難波駅を出た電車がわずかに右にカーヴすると、つり革に掴まっていた男たちは一斉に右側の窓から外を見やった。
 ほんの一瞬、大阪球場のスコアボールドが見えるからだ。
 私の家は球場から1キロ以上も離れていたが、物干し場にあがると、観客のあげる歓声が風に乗って流れてきた。
 確かに昭和のある時代まで、私たちは「自分の五感で直接」社会の動きを感じとっていたのだ。                           








アベノマスク
笑えない冗談



官製三密ポスター
このポスターの訴求力のなさは異常。本当に分かってほしい、という気があるのだろうか。
下に掲げた、1928年(大正7年)の、スペイン風邪流行時ポスターと比較したまえ。











繊維産業国産率の低下



食料自給率の国別比較













1918年(大正7年)
米騒動








この岡本一平の戯画は、ユーモラスな雰囲気もあるが ……、


焼き討ちされた 神戸 鈴木商店


こんな立派な建物だった

鈴木商店は、後の日商岩井から、現在の双日まで続く。












1918年(大正7年)
スペイン風邪大流行








マスク姿は今も同じ。




100年経っても、訴求力十分。



















1973年(昭和48年)
上尾事件
































はい、
おつかれさま。



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序破急の「破」
  『コロナ・パンデミックから何を学ぶか?』 その1
                   (2020年04月26日)


パンデミックは、「破」の段階に。


 冒頭から厭な言葉を使うが、行き倒れて亡くなった人や孤独死した人の死因を調べたら、新型コロナウイルスの感染者だった。この約1ヶ月全国で15人。( 4月23日の報道)
 無症状の来院患者67人に PCR検査を行ったところ、うち4人が新型コロナウイルス陽性だった。( 4月24日の報道)

『時事ドットコムニュース』2020/04/23 12:04
〔見出し〕死亡後に陽性判明、15人 3月中旬以降―警察庁
〔リード〕自宅や路上などで死亡し、警察が通報などを受けて対応した事案のうち、新型コロナウイルスの陽性反応が出た死亡者が3月中旬から今月22日までに15人に上ることが分かった。警察庁の松本光弘長官が23日の記者会見で明らかにした。
〔本文〕
 同庁によると、15人は全員男性で、内訳は東京都が9人、埼玉県2人、兵庫県2人、神奈川県1人、三重県1人。
 搬送時の状況やコンピューター断層撮影(CT)検査、親族の説明などから、医師らが感染を疑ってPCR検査を行い、陽性と判明した。死因が新型コロナウイルス以外の人もいるという。
 捜査関係者によると、東京都足立区では今月9日未明、60代男性が路上で倒れているのを通行人が見つけ、警察署に連絡。男性は搬送先の病院で死亡した。
 救急隊員が肺炎を疑って医師がPCR検査を実施したところ陽性が判明した。死因は新型コロナウイルスによる肺炎とされたという。

  https://www.jiji.com/jc/article?k=2020042300486&g=soc

『ミクスOnline』2020/04/24 04:52
〔見出し〕慶応義塾大学病院 新型コロナ以外の無症状患者の6%がPCR検査陽性 院外・市中感染の可能性も
〔本文〕
 慶応義塾大学病院(東京都新宿区)は4月23日までに、新型コロナウイルス感染症以外の治療目的で来院した無症状の患者67人にPCR検査を行ったところ、4人(5.97%)が陽性者だったと公表した。4月13日から4月19日に行った術前および入院前PCR検査で明らかになったもの。同院は、「これらは院外・市中で感染したものと考えられ、地域での感染の状況を反映している可能性がある」とし、感染防止にむけて更なる対策を講じていく必要があると指摘している。

  https://www.mixonline.jp/tabid55.html?artid=69155

 じりじりとただ耐えているあいだに、コロナ・ウィルス (COVID-19) によるパンデミックは、ここまで進行してしまった。ソナタ形式ならば「展開部」に、日本の舞楽風に云うなら序破急の「破」の段階に突入している。このまま進めば、ある時点で感染は一気に拡大するだろう。
 新型肺炎発生が伝えられた初期の頃から抱いていた生活者としての不安が、ここに来てなまなましい現実となった。だが依然としてお上は、手を洗え、とか、蜜を避けよ、といった、当初からの啓蒙的合い言葉以上のなにものをも示していない。我が身を守るために、私たちはどのように行動すればよいのか。


