映画は観終えたあとから、もう一つの楽しみが始まる。
何故この作品がこれほどまでに私を楽しませてくれたのだろう?
今度は私がホームズとなりポアロとなって謎解きの森に分け入る。
ヨーゼフ二世
マリー・アントワネット
レオポルト二世
こうして並べてみると、王侯貴族の肖像画は画一的で面白みに欠けますね。まぁ、面白みを表現したのでは本来の用途から外れるのでしょうが……。
Lorenzo Da Ponte:1749~1838
Lorenzo Da Ponte
Giacomo Casanova:1725~1798
Giacomo Casanova
Beaumarchais
:Pierre-Augustin Caron
:1732~1799
ボーマルシェ
『フィガロの結婚』台本
フランス語は分からないのだが、
『狂おしき一日、
あるいは
フィガロの結婚』
喜劇
四幕
1784年 初演
と書いてあるのだと思う。
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行き場を失うパパゲーノ
残された時間は短い。
じっくりとモーツァルトを聴こう。その11
2022/10/10
将来の見通せない終幕
タミーノが主人公であるなら、パパゲーノはその影。両者が補完しあって、モーツァルトという人格をそのまま反映している。条件付けも但し書きも要らない、そう言い切ってよい。『魔笛』がリアリズムを追求しなければならない演劇ではなく、おとぎ話であったことが、それを可能にしている。
だが『魔笛』では、おとぎ話の定石から大きく外れて、主人公とその影の精神はついぞ交わらず、分断され、放置されたままだ。パミーナの救出、試練という課題を無事終了したのに、二人はお互いの安否を確かめ合うこともなく、挨拶すら交わすことなく、あっけなく歌芝居は終幕に向かう。祝典的なコーラスがマーチのテンポとなり、最後は“ジュピター交響曲”と同じようにスタッカートの弾むファンファーレが鳴り響くが、観る者の気持ちは今ひとつ弾んでこないのだ。アッチェラ・チャンパイは『《魔笛》の秘密、あるいは啓蒙主義の帰結』で、この結末を評して、パミーナが幸せになれるとはとうてい思えない、と述べている。
タミーノは、目的が不明瞭で抽象的にすぎる試練を“一徹さ”だけでくぐり抜け、パミーナを手に入れた。それは良いとして、彼はこれからどこへ向かうのだろう。
パパゲーノも同じだ。試練に向かうことを回避し続けたのに、なぜかパパゲーナを首尾良くモノにした。“奔放さ”で大目に見てもらったのだろうか? 彼もまた、これからどこへ向かうのだろう。
そう、その通り。“一徹さ”と“奔放さ”は、互いに不干渉のまま平行移動したにすぎないのであって、始めと終わりで何の変化もない。成長して今後に向かう動向線をつかみ取ることがなかった。だから二人の将来が見通せないのだ。
これは、『魔笛』作曲時のモーツァルトが置かれていた状態をそのまま映し出しているように思える。
当時のモーツァルトの目に映っていた世界とはどのようなものであったのだろう、と想像するだけで、この謎は完全に解ける。
ヨーゼフ二世 と モーツァルトの生涯設計
『コシ ファン トゥッテ』の初演は、1790年1月末。だが、翌2月、ヨーゼフ二世が亡くなる。オペラは10回ほどの上演を終えたところで中止となる。常態化する経済的困窮のなかでモーツァルトが『魔笛』の作曲を開始するのが、翌1791年の3月。この時モーツァルトの見ていた現在とは、どのようなものだったのだろう?
その半世紀と少し先、十五歳のバイエルンの王子(つまり後のルートヴィヒ二世)は、『ローエングリン』のミュンヘン初演を観て以来、ワグナーの音楽に耽溺するようになる。だが当のワグナーは、王には音楽の理解力がまったく欠けていた、と言い切っている。あれだけの支援を受けた相手に向かってにしていは、えらく素っ気ないモノの言い方であると感じるが、おそらく事実だったのだろう。
では、モーツアルトに対するヨーゼフ二世との場合はどうだったのか?
