外に、適当な言葉を見いだせない。

 東京検察は、ここで止めておけば良かった。それならば、"fucking" と罵られるだけで済んだであろうに。
 だが、東京地検は12月10日にゴーン氏を「再逮捕」する。これによりゴーン氏は冬の拘置所にのべ 130日間閉じ込められるわけだが、東京地検自身もまた、抜け出せぬ泥沼にはまり込んでゆくのだ。

 では、ゴーン氏は、どのような容疑で再逮捕されたのか?
 この再逮捕を、なぜかマスコミは詳しく伝えていない。
 すっかり大騒ぎをしてしまった後なので「ニュース・バリュー」は低下した、と判断したのだろうか? それとも、もっと深い「配慮」があったのだろうか?
 だから、この再逮捕時の容疑内容については、よく知らない人が多いのではなかろうか。この私だってそうだった。

 だが、調べてみると吃驚仰天。

 思わず、嘘だろ …… 、ホントかよ …… 、

 とつぶやいてしまう容疑内容なのだ。
 まさに、"an unbelievable re-arrest"


こんな「再逮捕」って、ありですか?


『朝日新聞 DIGITAL』(2018年12月10日)
〔見出し〕 ゴーン前会長を再逮捕 15〜17年度も過少記載の疑い
〔リード〕 日産自動車の会長だったカルロス・ゴーン容疑者(64)が2010〜14年度の役員報酬を計約50億円分過少に記載したとして逮捕された事件で、東京地検特捜部は10日、前会長と側近の前代表取締役グレッグ・ケリー容疑者(62)が15〜17年度の報酬計約40億円分も過少記載したとして、金融商品取引法違反(有価証券報告書の虚偽記載)の疑いで再逮捕した。
〔本文〕

a) 特捜部は同日、14年度までの5年間のゴーン前会長の報酬が実際は計約 100億円だったのに、計約50億円と過少記載したとして、前会長とケリー前代表取締役を同法違反の罪で起訴した。同法の両罰規定に基づき、法人としての日産も起訴した。
b) 再逮捕の容疑は、ゴーン前会長はケリー前代表取締役と共謀し、17年度までの3年間の前会長の報酬が実際は計約71億7400万円だったのに、有価証券報告書は計約29億 400万円と過少に記載したというもの。同社の報告書には、前会長の報酬は15年度が10億7100万円、16年度は10億9800万円、17年度は7億3500万円と記載されている。
  https://www.asahi.com/articles/ASLDB4SY2LDBUTIL01S.html

 「再逮捕の容疑とは何だったのか」というポイントに注意して、本文を読んでみよう。
 「a)」の部分には初回逮捕(11月19日)の容疑内容が、「b)」の部分には再逮捕(12月10日)の容疑内容が、書かれている。

a) 初回逮捕; 10〜14年の報酬を過少記載した → 有価証券報告書の虚偽記載の容疑
b) 再逮捕 ; 15〜17年の報酬を過少記載した → 有価証券報告書の虚偽記載の容疑

 何じゃ、こりゃ ! 
 まったく同じ容疑で再逮捕されている ! 違うのは容疑の期間だけ !!

 これは明らかに「逮捕・勾留の一回性の原則」からの逸脱ではないか! 法治国家(安倍晋三君が好きな言葉で云うなら「法の支配」のもと)では、絶対に許されることではない。
 
 今年1月、法務大臣森まさ子が「推定無罪の原則」を無視した。
 だがその1年以上も前、東京地検は「逮捕・勾留の一回性の原則」を無かったことにしていたのである。


葬り去られた「逮捕・勾留の一回性の原則」


 「推定無罪の原則」という言葉を知っている人なら、「逮捕・勾留の一回性の原則」も知っているだろう。刑法における基礎の基礎、アカは止まれ、アオは進め、レベルの常識だろう。
 確認しておこう。試みに「逮捕・勾留の一回性の原則」で検索してみると、刑法の素人や勉強の初心者向けの解説サイトがズラリとヒットする。2件だけコピペさせていただく。

