難波駅を出た電車がわずかに右にカーヴすると、つり革に掴まっていた男たちは一斉に右側の窓から外を見やった。
 ほんの一瞬、大阪球場のスコアボールドが見えるからだ。
 私の家は球場から1キロ以上も離れていたが、物干し場にあがると、観客のあげる歓声が風に乗って流れてきた。
 確かに昭和のある時代まで、私たちは「自分の五感で直接」社会の動きを感じとっていたのだ。                           








『意地』『メンツ』というキーワードで記憶を検索すれば、出てくるのは「任侠」世界のものばかり。
任侠映画にはあまり食指が動かないのだが、それでも何本かは観ている。

今日は、私の好みに合わなかったものを、取りあげてみる。一度しか観ていないから、私にはその良さが分からないのかもしれない。だから悪い評価をするつもりはない。








『博奕打ち 総長賭博』
東映(1968)
監督;山下耕作

この映画は三島由紀夫が、ギリシャ古典悲劇に匹敵する傑作、と激賞したと云うし、敬愛する佐藤忠男さんも褒めていたので観てみた。観て失望した。ギリシャ悲劇に似ているのは、登場人物が誰も彼も意地を張るものだから、必ず悲劇的に終わるだろうと予感させるところだけ。誰かが妥協して打開案を出すと、他の誰かが「それじゃ渡世人としての義理が立てねぇ」と意地を張る。攻守を変えてそれの繰り返し。








『夜汽車』
東映(1987)
監督;山下耕作


姉役の十朱幸代さんは汽車に乗っている。同乗していた女性が中に産気づく。十朱さんは落ち着いてキッチリと産婆さんの仕事をする。こんなエピソードで始まるから、賢いしっかり者の女性の話かと思いきや、姉妹と一人の男が意地の張り合いをして、お互いが不幸になるように不幸になるように行動してしまう。ショーケンが姉妹で取り合いするほどの男には見えない。あこがれの秋吉久美子さんの柔肌が拝めると聞いて、飛びついた私が愚かだったのか。








『鬼龍院花子の生涯』
東映(1982)
監督;五社英雄


こちらも、夏目雅子さんを見たいという一心で観たのだろう。雰囲気だけの記憶が残って、粗筋などスッカリ忘れてます。きっと、『夜汽車』と同様、宮尾登美子さんの原作と肌が合わないのだと思う。
なめたらいかんぜよ! 
と怒鳴られるのは、ちょっと快感だったかも。


この映画、海外向けのポスターが凄く良い。

"A Japanese Godfather"には笑ってしまう。
でも、こういう絵柄だと、鬼龍院政五郎の通称「鬼政」が、おにいさま、と読めてしまう。
でも、
読み違えたって良いでしょう、
お・に・い・さ・ま。



ありゃ、全部東映の映画になってしまった。それも、山下耕作監督が2本。宮尾登美子原作が2本。よほど、私と相性が悪いのか?









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検察の行動原理は「意地」と「メンツ」
        『カルロス・ゴーン vs 東京地検』 その5
                   (2020年03月25日)


日本司法制度の異常性、独特のもの。


 何度も引用してきたが、東京地検 次席検事 齋藤隆博は、1月8日のゴーン氏会見に反論する形で、地検ホームページに「異例の」コメントを掲載した。そこで、平然と次のように述べていた。

  ……  被告人ゴーンが約 130日間にわたって逮捕・勾留され,また,保釈指定条件において妻らとの接触が制限されたのは ……

 前回確認したように、わが日本国では、検察における拘留期間は、原則10日、延長が認められた場合でも最長20日、である。欧米諸国の場合はもっと短い。イギリスは1日、ドイツは48時間以内、フランスでも最長4日、アメリカは州によってまちまちだが、1日〜2日。日本だけが、原則10日、最長20日であるから、桁違いに長いのである。
 それが、さらに、「 130日間にわたって逮捕・勾留され」ることが、なぜ可能なのか?
 おまけに、検事自身が、それを「当たり前のことと信じて疑わない」でいられるのか?

 これは、刑法や刑事裁判の国際的な常識で、つまり法学上の理論・理屈で解ける謎ではない。日本の司法制度には、西欧その他の諸国にはない「日本の司法制度に独特の何か」が存在するように思える。
 では、その「日本の司法制度に独特のもの」とは何か?
 適当な言葉を見いだせないのだが、検察庁の構成員が共通して持つ「組織としての集団的妄想」とでも言うべきものではなかろうか。傷病名を借りるなら「集団的強迫性障害」。分かりやすい日常語で言いかえれば「意地」とか「メンツ」と呼ばれるものである。
 そう、彼らの行動原理は、いわゆる反社会的集団、ヤクザ・極道のそれとまったく同じなのだ。そう考えれば納得がゆく。

 2018年12月21日、ゴーン氏は「再・再逮捕」される。
 それまでの1ヶ月間は、私のような素人でも、刑法の基本的な概念をおさらいすることで、何とかその経過を追認することができた。だが、この再・再逮捕以降の検察の行動は、カオス・混沌・支離滅裂、正気の沙汰とは思えない。彼らの集団的内面心理をアレコレと詮索することでしか、つまり「意地」とか「メンツ」で読み解くしか、事態を追うことが不可能となる。