生活者としての不安


 いま私は「生活者としての不安」と書いた。「不安」という単語に、ほとんど無意識に、ごく当たり前に「生活者としての」という限定を付けていた。なぜか?
 この間ニュース報道は、そのほとんどがコロナ感染関連で埋め尽くされている。これでもか、これでもか、と云うぐらい「不安」が煽られている。だが、何かおかしい。違和感がある。適当な言葉に至らないのだが、さあ、みんなで怖がりましょう、といった感じの集団的恐怖心の煽動、とでも言っておこうか。この集団の恐怖心は、特定の人や場所に向けられることで、擬似的な緩和を得る。現に、医療従事者やその家族・感染者の出た家庭などが、恐怖と禁忌の対象とされて始めている。感染者の家が投石されたり落書きされたりすることが、すでに発生しているという。
 何と馬鹿なやつがいるものだ、と慨嘆して済む話ではない。教化を誤れば、大衆はすぐに馬鹿になり得るのだ。政府・行政、それにマスコミの、情報発信の不適切さこそ指弾されなければならない。正しく怖がる、などというコピーが空しく響く。

 だから「生活者としての不安」なのだ。原点にもどって、他の何でもない、「この私の不安」の」正体を見極めてゆこう。手始めに、「生活者としての不安」の中身をもう少し具体的に書き出してみる。いくつかの段階に分けられるように思う。


〔1〕
 自分と自分の家族が感染するのではないか、という不安。

〔2〕
 感染が疑われる場合迅速に診断してもらえるのか、発病した場合適切な治療が受けられるのか、という不安。

〔3〕
 自分と自分の家族が生活の糧を得ている職域が維持されるのか、という不安。

〔4〕
 仮に金銭の蓄えがあったとしても、食材・日用必需品・医薬品などが手に入るのか、という不安。

〔5〕
 前項の多くの不安が現実のものとなって、略奪・破壊・暴力的行為などが発生するのではないか、生活圏における日常性が崩壊するのではないか、という不安。



 こうして書き出してみると、政府首脳の言動から察する限り、彼らの関心はこの「生活者としての不安」とはまったく別のところにあるように思える。
 だが、国民の一般においては、この「生活者としての不安」以外の不安は、ハッキリ言ってどうでも良いのだ。上場企業の株価が下落しようが、航空会社が減便で困窮しようが、リニヤ新幹線の建設が止まろうが、経済指標が下降しようが、 GDPが下落しようが、この際、生活者としての私には何の関係もない。ましてや、オリンピックなんぞ、どうなろうと構わない。もう、止めたー、と宣言してスッキリしなさいよ、安倍さん。鬱陶しいたらありゃしない。

 一方マスコミ報道は、頻繁に「生活者としての不安のようなもの」を採り上げてはいる。
 だが、その取り扱いは断片的で、この〔1→5〕という段階区分をごちゃ混ぜにして、ニュース番組に仕立て上げる。だから話が混乱し、「不安の核」からずれてしまう。だから、ニュース報道を何度くり返して読んだり聴いたりしても、よし、これで分かった、という気分にならないのだ。


もう少し、具体的に。


 もう少し具体性に向かおう。話はややこしく聞こえるが、内容はいたって単純なことである。

 この「生活者としての不安」〔1→5〕の緩和・解消のためには、
 その各々に「判断と対応策」が必要であるが、

 その、時間的 = 論理的前後関係から、
(a) この不安が現実化しないための手立て(予防措置)、と、
(b) 現実化してしまった場合の対応の手順(対応措置)、の区分が、さらに、

