映画は観終えたあとから、もう一つの楽しみが始まる。
                             何故この作品がこれほどまでに私を楽しませてくれたのだろう? 
                             今度は私がホームズとなりポアロとなって謎解きの森に分け入る。




























































































エマーヌエル・シーカーネーダー

Emanuel Schikaneder (1751 - 1812)
生涯で55本の演劇台本と44本の歌芝居台本を書いた。
さらに、みずからが俳優・歌手を演じ、劇場支配人も勤めた。
演劇・歌芝居のエキスパートである。
1780年のザルツブルグ公演の際、モーツァルト父子にも会っている。





『賢者の石、または魔法の島』

"Der Stein der Weisen, oder Die Zauberinsel "
(1790)





『賢者の石、または魔法の島』
の楽譜

第二幕フィナーレの写譜
右上に "Mozart" と作曲者名が記入されている。
これを、旧ソ連は45年間も死蔵していた。





















































































































マリオ・デル・モナコ

Mario Del Monaco(1915 - 1982)
私がオペラを聴き始めた頃、イタリア・オペラ最大のテノールがマリオ・デル・モナコであった。
彼の録音は "Decca" から次々と発売された。
日本では、"London" レーベルで発売されていた。製造していたのは三菱電機だったと記憶する。
どれもが超優秀録音として話題になった。今日的レベルで聴いても超優秀録音であると確認できる。





『リゴレット』の
LPレコード・ジャケット









































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啓蒙主義がもたらす《男社会》への予感

    残された時間は短い。
    じっくりとモーツァルトを聴こう。その6

                    2022/03/27



『魔笛』第二幕は謎だらけ


 では、ザラストロの教団が目指すのは、いったいどのような社会なのか?

 全くのところ、これがよく分からない。
 教団へ入るために、タミーノには三つの試練が課せられる。沈黙・火・水、という三つの試練である。(この試練の不可解さに関しては、後述) ザラストロを始め教団の僧侶・武将たちは、タミーノがこの試練を克服することが出来るかどうかを「期待を込めて」見守り続ける。タミーノに対しては、通常の入信者に対するよりも、より過大な期待感が込められているように思える。これが第二幕の骨格である。
 しかし、タミーノが首尾良く試練を乗り越えて入団を許されたとして、教団における彼の仕事とはいったい何なのか? そもそも教団が造り上げてゆこうとしている世界とはどのようなものなのか? これがさっぱり見えてこない。パミーノと結ばれることが試練を乗り越えたことの成果である、めでたし、めでたし、で終わるのなら(じっさい、そんな風に『魔笛』は終わるのだが)、何もわざわざ三つの試練などを課する必要はないはずである。二人は出会いの瞬間から間違いなく愛し合っているのだから。

 ザラストロの教団が目指す世界も謎、タミーノに課せられる試練の理由も謎。
 『魔笛』第二幕は謎だらけなのだ。


台本は凡庸? 音楽は素晴らしい! 馬鹿げた二分法


 西洋古典音楽の解説者たちのほとんどは、この謎にきちんと答えてこなかったように思える。
 ちょっと思い返してみよう。私が本腰を据えて『魔笛』(に限らず、オペラというジャンル)を聴き始めたのは、CD(コンパクト・ディスク)が普及した1980年代の後半からであった。それより以前、LPレコードでオペラを聴くなんてことは、よほどのお金持ちのマニアにしか出来ない相談であった。しかし1960年代の初頭からFM放送という重宝なものがあった。もとより手元に対訳があるわけではない。幕間や場面転換の合間に、アナウンサーが大急ぎで粗筋を紹介してくれる。それを頼りにしてラジオに向かうわけである。だから、数時間もラジオにかじり付いてオペラの全曲を聴き通すことは、なかなか出来るものではなかった。それでも、いろいろなオペラに接する機会を与えてもらったことには感謝している。
 そのオペラに先だって、古典音楽評論家が解説を加える場合もあった。『魔笛』の場合、その解説には、たいてい次のような一節が含まれていた。

 『魔笛』は素晴らしいオペラであるが、残念ながら台本が粗雑である。大衆芝居の興行師が書いたものだから、前半と後半で悪役と正義が入れ替わってしまうという、許容出来ない不整合がある。しかしその台本に、モーツァルトは素晴らしい音楽をつけた。その音楽の素晴らしさが台本の不備を補って『魔笛は』比類のない傑作となった。