私は、ヨーゼフ二世はモーツァルトの音楽をかなりの水準で理解していただろう、と想像する。
なぜなら、あの『フィガロ』のウィーン初演を許したのは、他ならぬヨーゼフ二世自身であったから。あるいはまた、第一幕でバジリーオが使う “コジ・ファン・トゥッテ …… ” (美しい女なんてみなこうしたもの! 取り立てて珍しいことではございません。)という言葉をテーマとして、新しいオペラを書けと命じたのも、ヨーゼフ二世であったと伝えられているから。これ単なる噂だとも言われるが、火のないところに煙が立たぬのも事実である。お隣のフランスでは、ボーマルシェのフィガロに対し、ルイ16世は「これの上演を許すくらいなら、バスティーユ監獄を破壊する方が先だ」と怒り狂っていた、という事実を思い起こそう。それぐらいフィガロを上演するということは、アンシャン・レジームの統治者たちにとっては「たわけたこと」だったのである。それをヨーゼフ二世は許可したのだ。
約10年さかのぼる1781年、ウィーンに進出したばかりのモーツァルトに『後宮からの誘拐』の作曲を命じたのもヨーゼフ二世であった。オペラといえばイタリア風と言うのが常識であった時代に、この王は何とかドイツ語で歌われる国民的オペラが創ろうという意欲を持っていた。モーツァルトはまさにその目論みを実現させうる人物として王の眼に映ったのである。モーツァルトは王の期待に素直に応じた。『後宮からの誘拐』は現在の私たちが聴いても文句なしに楽しめる。この歌芝居は太守セリム誉め讃える合唱で終了する。明らかに太守セリムはヨーゼフ二世の隠喩。ヨーゼフ二世が「啓蒙専制君主」であったことに間違いはないのだ。
それにしては「宮廷作曲家」(1787年以降)とは名ばかりで、モーツァルトの待遇は決して良くなかった、という事実を我々は知っている。だがそれは、ヨーゼフ二世のモーツァルト理解というよりは、当時のヴィーン音楽界全体の水準の問題であったと考えるのが正解であろう。
ヨーゼフ二世という啓蒙的君主のもとで宮廷音楽家として大成する。これがモーツァルトの描いていた「生涯設計」であったに相違ないのだ。だがこの計画はちっとも上手く進まなかった。処遇という面から見るならば、モーツァルトはヨーゼフ二世と自らが描いた計画に繰りかえし失望させられてきたのである。だがこの「生涯設計」はデフォルトされることなく、10年間保持されていた。
1790年2月、そのヨーゼフ二世が亡くなった。
起死回生の就活をしくじる
後を継いだレオポルト二世もなかなかの改革派であったというが、なぜか(詰まるところ趣味の問題であるのなら理屈はつけられないのだが)、ダ・ポンテ、サリエリ、モーツァルトとは反りが合わなかったようである。
10月、このレオポルト二世がフランクフルトで戴冠する。宮廷楽長であるサリエリは部下を連れてフランクフルトに乗り込むが、単なる宮廷作曲家、つまり一介の宮廷御用達音楽家でしかないモーツァルトには声がかからなかった。モーツァルトは自腹を切ってフランクフルトに行き演奏会を開く。
この時彼は、ピアノ協奏曲の旧作を2曲たずさえていた。一曲はヘ長調 K.459(#19)、もう一曲はスケッチだけで放置されていて、まだ初演されていないニ長調 K.537(#26)である。この後者が『戴冠式』である。だが起死回生を狙ったこの演奏会は不首尾に終わり、いたずらに借金を増やすだけの結果となる。
ある音楽好きの貴族がこの演奏会の模様を日記に残しているので、それがどのような演奏会であったかを知ることができる。そこにはこう書かれている。
…… 続いてモーツァルトが自作のコンチェルトを演奏したが、非常に愛らしく魅力的であった。彼はアウグスブルグのシュタインのピアノを使用したが、これはフレンツ男爵所有のもので、かなりの逸品に相違ない。モーツァルトの演奏は、晩年のクレッフェルにちょっと似ているが、遙かに完璧だ。(おそらく、ヘ長調 K.459_#19、だと思われる。)
…… 第二部でモーツァルトは別のコンチェルトを弾いたが、最初のものほど好ましくはなかった。(こちらが、ニ長調 K.537_#26『戴冠式』だと思われる。)
…… 聴衆は多くはなかった。 井上太郎『モーツァルトのいる部屋』(338p.)