 その行為の主体別に、
(x) 個々人としての遵守事項(個人の責任)、と
(y) 政府・行政が為すべき具体的施策(政府の責任)、とが区分されなければならない。

 ただ、これだけのことである。
 この具体的項目を心に置いて、先の「生活者としての不安」〔1→5〕が、どの程度に緩和されているのか、を点検してみよう。


〔1〕
自分と自分の家族が感染するのではないか、という不安。


 ここで述べ立てるのも白けてしまうのだが、中央政府は何もしていないのと同然である。
 「政府・行政が為すべき具体的施策」はアベノマスク、「個々人としての遵守事項」は三密を言い渡して、はい、それで終わり。


〔2〕
感染が疑われる場合迅速に診断してもらえるのか、発病した場合適切な治療が受けられるのか、という不安。


 これはもう無茶苦茶、言語道断。
 2月17日に厚生労働省が示した「目安」は、至る所にコピーされ、もう丸暗記されているぐらいである。例の「風邪の症状や37.5度以上の発熱が4日以上続く方」というやつである。
 誰も彼もが発熱したからと病院に押しかければ、病院自体が「クラスター」になってしまう、という理屈はよく分かる。医師や看護師、その他の医療従事者たちが感染すればたちまち医療崩壊を起こす、という理屈もよく分かる。あちこちの医師会とかも、同じことを言い、どうかご理解を、節度ある行動を、などと曰う。
 だが、これは「診察機関・医療機関側の事情」のことではないか。お世話になる医療機関に向かって汚い言葉を吐くのは恐縮至極だが「てめぇの勝手」ではないか。「発熱した病人の立場」は一顧だにされていない。

 我々がさんざん聞かされてきた心得とは、「身体に異常を感じたら、少しでも速く医者に診てもらえ」ではなかったか。もし、37.5度以上の発熱があるのに4日も放置していたら、医者に怒られたものだ。何故、もっと早く受診しなかったのか、と。私自身、数年前、インフルエンザに罹った後しばらくしてから肺炎になった。発熱した初日は、大人しくしていれば熱は下がるかもしれないと、何の根拠も無い楽観性にすがって寝床にいたが、二日目は辛抱できなくなって朝一番に診療所へ駆け込んだ。以降完治まで40日。あの時4日間自宅で耐えていたら、どうなっていただろう。
 今年、発熱したら、私はどうすれば良いのか? 実際、最後になってコロナ感染だと判定されたが、それまで医療機関をたらいまわしされたり、自宅で呻吟していた例が、次々と報告されたいる。亡くなってしまった人だって多い。これ、たまたま有名人だからマスメディアの記事になっているだけのことです。

 「医療機関の事情」と「疾病者の事情」(コロナである、なし、に関わらず)が、鬩ぎ合っている、というのが現状である。ならば、この二律背反を緊急に解消しようとするのが政府・厚生労働省の仕事だろう。それをしないで、政府・厚生労働省は「医療機関の事情」だけを取り込んで、その後も頑としてやり方を変えない。より実際的に云うならば、ここに「ヒト・モノ・カネを投入させる」ことを渋っている、というだけのことだ。オリンピックなどのお祭りごとにはジャンジャンカネを出すが、人の命には、無い袖は振れぬとシカトをきめこむのである。


〔3〕
自分と自分の家族が生活の糧を得ている職域が維持されるのか、という不安。


 急を要するのは、当面の生活費枯渇に対する手当である。だが、「お肉券」に始まり「1人10万」の決定に至るまでの迷走ぶりを、何と言うべきか。要は、現政権中心メンバーたちが、お互いが有利に立とうとして、あるいは、自分と繋がる族議員たちの便宜を図るため、ヘタな策略を弄しあった、と云うことなのだろう。
 日本を除くすべての諸外国では、国民救済措置の決定は驚くほど速かった。これは、どの国においても、政府首脳がごく当たり前の判断をしたということ、彼ら彼女らが緊急時における優先順位の見極めが出来る人たちであった、ということだ。