 逮捕・勾留の一回性の原則
 同一事実についての逮捕・勾留は原則として一回である。これを逮捕・勾留一回性の原則という。これを認めた明文はないが、再逮捕・再勾留を無条件に認めれば、逮捕の留置期間、拘留期間の制限は無に帰してしまい、人権保障は危うくなるため、承認されている。
 この原則は次の二つの内容を含む。
 (1) 同一の犯罪事実について、同時に2個以上の逮捕・勾留を行うことはできない。これを「一罪一逮捕・一勾留の原則」という。ここに「一罪」とは、公訴事実の同一性を基準とするとされている。
 (2) 同一の犯罪事実について逮捕・勾留は、時を異にしてそれを繰り返すことはできない。これを「再逮捕・再勾留の禁止の原則」という。ここでも「同一の犯罪事実」の客観的犯意は、ほぼ公訴事実の同一性が基準となる。

  http://ww2.tiki.ne.jp/~tanaka-y/note/keiso34.htm

 これ(再逮捕・再勾留の禁止)は、同一事件について、時を別にして再び逮捕・拘留を繰り返すことは許されないという考えです。 …… 逮捕・拘留の期間は法律で厳しく限定されていますが、いくら期間を定めていても、逮捕・拘留を繰り返すことを認めては、結局、期間を設けていないのと同じことになってしまいます。これでは、被疑者の身体が不当に拘束され続ける恐れがあります。そこで、再逮捕・再拘留を禁じることによって、逮捕・拘留がなし崩し的に継続される危険性を排除したわけです。
  『新 はじめて学ぶ 刑事訴訟法』 弁護士 高橋裕次郎編著

 東京地検は、a=(10〜14年)、b=(15〜17年)、と期間をずらしただけで、「a」と「b」は「同一の犯罪事実」ではない、と云う理屈を弄している。これは詭弁である。

 そもそも「逮捕・勾留の一回性の原則」とは、刑事事件の取り調べは過度に暴力的なものになりうるという経験的事実から、被疑者の人権を擁護するために確立された概念である。
 明らかに、東京地検は「逮捕・勾留の一回性の原則」という根本原則が存在することを知っている。知っていて、その精神を遵守するのではなく、逆に、「逮捕・勾留の一回性の原則」そのものを踏みにじるための字句解釈ツールとして利用する。この詭弁は、「これは暴力ではない、実力である」とか「これは戦力ではない、自衛力である」とかいう風に、国家権力が暴力装置としての本質を現す時に必ず出現する、居直り強盗的啖呵と同質のものである。

 言っているほうは、自分の台詞が論理的で万人を説得できるものだ、などとは思っていないだろう。司法の番人という偽装をかなぐり捨てて、俺は権力の体現者だ、文句があるのか、と恫喝にかかっていることを、十分に承知している。いや、恫喝できる立場にあることを、快感に感じているようにも思える。
 だから、恫喝された側は黙っていてはならないのだ。だが、いったい何時から、知識人やマスコミは、それを平気で許すようになったのだろう。ネット上を見ても、異議を唱えている人は、ほんのわずかである。


異議を唱えているのは、いつも同じ人


 前回でも引用した、東洋経済山田雄一郎記者はこう書いている。

『東洋経済ONLINE』(2018/12/11)
 なぜ同じ容疑なのに期間を2つにわけたのか。12月10日の会見で尋ねると、東京地検久木元伸・次席検事「捜査に関わることなので答えられない。当然ながら適正な司法審査を経ている」と答えた。「逆に2回に分けなければならなかった事情は何か」と食い下がると、「公判の争点に関わるので答えを差し控える」と久木元氏は述べるのみだった。
  https://toyokeizai.net/articles/-/254486

 話すことの内容より以前に、東京地検次席検事・久木元伸くきもと・しん。現在は「東京高等検察庁次席検事」に出世している)の、木で鼻を括るようなモノの云い方は、いったい何だ。いつから、三下の役人が、安倍や管の口吻を真似るようになったのだ。いやしくも検事という肩書きを頂戴しているのなら、司法の番人としての人格的統合(integrated personality) を知らしめるような口をきけ。
 「当然ながら適正な司法審査を経ている」のなら堂々と、その「適正な司法審査の経過」を開示できるはずだ。開示することに何の障害があろうか。「司法審査の経過」という手続きが、どうして「捜査に関わること」「公判の争点に関わる」ことになるのか。理屈がつながらない。いや、もっと有体に云うならば、裁判所のOKをもらった、と云うただそれだけのことだろう。「逮捕状をとる」とか「拘置延長申請をする」とかいう、検察から裁判所に対して行う行為には、ほとんど "No" が返されることがないと聞く。つまり、検察と裁判所との馴れ合いという事実があって、それを「適正な司法審査を経ている」と言いかえているだけのことじゃないか。