 放送の解説だけでなく、オペラ案内の書籍をとっかえひっかえ眺めてみても、同じような文言が含まれていたように記憶する。まさに、贔屓の引き倒し、とはこのことであろう。
 我々はモーツァルトを「偉大な作曲家」という抽象的な範疇で理解したつもりでいるが、モーツァルト自身は「偉大な作曲家」になろうなどと考えたことは一度もなかったであろう。彼自身、何度も言っている、僕はオペラで成功したいんだ! と。
 彼が、ザルツブルグから出奔したのは、コロレド大司教と折り合いが悪かったからだ、と説明されているが、それより前に「ザルツブルグにはオペラ劇場がなかった」という、より具体的な事情が先にあったと考えるのが自然である。じっさい彼は、生涯で21本のオペラに着手し、そのうち17本を完成させた。『魔笛』と『皇帝ティートの慈悲』の二本は、彼の生涯最後の年に平行して書かれた。
 オペラとは、台本・音楽・演者・衣装・舞台装置、などをふくむ総合芸術である。オペラ制作の超ベテランのモーツァルトが、台本に関して無頓着であったはずがないのだ。シカネーダーの台本は凡庸だが、モーツァルトの音楽は素晴らしい …… 、こんな馬鹿げた二分法は成立しないのである。


『賢者の石』と『魔笛』の連続性


 この稿の『その2』で、アルフレート・アインシュタイン『モーツァルト ― その人間と作品 ― 』について触れた。これはモーツァルト論考の古典的名著である。英語版が書かれたのが1942年、ドイツ語版は1945年、日本語訳も1961年に出版されている。
 その《ドイツオペラ》の章に、シカネーダーの人物像と『魔笛』に至るまでのモーツァルトの関わりが、かなり詳しく記されている。(邦訳 634p.〜)
 「シカネーダーは生粋の演劇人であった」。アウフ・デア・ヴィーデン劇場で次々と上演されるシカネーダーの歌芝居は大人気で「モーツアルトはこれらの上演作品を注意深く見ていた」。1790年の『賢者の石』では、第二幕の二重唱『さあ、いとしい女房よ、おれといっしょに行ってくれ』のオーケストレーションも行っている。だから、

 シカネーダーが1791年の春にモーツァルトのところへ来て、ヴィーデン劇場のために『賢者の石』またの名『魔法の島』に類似したオペラ、つまり『魔笛』を書いてくれと言ったときに、モーツァルトがひどくいぶかったなどどいうことはありえない。(邦訳 636p.)

 この一文から、アインシュタインのこの著作の頃にも、「シカネーダーの台本は支離滅裂だが、モーツァルトの音楽は素晴らしい」という、作品の中身に踏み込むのを拒む俗説が横行していたことが分かる。アインシュタインは『魔笛』の解析に先立って、そうではない、とダメだしをしているわけだ。この部分を、日本の音楽評論家たちは読まなかったのだろうか。
 モーツァルトは、シカネーダーに、ほぼ 100% に近い共感をもって『魔笛』に向かったのである。だから、歌芝居『魔笛』における謎と混乱の様相は、モーツァルト自身の世界観がもたらしたものであると、正当に捉えなければならない。


モーツァルトは『賢者の石』の作曲に関わっていた !


 モーツァルトの『賢者の石』への関わりについて。
 その何曲かは彼が作曲したのではないか、という可能性がずっと指摘されてきた。しかしそれを証拠だてるものがなかった。だからアインシュタインは、第二幕の二重唱の「楽器編成」をしたことは確かだ (K.625)、と学者らしく控えめに書いている。だがその後、1996年に初演当時の写譜が再発見され、『賢者の石』のうち三曲がモーツァルトの「真筆」であることが確認されたのである。
 この写譜がどこにあったか、って? 第二次大戦終了時、ソ連がドイツから持ち去っていたのだ。それが1990年(ソ連崩壊の前年だ)にドイツに返還され、それから分析が始まり、この発見に至った、という経過がある。どうやら旧ソ連の権力は、作曲家や演奏家を虐めることばかりに執心して、古典的遺産を検証することの意義などさっぱり認識していなかったようである。

 少し『魔笛』からそれてしまうが、シカネーダーの歌芝居『賢者の石』から、モーツァルトが作曲した第二幕の二重唱『さあ、いとしい女房よ、おれといっしょに行ってくれ』を聴いておこう。

 実は、私も"You Tube"の動画で始めてこの曲を聴いたのだが、本当に驚いてしまった。
 ここでの猫をオウムに置き換えれば、そのままパパゲーノとパパゲーナになってしまう!
 こんな風に、シカネーダの歌芝居と『魔笛』の連続性を目(耳か?)の当たりに見せつけられると、さきほどから述べている「シカネーダの台本は屑であるが、モーツァルトの音楽はお宝」という俗説が、いかに空疎なものであるかを確認できる。