 3月6日、安倍内閣は西村康稔を「新型コロナ対策担当大臣」に任命する。「おしゃべり大臣」と評される人らしいが、私はどんな男なのか知らない。だが、西村、ニシムラ …… 、って「経済再生担当大臣」の西村のことなの、と思ったら、やっぱり、あの西村君じゃないの。
 この人事はおかしいだろう。
 「新型コロナ対策担当大臣」という役職を作らねばならぬのは、その通り。情報を集中させ、権限を与えて、問題が起これば間髪入れず対応を指示する。安倍君が意味不明な言葉を発しようが、麻生君が顔を歪めてみせようが、そんな昼行灯(ひるあんどん)上司は無視して、ドンドン事を進める。良いじゃないの、もし、そうなるならば、だ。
 「新型コロナ対策担当大臣」なら、その打ち出す政策は、心構えや精神論ではないだろう。彼はヒト・モノ・カネを自由に動かせる権限を持たねばならない。もっと有り体に言うならば、国民の命を守るため、惜しむこと無くカネをドンドン使わねばならない。「新型コロナ対策担当大臣」ならば、これが優先順位のトップにくる。
 だが「経済再生担当大臣」は、その逆の動きをしなくてはならない。枯渇した実質経済を再生させるには、資金・資源の備蓄が最優先テーマである。これ、「新型コロナ対策担当大臣」とは 180度逆の立場となります。こんな二律背反する役目を一人の男にやらせようとするのである。これはおかしいだろう。アクセルとブレーキを同時に踏め、というようなもの、司法で云うなら、検事と弁護士を一人で担当するようなものだ。

 つまり安倍君は、まだ分かっていない、のだ。
 彼は、言葉の真の意味での「新型コロナ対策担当大臣」を置いたのではない。今カネを惜しんでいては国民の命は守れない、とは考えていない。そうではなくて、新型コロナにおいては、会議や会見の席で自分が上手く答弁できる自信がないので、自分のかわりに答えさせる人間を据えた、というだけのことだ。その人間は、使える語彙が狭小で失言をくり返す麻生君のような人物であってはならないし、しどろもどろになって議会が紛糾してしまう桜田君のような人物であってもならない。だから、ペラペラと舌だけはよく回る「おしゃべり大臣」が適任なのだ。
 つまり、西村君は「新型コロナ対策担当大臣」ではなく「新型コロナ答弁担当大臣」なのだ。だから、一人10万のカネすら、なかなか出てこない。


〔4〕
仮に金銭の蓄えがあったとしても、食材・日用必需品・医薬品などが手に入るのか、という不安。


 アベノマスクはエイプリル・フールの冗談かと笑いのネタになったが、実際に送られてきた商品は、サイズが小さすぎたり、虫が混入していたり、汚れていたり、カビだらけだったりして、笑えない冗談になってしまった。急遽、東南アジアかどこかの流通倉庫や工場の滞留在庫(≒不良在庫)をかき集めたからそうなったのだろうが、その根本原因は次の二点にある。