 調べてみたらこの久木元伸という男、この会見に先立つ定例記者会見(2018年11月29日)で、海外メディアでは「長期勾留」という批判が出ているが、という質問に対して、「それぞれの国の歴史と文化があって制度がある。他国の制度が違うからといってすぐに批判するのはいかがなものか」と反論したらしい。大笑いである。長期拘留も自白強要も日本の文化だ、と曰うのだ。石田純一さんもびっくりしているだろう。
  https://www.asahi.com/articles/ASLCY6G3XLCYUTIL049.html

 さらに調べてみたら、この久木元伸という男、2012年10月の『東電女性社員殺害』の再審控訴審に担当検事として出廷し、マイナリさんを無罪とする旨の「意見書」を読み上げている。

 東京高検からは保坂栄治、久木元伸(くきもと・しん)両担当検事が出廷。今回の再審はマイナリさんを無罪とした1審東京地裁判決(00年4月)を不服として控訴した状態からやり直されるが、久木元検事は当時提出した控訴趣意書を朗読しなかった。続いて無罪主張に転換した経緯などについて、淡々とした面持ちで「証拠関係が変動した。被告人は無罪」と意見を述べた。マイナリさんの呼称は「被告人」で、意見書には謝罪の言葉はなかった。

 この文面のオリジナルが確定できないのだが、おそらく『毎日新聞』の記事だと思われる。記事には、閉廷後のコメントとして「捜査・公判に問題はなかった」としつつ「結果として長期間拘束し申し訳なく思っている」と語った、とある。結審まで15年の冤罪事件を引き起こしておきながら、まだ「捜査・公判に問題はなかった」と言いはるのである。とことん失敗からの学習能力に欠損のある人たちである。また同じことをしでかすに決まっている。これじゃ、ゴーン氏でなくとも逃亡したくなるだろう。

 弁護士の郷原信郎さんも、このゴーン氏再逮捕について次のように書いている。

 しかし、8年間にわたる「覚書」の作成は、同一の意思で、同一の目的で毎年繰り返されてきた行為なのであるから、仮に犯罪に当たるとしても、全体が実質的に「一つの犯罪」と評価されるべきものだ。それを、古い方の5年と直近の3年に「分割」して逮捕勾留を繰り返すというのは、同じ事実で重ねて逮捕・勾留することに他ならず、身柄拘束の手続に重大な問題が生じる。しかも、過去の5年分の虚偽記載を捜査・処理した後に、直近3年分を立件して再逮捕するとすれば、その3年分を再逮捕用に「リザーブ」していたことになる。それは、検察の常識を逸脱した不当な身柄拘束のやり方である。
  https://news.yahoo.co.jp/byline/goharanobuo/20181221-00108526/

 郷原信郎さんは現在は弁護士であるが、検察出身の人で東京地検の検事も歴任された人である。その郷原さんが「検察の常識を逸脱した不当な身柄拘束のやり方」だ、と断言している。それに私が付け加えることは、何もない。
 「ゴーン=日産事件」の本質を正確に知りたいと思うなら、私のような「筋金入りの素人」の駄文など読むことなど今すぐ止めて、郷原さんのブログ記事を追跡されると良いと思う。ホント、ためになります。


根本問題としての「日本語の論理性破壊」


 しかし、
 内閣総理大臣、内閣官房長官をはじめとする政府の要人たちや、日銀の総裁、検察の面々は、
 なぜ、ここまで、傲慢に徹することが可能なのだろう?
 

 彼らは、原理原則破壊と掟破りの妄言を繰り返し、気に入らない質問に対しては、木で鼻を括ったような口調で、答える必要はない、と回答を拒む。
 この「ゴーン = 日産事件」においても、今年1月、法務大臣森まさ子が、深夜の記者会見という満場注視のなか「推定無罪の原則」を正面から否定する発言をした。それも本人が無自覚のまま。だがその1年以上も前、東京地検は「逮捕・勾留の一回性の原則」を葬り去っていたのだ。ほとんど父親殺しのようなやり方で。
 この腐敗構造は、その原因として、権力の一極集中だとか、野党・マスコミが批判勢力でなくなったとか、いろいろ云われるが、はたしてそのような「政治的力学」だけの問題であろうか?