モーツァルトはどのジャンルにも優れた作品を残しているが、とりわけ力のこもった作曲をしているのは、オペラとピアノ協奏曲であると思う。私もLPレコードの時代に、ピアノ協奏曲の一群によって、始めてモーツァルトの世界に入り込むことができた。以来、数多くの演奏を聴き込んできた。「全集」もたくさん持っている。だがこの『戴冠式』だけは、まず聴く機会がない。楽しめないのである。A.アインシュタインも、この曲に対しては手厳しい。自分自身の曲の貧しいパロディでしかない、とまで言っている。
…… しかしこの曲は、祝典に演奏するにはふさわしい作品であった。これはモーツァルトの全体を示さず、あるいは半分も出さずにいながら、たいへんモーツァルト的である。そして、モーツァルトは自分の作品のなかで自分を模倣している。 ……
『モーツァルト その人と作品』(白水社 425p.)
モーツァルトの身になって考えてみよう。
啓蒙的君主のもとで宮廷音楽家として大成するという、かれの生涯設計は、ヨーゼフ二世の死によって宙に浮いてしまう。ウィーンの聴衆はすでにモーツァルトに感心を示さない。ますます酷くなる経済的貧困。世の中の動きはどうか。隣のフランスでは、前年、1789年7月14日、バスティーユ襲撃が起こっている。フランス革命の勃発である。『魔笛』執筆中の1791年6月、ルイ16世とマリー・アントワネットら王家一族はオーストリアへの脱出を試みるも失敗。パリに連れ戻され、テュイルリー宮殿に軟禁される。モーツァルトの死後の話になるが、1792年の王権停止、一族のタンプル塔に幽閉の後、翌1793年の年明け早々、王・王妃は断頭台の露と消える。
モーツァルトのフランクフルト行きは、明らかにレオポルド二世向けの“就活”であったと思われるが、仮にこの新王に気に入られたとしても、いつまで王権に頼っておられるのだろうか、と疑心暗鬼であったに相違ない。こんな八歩ふさがりの状況では、作曲のモチベーションが保てるわけがないだろう。実際、ニ長調 K.537(#26)『戴冠式』の楽譜は、右手パートだけで、左手のパートはついぞ書き足されることがなかったのである。
もうロンドンへは行けません。ダ・ポンテへの手紙
『魔笛』初演の十日ほど前、9月20日ごろだと想定されているのだが、モーツァルトはダ・ポンテに手紙を書いている。そう、あの三部作の台本を書いたロレンツォ・ダ・ポンテである。ダ・ポンテがロンドンへ行こうと誘いをかけていたのに、もうこんな体調では行くことはできない、という断りの手紙である。
おすすめに従いたいのは山々ですが、どうしたらうまく行くでしょうか? 頭は混乱し、話すのもやっとのことで、あの見知らぬ人の姿を、自分の目から追い払うこともできません。じりじりしながら私の仕事をせきたてるあの人の姿が、たえず私の目から離れないのです。作曲している方が休んでいるより疲れないので、私は続けています。もう最期の時が告げているのを感じます。自分の才能を楽しむ前に終ったのです。しかし自分の運命は変えられません。何びとも自分の命数を数えられるものではなく、諦めが肝心です。何ごとも摂理の欲する通りになりましょう。これで筆をおきます。これは私の葬送の歌です。完成せずにおくわけにはまいりません。
どんなに不調に陥っていても陽気に振る舞ってみせたモーツァルトが、ここでは「頭は混乱し、話すのもやっとのこと」と体調の悪さを素直に吐露している。「あの見知らぬ人の姿」「じりじりしながら私の仕事をせきたてるあの人の姿」とあるのは、『レクイエム』作曲の依頼人のことである。
しかしモーツァルトは、「これは私の葬送の歌です。完成せずにおくわけにはまいりません。」とまで言う『レクイエム』の作曲を中断させたまま、それより先に『魔笛』を完成させる。このような壊滅的状況のなかであの『魔笛』が生み出されたというのは、もう奇跡と言うより他はない。まさに最後の力を振り絞る「死闘」。にも関わらずその様を微塵も感じさせない、まこと天晴れな仕上がり。最後に完成させた『序曲』と第二幕冒頭の『僧侶たちの行進』を、『自作全作品目録』に書き込んだのは9月28日。初演の二日前であった。
今の私たちがたどっている論理の道筋にもどるなら、この手紙から読み取るべきは、「ダ・ポンテに対しては何の虚飾もなく自分の心情を吐露している」という事実、さらには「僚友ダ・ポンテがモーツァルトに一緒にロンドンへ行かないかと誘っていた」という事実である。
この二人のあいだの親密さには何に由来するのか? ダ・ポンテはなぜモーツァルトにロンドン行きを誘っていたのか?