裁判所、検察、「意地」と「メンツ」だけが行動原理となる。


 11月19日のゴーン氏逮捕から、12月21日の再・再逮捕までの約1ヶ月間、つまり「刑法の基本的な概念でその経過を追認することができる」期間を、「逮捕と拘留期限」という区切で整理してみよう。

 2018年11月19日の夕刻、ゴーン氏は帰国した機上で逮捕された。これが(1回目)の逮捕である。拘留期限は10日、これに10日の拘留延長が加わり、12月 9日に拘留期限が切れることになっていた。
 そこで東京地検は、12月10日にゴーン氏を再逮捕する。これが(2回目)の逮捕。今度の拘留期限は12月20日。しかし立件の目処が立たなかったのであろう、地検は、当然のことのように、地裁に10日間の拘留延長を申請する。
 だが今回は、地裁はこれを却下した。

 このあたりから、地検と地裁双方の思惑、「意地」と「メンツ」が見え隠れし始める。
 前回に詳述したとおり、そもそも12月10日の再逮捕の容疑は、明らかに「逮捕・勾留の一回性の原則」から逸脱していた。常識的に考えれば、逮捕状が発行できるような内容ではなかった。
 だがそこは「地検と地裁」の間柄。立場こそ違え、同じ法曹界の親近者、お互い見知った者同士、現に「判検交流」が当たり前。法曹界でキャリアを積むとは、検事になったり判事になったり、を繰り返すこと。今年の自分は裁判所でも来年は検察に移動、という場合だってありうる。あまり杓子定規に事を運び、遺恨を残したままだと、この先検察に移った後「お前、あの時、よくも、 ……」と、自分の立場が悪くなることがあるやもしれぬ。
 まぁ、良かろう、あまり固いことを言わずにおこうと、地裁は逮捕状を発行したのだ。前回引用した、東京地検 久木元伸 次席検事の「当然ながら適正な司法審査を経ている」の中身とは、実はこう云うことである。「適正な司法審査」だなんて、格好つけるんじゃないよ。

 地裁の側から言えば、この件では、逮捕状発行だって問答無用のごり押しで乗り切ったのに、今度は拘留延長と来た。さらに拘留延長まで認めれば、いくら今のマスコミが腑抜けた状態にあると云っても、一部には騒ぎ出す輩もいるだろう。そうなれば、こっちの身が危ない。先の逮捕状発行で、地裁は地検に譲歩した。再度の譲歩は必要なかろう。拘留延長は却下だ。
 まぁ、こんな下っ端役人的バランス感覚で、拘留延長を却下したのだ、と思われる。つまり裁判所は、「司法の番人」としての「意地」を示してみせたわけだ。

 誰もこんな経過は語っている訳ではないし語るはずもない。私が勝手に想像しているだけだ。だが、図星を突いているはずである。すでに「意地」と「メンツ」だけが彼らの行動原理となっている。


逮捕する限り起訴、起訴する限り有罪。


 地検は焦った。
 20日までに立件できなければ、翌21日にゴーン氏の拘留を解き、釈放するより他はない。
 
 ここで、地検のオヤジ連中に問うてみたい。
 あっさりと釈放すれば良いではないか?
 お前たちは「頑張った」のだろう? のべ1ヶ月間、証拠物件を掻き集め、入れ替わり立ち替わり、脅したり、なだめたり、すかしたりして、みっちりと尋問したんだろう? それでも墜とせなかった。ゴーン氏を甘く見ていたわけだ。これが誤りと言えば誤りだった。
 でも、ここまでやって立件できないのなら、釈放するだけのことではないのか? それで何の不都合があろう。誰か怖い人が、地検は何をしている! と怒るわけでもあるまい。尋問して、クロならばクロ、シロならばシロ、多少グレーでも、疑わしきは罰せず、より正確に言えば、"in dubio pro reo"「疑わしきは被告人の利益に」(まだ、裁判にはなっていないが)、が刑事裁判における原則ではなかったか。

 しかし、地検のオヤジ連中はそうしなかった。地裁が見せた「意地」に呼応したわけでもあるまいが、地検も「意地」を見せる。地裁の「意地」は若干の「司法の番人」としての雰囲気を漂わせていたが、地検の「意地」は、そんなものではなかった。とんでもない代物なのだ。「逮捕する限り起訴、起訴する限り有罪」。これが地検の「意地」である。


検察の意地を緩和してみせる有識者たち


 このシリーズの冒頭で書いたとおり、ゴーン氏の1月8日の会見に、日本の有識者やコメンテーターたちは一斉に反発した。彼が「(日本で起訴されれば) 99.4% が有罪になる。外国人にとってはさらに厳しい」と述べたことに対しても、その筋の専門家を自認する連中が、先を競うように反論を述べ立てた。
 例えば、池田信夫は、自分が運営している(らしい)『アゴラ ― 言論プラットフォーム』というサイトでこう書いている。2020年01月09日 23:30 とデータが入っているので、ゴーン氏会見の翌日の記事である。森まさこと言い、齋藤隆博と言い、この池田信夫と言い、何をそんなに急いでたのだろう。