 私は、(亡くなった人だから、評価が甘くなっているかもしれないが)小渕恵三の急逝の後、その後を襲った、森喜朗、小泉純一郎、麻生太郎、安倍晋三らの歴代自民党首相と、彼らが重用した腰巾着どもによる、日本語の論理性破壊が、無知蒙昧をさらけ出しながら傲慢に徹するというスタイルを生んだのだ、と考える。母国語の破壊。これこそ彼らの最大の犯罪ではなかったか。

 彼ら彼女らの「日本語の論理性破壊」に共通する特徴をまとめてみよう。

1、事実を提示するとき、具体性と詳細を求めない。概括的ワンワードで済ませる。
2、論理の鍵となる抽象概念・学術用語を、語義を確認することなく曖昧なまま使用する。
3、ごく一般的な概念に、慣用的使用法から逸脱した、都合の良い解釈を付加する。
4、論理に整合性を求めない。イメージと情緒で文言を組み立てる。
5、仲間内でだけで通用するような語彙や論理を、公的な発言・文書にそのまま持ち込む。
6、自分対する批判的意見は、すべて「そのような考え」として退ける。


東京地裁次席検事 齋藤隆博 のコメントを解析する


 前回、(今回の危険人物)として東京地裁次席検事齋藤隆博に登場ねがった、彼のゴーン氏会見に対する「異例の」コメントについて触れた。その文面で「日本語の論理性破壊が、無知蒙昧をさらけ出しながら傲慢に徹するというスタイルを生む」ことを検証しておこう。
 その前半部分を、そっくりコピーする。
 http://www.kensatsu.go.jp/kakuchou/tokyo/page1000001_00015.PDF

 被告人ゴーンは,犯罪に当たり得る行為をしてまで国外逃亡したものであり,今回の会見内容も自らの行為を不当に正当化するものにすぎない。被告人ゴーンが約 130日間にわたって逮捕・勾留され,また,保釈指定条件において妻らとの接触が制限されたのは,現にその後違法な手段で出国して逃亡したことからも明らかなとおり,被告人ゴーンに高度の逃亡のおそれが認められたことや,妻自身が被告人ゴーンがその任務に違背して日産から取得した資金の還流先の関係者であるとともに,その妻を通じて被告人ゴーンが他の事件関係者に口裏合わせを行うなどの罪証隠滅行為を現に行ってきたことを原因とするもので,被告人ゴーン自身の責任に帰着するものである。このような自身の犯した事象を度外視して,一方的に我が国の刑事司法制度を非難する被告人ゴーンの主張は,我が国の刑事司法制度を不当におとしめるものであって,到底受け入れられない。

 余談から入るが、公文書をコンマ「,」とマル「。」で書くのは、1952年(昭和27年)に内閣官房長官が各省庁の事務次官に通知した「公用文作成の要領」に依る、とのことである。とは言っても強制力のあるものではないので、今では公文書でもテン「、」とマル「。」で書くのが大勢を占めている。その中にあって、今でも頑強に旧習に固執しているのが、裁判所、法務省、宮内庁、外務省の4省庁らしい。イメージとぴったり合致しているので笑ってしまう。
 伝統を遵守するのはあながち悪いことではない。だが、それならば、文章自体も厳格なものであってほしい。しかるに「被告人ゴーンが約 130日間にわたって逮捕・勾留され」なんて、手抜き表現を平気でしている。私なら「被告人ゴーンが4回も逮捕され、約 130日間にわたって勾留され」ときちんと書くだろう。だって、これは検事が書く署名入りの公式文書である。些細な瑕疵も許されないという、美意識にも似た自負心はどこにいってしまったのか。それが、司法の番人としての人格的統合(integrated personality) と云うものだろう。

 さて、本題。
 ここで確認できる「事実」は、次の2つしかない。

事実A;東京地検が行ったこと 
  カルロス・ゴーンを、4回逮捕、 130日間にわたって拘束した。
  保釈指定条件において妻らとの接触を制限した。

事実B;カルロス・ゴーンが行ったこと 
  出国手続きなく国外に逃亡した。

 これ以外の文言はすべて、筆者東京地検次席検事斎藤隆博の「判断」である
 「今回の会見内容も自らの行為を不当に正当化するものにすぎない
 「被告人ゴーンに高度の逃亡のおそれが認められた」etc,etc, …… 、
 これらはすべて、地検の判断を一方的に述べたものであって、どれ一つとして論証されたものはない。