実はこの約一年前の1790年の秋に、モーツァルトはロンドンの音楽マネージャーから2件のオファーを受けている。一つは、ロンドンでオペラを二本作曲してくれというもの。もう一つは、ハイドンをロンドンに招いたあのザーロモンからの、ロンドンへの招聘である。これにモーツァルトがどのように答えたのかは伝わっていない。
ロンドンではすでに「音楽マネージャー」という職能が分離していたわけだ。当時最も市民社会の形成が進んでいたのはパリとロンドンであるから、ロンドンの音楽マネージャーからの招聘という事実はすんなりと理解できる。ここでこだわりたいのは、ダ・ポンテがモーツァルトを誘ったという事実である。
だが、ダ・ポンテという人物に関して、我々はまとまった資料を持っていない。数多く書かれているモーツァルトの評伝のなかで、少しばかり言及されている部分で推しはかるしかないのだ。
この頃、多くの資料で、ダ・ポンテはレオポルド二世の不興を買って国外退去命令を受けていた、と書かれている。また、べつの資料には、ダ・ポンテの方がレオポルド二世に愛想をつかして、宮廷詩人としての辞表を出したのだ、と書かれている。我々が知りうるのはこの程度のことだ。
だが、このような断片的な情報でも、ダ・ポンテとモーツァルトという繋がりに注目してみると、そこから多くのキャラクターが芋ずる式に引きだされてくる。結論を先走りして言うなら、みなパパゲーノという人格に繋がる人たちである。それも「行き場を失った」パパゲーノに。
ダ・ポンテとはどのような人物だったのか? モーツァルトと共通するものはなになのか? 知り得たデータを少しずつ繋げていこう。
以下、前後関係の混乱を防ぐため、採りあげる人物の生年・没年を予め書き出しておく。
(Giacomo Casanova:1725~1798)
(Florian Leopold Gassmann:1729~1774)
(Beaumarchais:Pierre-Augustin Caron:1732~1799)
(Lorenzo Da Ponte:1749~1838)
(Antonio Salieri:1750~1825)
(Wolfgang Amadeus Mozart:1756~1791)
ダ・ポンテ と モーツァルトに共通するもの
ロレンツォ・ダ・ポンテは、ヴェネツィア近郊のユダヤ系一家に生まれた。彼が少年の頃一家はキリスト教に改宗。この時イタリア風の名前にしている。彼は成人してヴェネチアで聖職につく。だが「放蕩的生活」のためヴェネツィアを追われるという羽目に陥った。
このダ・ポンテをウィーンに招聘したのは、あのアントニオ・サリエリである。ことの前後は良く分からないのだが、ダ・ポンテは宮廷詩人として処遇され、精力的に作品を書き続けた。
実はこのサリエリも、ヴェネチアで音楽を学んでいた15歳の時、当時ウィーンの宮廷作曲作曲家であったフロリアン・レオポルト・ガスマンに見いだされて、ウィーンに招かれたという過去を持っている。
このガスマンはボヘミアの生まれであるが、彼もまた、ヴェネチアで作曲家として活躍している時にウィーンに招かれた、という過去を持っている。
これだけ追跡するだけで、次の二つのことが確認出来る
1) 18世紀の中頃は、ヴェネチアが歌舞音曲文化の一中心地であったこと。
2) 文芸・工芸などの職能民は、地域性の制限を超えて(つまり定住することなく)お互いの仕事を斡旋しう集団を形成していた、と言うこと。
こんな風にみてみると、モーツァルトの経歴だけが少し異質であるように思われる。父レオポルドは、息子のあまりの天才ぶりに当惑してしまったのだろう、当時の音楽職能一族という己の属性からはみ出た行動をとっている。
当代きっての音楽教師の下でその技術を習得させ、各国宮廷の国王・王妃といったやんごとなき人々の前で演奏をさせる。そのため幼少年期のモーツァルトは、欧州じゅう旅また旅の生活を強いられたのである。息子に最高の教育を受けさせようとしたのは時代の先を見ての行為だとも言えるが、成果物としての職を得るために各国の諸侯にお目通りを願ったと言うのは、その時代に縛り付けられた行為であろう。モーツァルトがその父親の影響(=抑圧)から逃れたのはウィーンで自立した時。その時出会ったのが、ダ・ポンテであった。