1; 組織の長は万能ではない。この問題ならこの男(女)に持ちかければ間違いないという、実務能力に長けた、部下・側近・人脈を豊富に確保しているかどうかで、組織の長の値打ちがきまる。しかるに、わが総理安倍君は、あらゆる政策実行を人気取りの販促イベントに置き換えたり、安直に演説用・選挙用のキャッチ・コピーを作ったり、それも出来ず、ただ、ヨイショ、ヨイショ、のかけ声だけの、いわば幇間(たいこもち)ばかりを登用するので、イザと言う時に、信頼して仕事を任せられる人材が一人もいない。
2; すでに日本国内にマスク製造工場が無い。国内ブランドの看板を掲げていても、生産は海外。それどころか、製品企画から、作業標準、品質管理に至るまで、一切合切工場任せ。日本には購入の窓口があるだけ。日本側の担当者は、指導能力も管理能力も持ち合わせてはいない。彼らの仕事は、値切り(もっと、安くしろ)と納入推進(もっと、速く作れ)だけ。
 政府という「ど素人」が、商社かどこかは知らないが、これも「ど素人」を使って輸入させた。そらく「品質基準書」もなかったのだろう、「布マスク、ありまっか?」「へぇ、ありまっせ。たんと、おます」というやり取りっだけで事が進められたのだろう。これで、良品率が 100% に近い製品が潤沢に供給される、と考える方がおかしい。

 ちょっと調べてみた。2017年の日経新聞の記事によれば「衣料品の国産率はわずか 3%」2018年の記事には「衣料品、国産消滅の瀬戸際 輸入比率98%に迫る」とある。厳密に言えば、マスクが衣料品に入るのかどうかは疑問だが、統計のどの項目に分類指されていようが、国産比率は同様のレベルだろう。

 医薬品の場合はどうか。いまコロナウイルス感染に効果があると期待されている『アビガン』。『富士フイルム富山化学株式会社』の製造であるから日本製の薬であるように思える。ネトウヨたちは早とちりして、例によって、富士フイルムすごい、日本すごい、なんていう「スレ」をたてているが、その原料である「マロン酸ジエチル」は、100%中国からの輸入である。
 これも調べてみたら、もともと「マロン酸ジエチル」は、「デンカ」が生産していた。「デンカ」はさらに「マロン酸ジエチル」の原料である「モノクロル酢酸」も関連会社で生産していた。だが2017年に「マロン酸ジエチル」の生産を停止。以後、すべて中国からの輸入となっていた。理由はもちろん「コスト」である。

 食料自給率の低さは、さらに深刻である。農水省のデータを見れば、2019年度の総合食料自給率
はカロリーベースで 37%
。ふだんの食卓を見れば、誰もが分かっている事実。

 1900年代後半からのグローバリズムは、日本の経営者たちに、悪魔の呪文のような教えを吹き込んだ。
 貴方の会社が、順調に成長してきたからといって、いま利益を上げているからといって、安心するな。国内の何社かでシェアを分け合って、お互いが慎ましやかな利益を得ていることで満足するな。他社に対して優位に立て、他社との競争にうち勝て。寡占・独占企業となり市場を支配せよ。そのために徹底的にコストダウンを行え。人件費は悪だ。雇用制度を見直しリストラを進めよ、非正規を雇って人件費を流動費化せよ。在庫を持つことは悪だ。トヨタ方式を見習って、流通・メーカー・下請けに、ジャスト・イン・タイムで納入させよ。原料調達や工場は東南アジアに移せ。不採算部門は切り捨てよ。余った経営資本は新規事業に集中的しろ。CIだ、持ち株会社だ、M&Aだ。時価評価で資産を水増しさせろ。どうだ株価は上がっただろう。格付けはトリプルAだ。
 経営者はアホになったから、煽動しはやし立てた政府はもっとアホだったから、本家のアメリカ以上にグローバル化を進めました。その結果はどうだ。相打ち・差し違えで敵を倒して単独首位に立ったものの、業績芳しからず、有能な人材は去った後、だいいち、我が社の商品を買ってくれるはずの顧客が困窮化してしまったではないか。

 現在、スーパーやホーム・センターには、一見、豊富に商品が並んでいるように見える。しかしそれは、極めて危うい均衡の上で成立している光景である。



〔5〕
前項の多くの不安が現実のものとなって、略奪・破壊・暴力的行為などが発生するのではないか、生活圏における日常性が崩壊するのではないか、という不安。


 〔2〕の項で、「日本を除くすべての諸外国では、国民救済措置の決定は驚くほど速かった」と述べた。それはその国の首脳たちが、ことの重大性認識と為すべきことの優先順位の判断において賢明であったからだが、もう一つ理由がある。
 諸国の首脳たちは、ふだんは大人しく見えても国民というものは集団的暴力性を内に秘めている、ということを忘れていないのだ、と思われる。