《沈黙の試練》の不可解さ


 『魔笛』第二幕に戻ろう。
 前半と後半で善玉と悪役が入れ替わってしまうという一点で、『魔笛』の俗流解説はシカネーダの台本を貶めてきた。これはおかしい。ハリソン・フォードやトム・クルーズが主演するアクション映画を例えに出すまでもなく、娯楽性の高い映画はたいてい、味方だと思っていた男が敵だった、敵だと思い込んでいた女が実は味方だった、という趣向で成り立っている。善悪の逆転というのは筋立てを立体化させるための基本的手段である。「魔笛の不整合性」は、そんなところにあるのでは無い。ごく普通に『魔笛』を観て、当惑させられるのは次の点である。

 ザラストロとその教団の僧侶たちは、「三つの試練」を課す。しかし、いかにしてその試練を乗り越えるのかという手段を一切示さない。ヒントすら与えない。単に厳格に接するがゆえに何の支援もしないのではなく、そもそも先に試練を乗り越えた経験のある「先達」なぞいないのではないか、と思わせる。突然現れたタミーノを、何故か、教団の理念を具現化しうる人物とみなし、そのための資格試験として、急に三つの試練を思いついたかのようである。
 現に、「沈黙の試練」のためタミーノが口を利いてくれないので、愛を失ったのだと思い込んでしまうパミーナは自死に向かう。パパゲーノも、やっとめぐり会えたパパゲーナから引き離され、奈落に堕とされる。もう死ぬしかない。首をくくろうして、一、二、 …… 三、まで数えてしまう。ザラストロとその一味のやり方では、パミーナとパパゲーノを確実に死に追いやってしまう。見殺しである。これでは何のための試練か分からない。

 死の寸前まで進んだ二人を、ぎりぎりの一瞬で救うのは三人の童子である。思い出していただきたい、この三人の童子は、タミーノとパパゲーノがパミーナの救出に向かうにあたって、夜の女王が随行させたものであった。

 悪の権化であるはずの、夜の女王が授けた「力」で、二人は自死をまぬがれる。
 このことをザラストロ勢は問題視する様子がない。これは変でしょう。


《火の試練》《水の試練》の不可解さ


 第二・第三の試練についても、同じことが言える。この「火」と「水」の試練は、タミーノに課せられた試練だったはずなのに、「夜と死を恐れぬ女は、浄き仲間に入る資格がある」と、パミーノも同行を許される。この試練に耐え抜くためにタミーノは「魔法の笛」を吹く。それは「さあ、笛を吹いてください。その音が恐ろしい道を行く私たちを導いてくれるように」と、パミーノが促したからだが、驚いたことに「笛の音に力づけられ、死の闇夜を突き進んで行こう」と二人が励まし合う言葉を、ザラストロ教団の鎧を着た二人の武士も、そっくりそのまま唱和するのである。

 ちょっと待ってくれ、と言いたくなる。「魔法の笛」も「魔法のグロッケンシュピール」も、試練に先立ってザラストロが取りあげたのでなかったか。これをタミーノとパパゲーノの手に戻したのは三人の童子であった。その裏の経過は全くうかがい知れぬのだが、まぁ、それは良い。(おそらく)夜の女王が与えたのだから試練の邪魔になる、という理由で取りあげたものを、今度は、それを使って試練を乗り越えよ、と言うのだ。えらく矛盾しているじゃないか。
 そもそも「三つの試練」の目的は、夜の女王の支配する世界からの完全離脱だったはずである。しかるに、夜の女王が与えたツールでその試練を乗り切ることに、何のお咎めも無いのだ。タミーノは、いたってのんびりと(いう風にしか聴こえない)魔法の笛を吹くだけで、「火」と「水」の試練をあっさりとくぐり抜け、歌芝居は大団円へと向かう。

 善悪の逆転よりも、三つの試練の不整合性のほうが、より激しく『魔笛』の理解を妨げているように思える。善悪はただ単に「立場の違い」の表現。だが、三つの試練の不整合性は物語の主要要素自体の混乱である。いったい、何故、このような台本になったのか? シカネーダーとモーツァルトの意図はどこにあるのか?

 お気楽なお伽噺じゃないの、そこまで目くじらを立てることは無いだろう、と言わないでいただきたい。論理的言語の網が張りめぐらされていないだけ、お伽噺のほうが、作者とその時代性をあからさまに表現することを可能にしている。この『魔笛』の場合がその典型である。ほら、ごらん、これが私たちだよ、これが私たちの生きている時代だよ、という創作者からの発信が、台本の混乱のあちこちから、沸々と沸き上がっているいるのが見える。これが古典が古典たる由縁である。もうしばらく腐心して解決の鍵を探そうではないか。


謎を解く鍵はどこにある?