先ほど、ダ・ポンテは「放蕩的生活」のためヴェネツィアを追われた、と書いたが、あっ、誰かとそっくりではないか! と気付かれた方も多いのではないだろうか。誰か? そう、あのジャコモ・カサノヴァと。
カサノヴァ、そして、ボーマルシェ
カサノヴァは某貴族の娘に手をだしたことが原因で宗教的異端者として訴えられ収監されるのだが、その「鉛の監獄」から脱獄してパリに逃れる。1757年だから、モーツァルトが生まれた翌年のことである。そのカサノヴァが、1787年の『ドン・ジョバンニ』のプラハ初演を観ていたことは事実として記録されている。
これから先は、史実とフィクションをごちゃ混ぜにして語るしかないのだが、映画『ドン・ジョバンニ 天才劇作家とモーツァルトの出会い』(2009:カルロス・サウラ)では、ダ・ポンテのウィーンへの出立にあたってサリエリへの紹介状を書いたのはカサノヴァということになっているそうである。(残念ながら、私はまだ観る機会が無い) いずれにせよ、『ドン・ジョバンニ』の台本執筆にあたってカサノヴァが助言を与えたというのは事実であろう。モーツァルトとの交流があったことも。この時カサノヴァは62歳。自分の生涯をしみじみと振り返りながら『ドン・ジョバンニ』を観たのに相違ない。
カサノヴァに言及したのなら、あのフィガロの原作者ボーマルシェに触れないわけにはいかないだろう。だが、こいつはちょっと難題だ。カサノヴァの波瀾万丈の人生は、それでも「希代の色事師にして哲学者・外交官・スパイとして18世紀ヨーロッパを縦横無尽に掛け巡った」という風にまとめることもできるが、カロン・ド・ボーマルシェとなると、そのような略歴紹介も不可能になるくらいなのだ。試しに "Wikipedia" の『カロン・ド・ボーマルシェ』の項目をチラッと見てください。これを要約しようという気力は、今の私にはありません。そこで種村季弘さんの『詐欺師の楽園』のなかの「大革命の時計師 国家陰謀の技師ボーマルシェ」の一節を引いてお茶を濁すことにする。
…… 二十歳を越えたばかりでフランス最小の、巧緻のかぎりをつくした時計を作ったこの男は、やがてルイ十六世の宮廷に入って陰謀家となり、アメリカの独立戦争を作り、財政家として巨万の富を築き、余技に書いた二つの喜劇で空前のヒットを飛ばしてフランス革命を扇動し、晩年にはパリ全市を潤す巨大な水道工事の夢に憑かれ、 …… (164p.)
この本は、カザノヴァにも一章を割いている。題して「詐欺師の哲学 薔薇十字団大幹部カザノヴァ」。
『詐欺師の楽園』という標題からも分かるとおり、この本では、カザノヴァもボーマルシェも「詐欺師」として登場する。だが「とても悪いことをした詐欺師」としてその悪行が非難されているわけではありません。逆です。
賢くて、行動力に富み、時代に対する影響力も強く、数多くの実績を残してきた人物であるにも関わらず、その振る舞いがいささか「自由人」的に過ぎたが故に、あるいは真に「ロマン」的でああったが故に、当世の常識的モラルから見て不道徳である不謹慎であると退けられ、歴史の表舞台からは遠ざけられてきた人たちを「詐欺師」として採りあげているわけである。
一往の結論、のようなものとして
ここまで確認して『魔笛』に戻ろう。
タミーノに課せられた試練が抽象的で、彼がそれを“一徹さ”だけでくぐり抜けたことに、我々は不満を持った。だがそれは、この時点では仕方のないことだった。市民社会はまだ産声をあげたばかりだった。何やらやたら威勢が良くて厳格で、しかし時々は全員にあっちを向けと命じたりしそうで、もしそうなったらこの私はその号令に素直に従うのだろうか ……、というような景色がチラチラと見えてはいたが、ブルジョア的合理主義はまだ "ism" にまで昇華されていなかった。
だが、試練に付き合わされたパパゲーノが、何ともあやふやなまま試練を終え、行く末が見えないまま放置されていることは大きな問題である。彼は出口を見失っている。むりやりどれかのドアを蹴破ってみたとして、その新しい世界で自分は受け入れられるのであろうか?