 食うに困れば、その困る人たちの比率があるレベルを超えたとき、それまでは各職場・各家庭に分断されて大人しく収まっていた人々が、急に地域、地域で結集して暴徒化する。これ、当たり前のことですね。もう何百年と人類は同じことをくり返してきた。
 日本だって例外では無い。大正時代に「米騒動」という出来事があったことは、日本史の授業で習っただろう。「騒動」なんて呼ばれているから、「ちょとした騒ぎ」ぐらいに思っているとしたら、その人は余程不勉強な人だろう。
 世界的パンデミックとなった「スペイン風邪」の発生は、1918年(大正7年)のこと。その同じ年の7月、富山で「杖にすがったむさ苦しい婆さん達」や「子供の手を曳いた女房連」の約 200名が米をよこせと市役所に押しかけた。この些細な出来事が発端となる。要求行動はたちまち炭鉱労働者・都市労働者に広がり暴徒化、たった10日間のあいだに全国 400カ所に波及した。軍隊まで出動したが止められなかったのである。
 西欧はまだ第1次大戦の渦中にあった。ロシアでは革命が起こっていた。戦争・困窮・疾病などが重なり、忍従の日々が続き、怨嗟が沸点に達すると、立て飢えたる者よ、と鼓舞されなくとも、人々はいともたやすく連帯して暴動を起こすのである。
 
 日本を除くすべての諸外国の首脳たちは、常識レベルの歴史認識を持っているから、コロナ・パンデミックの前兆を見たとき、すぐに 100年前のスペイン風邪とロシア革命を連想したのだと思う。こりゃ大変だ、速く手当しないと、国民は暴れ出すぞ …… 、国家首脳として当たり前の危機意識であろう。
 唯一「のんきな父さん」でいるのが、安倍君を初めとする日本の政府首脳である。今は、ちゃちな権力争いで戯れている場合ではない。暴力装置を独占して久しいので、国民が暴徒と化す、なんて思いもよらないのだろう。彼らは(野党も含めて、今の国会議員はほとんどすべて)、リアルな生活感覚・経済感覚を喪失している。そんな人たちに常識的な歴史感覚を要求するのが、どだい間違ってるのだろう。

 一昨年の末だったか、安倍君は、主月休みに百田某の書いた歴史書(?)を読んで勉強するのだ、とニコニコ顔で話していた。あの本を歴史書と思い込むには余程の予断と偏見が必要だろうが、その本におそらく米騒動のことは書かれていないだろう。
 では上尾事件ならどうだ。あれは1973年(昭和48年)のこと。安倍君だって二十歳近くになっているはずだ。ごく普通の記憶力と最低限の歴史意識があれば、覚えているはずなんだが。
 国労の「順法闘争」のため駅で足止めを食い、通勤できなくなったサラリーマンたちが、突然暴徒化した。背広を着て鞄を持ち、眼鏡をかけた普通のサラリーマンたちが、だよ。電車も駅舎もメタメタに打ち壊された。新聞の一面に、手に持った傘で殴りかかる男の写真があったのを覚えている。そりゃ、えらい勢いでしたワ。エッ、知らない? 覚えていない? 谷岡ヤスジじゃないけれど「しまいにゃ血ぃ見るどー!、ワリャ」

 この項の結論は、生活圏における日常性の暴力的崩壊を恐れるのはナンセンスだ、ということ。
 ある時に至れば、私が、そして貴方が、暴力行使の主体に転生する、というのが歴史の教える事実である。その時、暴力には行使される権利がある。

  −−【その1】了−−  



   
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