 次に、
 この2つの「事実」を、ゴーン氏や弁護人は、どう論理づけているか。
 この2つの「事実」を、東京地検次席検事斎藤隆博は、どう論理づけているか。
 この、二つを比較してみよう。



〔ゴーン氏とその弁護人の論理づけ〕

事実A;東京地検が行ったこと 
  カルロス・ゴーンを、4回逮捕、 130日間にわたって拘束した。
  保釈指定条件において妻らとの接触を制限した。

   ↓↓↓

カルロス・ゴーンの主張
 これは不当なことである。
 それ以上に、この経過から判断して、4つの起訴案件を一つずつ、地裁 → 高裁 → 最高裁、と順次消化して行には、10年以上の歳月がかかるだろう。だから、


   ↓↓↓

事実B;カルロス・ゴーンが行ったこと 
  出国手続きなく国外に逃亡した。



〔東京地検次席検事斎藤隆博の論理づけ〕

事実B;カルロス・ゴーンが行ったこと 
  出国手続きなく国外に逃亡した。

   ↓↓↓

斎藤隆博の主張
 前半「現にその後違法な手段で出国して逃亡したことからも明らかなとおり,被告人ゴーンに高度の逃亡のおそれが認められた」ので、あるいは、
 後半「妻自身が被告人ゴーンがその任務に違背して日産から取得した資金の還流先の関係者であるとともに,その妻を通じて被告人ゴーンが他の事件関係者に口裏合わせを行うなどの罪証隠滅行為を現に行ってきた」ので、

  ↓ ↓  ↓

事実A;東京地検が行ったこと 
  カルロス・ゴーンを、4回逮捕、 130日間にわたって拘束した。
  保釈指定条件において妻らとの接触を制限した。



 差は歴然としている。

 〔ゴーン氏とその弁護人の論理づけ〕は、原因と結果が、接時系列どおり、順接でつながっている。明快で首尾一貫している。
 過去の事例から見ても、裁判が長期化するという予想は、まさにその通りと誰でも納得できる。

 それとは逆に〔東京地検次席検事斎藤隆博の論理づけ〕は、時系列が逆になっている。
 主張の前半は、後で起こった「事実B;被告人ゴーンが行ったこと」を理由にして、先に起こった「事実A;東京地検が行ったこと」を正当化しようとしている。時系列が逆。長期拘留が先か、国外逃亡が先か、因果関係つまり論理が循環してしまう。
 主張の後半も、地検が立証しようとしたゴーン氏の容疑を繰り返し述べているだけで、ゴーン氏がそう供述したわけでも、その結果立証されたわけでもない。つまり、まだ事実として認定されていない事柄で理屈を組み立てている。


「検察の負け」が明らかになる


 この様な論理の成りたたない文言が、検察官が公表する公文書であってはならない。

 もう一度、文面をよく見てみよう。
 斎藤隆博は「被告人ゴーンが約 130日間にわたって逮捕・勾留され,また,保釈指定条件において妻らとの接触が制限されたのは, …… 」と、ごく当たり前のことのように書く。

 だが、刑法の定める拘留期限は「原則として10日」である。
 これは10日もあれば取り調べは完了しうるだろうという物理的判断と、被疑者の人権擁護の両面を考慮しての数値であろう。裁判所が必要と認めた場合のみ、さらに10日の延長が認められる。これはかなり一般化しているとはいえ、あくまで特別な場合の特例という建前は生きている。警察に逮捕された場合の留置期間最大3日を加えても、最大23日間の留置・拘置期間というのは「常識的に」遵守されなければならない。

 逆に言えば、最大23日かかって立件できなかったとするなら、それは十分な証拠がなかったか、もしくは自供させることができなかったか、もしくは驚くほど検察官が凡庸であったかのいずれかである。そのあと別件での再逮捕と続けば、我々はもう、証拠不十分か、冤罪であると断定して良いのである。

 下の表を見ていただきたい。諸国の刑事司法制度の比較表である。拘留期限は、西欧諸国に比べて、日本と韓国が桁違いに長いのである。

 だから「130日間にわたる勾留」という事実を、検察が行使しうる当然の権利のようにサラリと言ってのけた時点で、検察の負けが決まったと言える。


  

                 『朝日新聞DIGITAL』(2018年12月30日)

 −−【その4】了−−  



   
     
 『カルロス・ゴーン vs 東京地検』 Topへ