 ゴーンが日本の司法制度を「推定有罪だ」と批判しているが、保釈条件を破って国外逃亡した犯罪者が司法を批判するのはお門違いである。こういうときよく引き合いに出されるのが「日本は有罪率99%」という数字だが、これには誤解がある。
 たしかに2018年に日本の地方裁判所で無罪になったのは105件。刑事訴訟の総数(併合を除く)49811件の中では、有罪率は99.8%である(司法統計年報)。だがこれは「逮捕されたらすべて有罪になる」という意味ではない。
 警察が検挙(あるいは逮捕)して送検した被疑者のうち検察が起訴した者を示す起訴率は、2018年の犯罪白書によると、刑法犯全体で37.5%、交通違反を除いても51.5%である。したがって有罪率を「有罪/検挙」と定義すると、約51%とするのが正しい。

  http://agora-web.jp/archives/2043549.html

 池田は、ゴーン憎し、という思いが先に立っているのだろう、データの恣意的な引用を行っている。「司法統計年報」の数字である、と権威づけて誤魔化そうとしているが、注意深い読み手なら騙されることはないだろう。彼が「比率計算の分子」に引いているのは「警察が検挙して検察に送検した件数」である。だが、ゴーン氏を逮捕したのは警視庁の所轄ではない。東京地検特捜部が直接逮捕したのだ。猿でも知っている事実である。おそらく池田は、知っていながら別のデータを引き合いに出している。世間が寄って集って叩いている対象に向かっては、多少の誤謬や言い過ぎがあっても許されるだろう、という社会的雰囲気に便乗する姿勢がおぞましい。学術博士の肩書きが鳴きますよ、池田サン。


絶望的な「有罪率99%」


 ゴーン氏の言う通り、検察特捜部が逮捕した刑事事件の有罪率は、限りなく 100% に近い。
 これについても、この「ゴーン・日産事件」の連載記事を書くにあたって、多くのことを教えていただいた郷原信郎さんの文章を、ここでも引用させていただく。
 念のために申し添えるが、池田は、1月8日のゴーン氏会見より前の1月2日に『「有罪率 99%」という誤解』という一文を、自分のブログに書いている。以下に引用する郷原さんの文章は、その池田の主張を批判して、1月5日に書かれたものである。それを池田は読んでいて、「追記」でそのことに触れている。それでも、なおかつ、同趣旨の記事をを1月9日にアップするのである。どんなに批判されても意地を通すところは、検察とそっくり。

 特捜部が、被疑者を逮捕する事件では、検察組織が、「独自に刑事処罰をすべき」と判断するからこそ逮捕するのであって、それを自ら不起訴にすることは、ない。(小沢一郎氏の政治資金規正法違反事件は、逮捕はされていないし、そもそも告発事件で検察が独自に刑事立件したものでもない。)警察の判断で逮捕した事件について、検察が起訴・不起訴の判断をするのとは根本的に異なり、特捜事件においては、池田氏が言っているような「逮捕された被疑者のうち、確実に有罪になる者しか起訴しない」という選別は働かない。ターゲットにされた人物とともに下っ端の人間が、「捨て駒」的に同時逮捕され起訴猶予になる場合を除き、特捜事件においては、「逮捕=起訴」だ。
 そして検察は、一旦起訴した以上、検察の組織の「面子」にかけて、何が何でも有罪判決を獲得しようとする。そして、検察が組織を挙げて有罪を獲得しようとし、司法メディアも「有罪視報道」しているのに、裁判所がそれに抗って無罪判決を出すことは、まず、ない
 仮に、一審で無罪判決が出ても、検察は間違いなく控訴し、控訴審で逆転有罪となる(村木厚子氏に対する一審無罪判決に対して検察が控訴を断念したのは、「証拠改ざん問題」の発覚が影響したものと考えられる。)
 過去に、特捜事件で逮捕された事例で最終的に無罪が確定した事例は、ほとんどないに等しい。そういう意味では、特捜事件においては、まさしく、絶望的な「有罪率99%」なのである。

  https://news.yahoo.co.jp/byline/goharanobuo/20200105-00157696/

 郷原さんも「検察は、一旦起訴した以上、検察の組織の「面子」にかけて、何が何でも有罪判決を獲得しようとする」と書いている。
 そう、私は、2018年12月20日以降の地検の行動は「意地」と「メンツ」でしか理解できない、と書いていたのであった。その時点に話を戻そう。
 地裁は10日間の拘留延長を認めなかった。再逮捕の容疑に関しては、ゴーン氏を釈放するしかない。それでは「メンツは丸潰れ」となる。そこで東京地検はどうしたか?

 何と、12月21日、ゴーン氏を「再・再逮捕」したのである。

 今までと同様に、その当日の新聞紙面を読んでみよう。刑法の論理と常識で読み解くことができるだろうか?

 −−【その5】了−−  



   
     
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