 謎を解く鍵。それは、今あげた不整合性のすぐそばに見いだすことができる。
 「三つの試練は」タミーノに課せたれた試練のはずだったのに、「火」と「水」の試練には、パミーノが同行することになる。それはパミーナが「夜と死を恐れぬ女は、浄き仲間に入る資格がある」と見なされたからである。これは第一の試練である「沈黙」の目的と対応している。
 「沈黙の試練」とは何だったか? 第二幕第11曲、二人の僧侶による『二重唱』で、次のように説明されている。

  女のたくらみから身を護れ。
  これが仲間の第一の義務だ!
  賢い男でさえしばしばあざむかれる、
  心の備えをおろそかにするからである。
  最後には見捨てられ、
  貞操は侮蔑で酬いられる!
  無念の思いに苦しむことも、
  与えられるのは絶望と死ばかり。


 つまり、女の誘惑に負けるな、と言っているだけのことだ。流目からは眼をそむけろ。甘い言葉には応えるな、無視せよ。これが「沈黙の試練」の中身であった。だが、『リゴレット』でマントヴァ侯爵が唄う『女心の歌』を引き合いに出すまでもなく、男が「風のなかの羽根のように、いつも変わる女心」と女の無節操をあげつらう時は、実は自分自身も「いい女を見れば、たちまち興味を持ってしまう」移り気な心の持ち主であることを白状している。
 ここで、ちょっと一息入れて、『女心の歌』を聴いておこうか。




《男社会》形成への予感


 実際はどうしようもないほど「女好きで助平心がいっぱい」の男なのに、組織の一員になるには、表面上「女嫌い」を装って、極力「女気(おんなっけ)」を排除しようとする。これが《男社会》の一般的なあり方である。ザラストロの教団は、典型的な男社会を作ろうとしているように思える。

 女は、気ままで、移り気で、怒りっぽくて、どうも上手く「制御」できない。しかるに、その色香でもって男を誘惑しにかかる。そんな女に気を許すな。女に「取り憑かれて」しまったら、一生を台無しにすることになる。男には男の生きる道がある。だから、ザラストロの教団は、タミーノから徹底的に「女気」を消し去ろうとした。これが「沈黙の試練」の中味であった。
 しかるに「沈黙の試練」の後、パミーナは、タミーノに再会できた喜びからか、ずっと貴方について行きます、今からの貴方の試練にもついてまいります、と口走ってしまう。この台詞は、男社会至上主義者には至極心地良く響いたことだろう。おお、この女は慎み深い、身の分限をわきまえているぞ、まれに見る「貞女」だ。だからザラストロ門下の鎧武者から「浄き仲間に入る資格がある」と褒められたのである。

 だが、このパミーナが、シカネーダーやモーツァルトが思い描く理想の女性像と合致しているとは、とうてい思えない。前年のオペラ・ブッファの題名をもじっていうなら、「女はみんな、こうしたものではなかった」はずである。
 では、何故ここで作者は、絶えず対立軸の中央に置かれて悩み続けてきたパミーナを、男にとってまことに都合のよい「貞女」に仕立て上げてしまったのか?

 これに対する答えを得るためには、シカネーダーやモーツァルトが生きた18世紀後半の西欧社会の動勢の中に、この歌芝居を置いてみる必要があるだろう。
 18世紀後半の西欧社会とは、市民社会の形成とともに、旧体制(アンシャン・レジーム)の根幹が揺るぎ、思想的指針としての啓蒙主義が徐々にしかし確実に浸透し、ついにフランス革命に至った、そういう時期であった。では啓蒙主義は、どのような社会を将来の理想として描いていたのだろう。この問いには簡単に答えることができない。幾筋もの流れが拮抗し錯綜している。
 シカネーダーとモーツァルトも、そのような社会的動向を概念化するような作業は行っていない。彼らは劇作家であり音楽家であって、社会的思想家ではなかったのだから。しかし卓越した創作者であった彼らには、何かしらの《直感》が働いていたに相違ない。
 この《直感》は、彼らにこう語りかけていたのではないか。

 新時代は、今までに無い、禁欲的な道徳を要求する社会になるのではないか?
 男女が入り乱れることを嫌い、気まぐれな女を排除する《男社会》が、市民社会形成の基礎になっていくのではないか?


 だとするなら、新時代には、我らが愛する、小間使いのスザンナや、村娘のツェルリーナや、フィオルディリージとドラベッラ姉妹は、今までのように奔放に振る舞えるのだろうか …… 、

 シカネーダーとモーツァルトは、そのような新時代にもっとも許容されやすい女として、さしあたり《パミーナという男社会に受け入れられそうな人格》を創造して、歌芝居の中に配置してみたのではなかろうか。そう考えるのが、もっともすんなりと納得がいく。
 

 これは荒唐無稽な妄想ではない。
 男の方にだって、《不気味なほど健全な新時代》がチラチラと見え始めていた。稿を改めよう。

 


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−−【その6】了−−    

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