これはこの時、モーツァルトが抱いていた危機感そのものである。
ダ・ポンテはロンドン移住の後、世紀が改まってから渡米する。コロンビア大学のイタリア文学教授に就任し、『ドン・ジョバンニ』のアメリカ初演にも尽力したという。なんとかガンバッて持ちこたえたわけである。
だが、19世紀まで生き長らえることの出来なかったカザノヴァとボーマルシェは、この世紀に全世界的に形成された、ブルジョア的合理主義と禁欲的モラリズムによって、その業績と共に正史の裏側に追いやられてしまう。そして20世紀の我々は、彼らを、いかにも怪しげな「詐欺師」「異端者」としてのイメージでひとくくりにしてしまったわけである。
パパゲーノ、つまりモーツァルトは、その直前で危うく立ち止まっていたのである。
今回は「ブルジョア的合理主義と禁欲的モラリズムによって、怪しげな《詐欺師》《異端者》とひとくくりにされた人々」の例として、ロレンツォ・ダ・ポンテ、ジャコモ・カサノヴァ、カロン・ド・ボーマルシェ、の三人をあげた。これ以外にも触れておきたい人たちが多数いるのだが、これで打ち止めとしておく。それぞれに独自の面白さがあるのだが、論旨は同じことの繰り返しとなるし、ボーマルシェの場合で白状したように、それぞれの生涯が波瀾万丈に過ぎて要約が困難なのである。そして何より、私はその人たちの著作について余りにも知らなさすぎるからである。
書こうと思って少しばかり資料を集めていた人たちのリストを示しておく。興味を持たれるならぜひ調べてみていただきたい。
(仏)シュヴァリエ・デオン(Chevalier d'Eon,;1728~1810)
(仏)マルキ・ド・サド(Marquis de Sade;1740~1814)
(英)ウィリアム・トマス・ベックフォード(William Thomas Beckford;1760~1844)
(仏)ルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュスト(Louis Antoine Léon de Saint-Just;1767~1794)
このうち、モーツァルトと交流があったことが確認できるのは、ウィリアム・トマス・ベックフォード。ロンドンを訪問した八歳のモーツァルトが、まだ五歳ぐらいであったベックフォードの音楽家庭教師をしているのだ。ベックフォードは後年、フィガロの『もう飛ぶまいぞ、この蝶々』は私の作なのだが、モーツァルトが使わせてくれというので快く承諾した、とおおぼらを吹いている。
最後に、フェデリコ・フェリーニ『カサノバ』(1976)の予告編を観ていただきたい。
『カザノヴァ回想録』のエピソードをそのまま連結させた内容である。いかにもフェリーニらしい傑作であるが、『カザノヴァ回想録』に対する幾ばくかの予備知識がなければ鑑賞するのに困難があるかもしれない。我々における『忠臣蔵』がそうであるように、フェリーニは、鑑賞者がすでにカザノヴァの一生の概略を知っているという前提で、映画を撮っている。
冒頭、カーニヴァルの喧噪のなかで水中から引き上げられるのは、ギリシャ神話の女神モーナ(あるいは、モイラ)の頭像。モーナは人間に「割り当てられた」寿命・死・生命の象徴。それが再び水中に没するところで映画は終わる。つまりカザノヴァの生き方に、何らかの共感がなければ制作者の意図が見えてこないだろう。
出来れば、アマゾンの "Wiki" などで、この映画がどのような評価をされているのかを見ていただきたい。低い評価しか与えていない人は、たいてい「ブルジョア的合理主義と禁欲的モラリズム」の立場から断罪しているように思える。
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--【その11】了--
残された時間は短い。じっくりとモーツァルトを聴こう。Topへ