ゴジラは怖い。神の火を盗んだ我々を罰しに来るのだから怖い。
彼は繰り返し首都に向かい、権力の中枢を破壊しようとする。
これが意味するところを噛みしめるべきである。
『二十四の瞳』突如軍歌が出現する場面
『リンゴの唄』のレコード。SP盤。ペラペラの袋に入っていた。
『憧れのハワイ航路』映画ポスター
『青い山脈』下士官として出征していた池部良が高校生を演じている。
武満徹
リュシエンヌ・ボワイエ
『小学唱歌集初編』
『尋常小学唱歌(六)』
高野辰之
岡野貞一
『国家総動員法』の成立を報ずる『朝日新聞』
軍事教練
学徒動員
学童疎開のイラスト。『日本会議は』こういう絵を載せるべし。正直だね、と褒めてあげる。
『総力戦』の最も端的な表現
コロムビア・ローズという芸名に戦時中的いかがわしさを感じます。当時大阪のバス会社のガイドさんは「私は大阪のバスガール」と歌って、浪速オヤジからやんやの喝采を受けていた。
映画に出てくる安乗埼灯台に行ったことがあります。ほとんど「喜びも悲しみも幾歳月博物館」みたいになっていて楽しめます。主題歌は完全に軍歌調が復活しています。
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『日本会議』の正体を暴く その3 (平成27年 12月 15日)
『その2』では、映画『二十四の瞳』にでてくる唱歌を時系列に並べることで、『日本会議』の賛美する時代と思想こそ「日本的なるもの」を徹底的に抹殺した張本人である、という事実を確認した。もう一度おさらいしてみよう。
『二十四の瞳』では学校唱歌と欧州の民謡それに賛美歌などが次々と現れる。ところが二時間近く経過した時、とつぜん軍歌『日本陸軍』(天に代わりて不義を討つ …… )が出現する。出征兵士の壮行行列が歌っているのだが、それに字幕が重なる。
海の色も 山の姿も 昨日につゞく 今日であった
しかし そこに住む人々の 生活は ――
支那事変 日独伊防共協定
大きな歴史の 流れに 押し流されて いった
『支那事変』と『日独伊防共協定』は 1937年(昭和12年)の出来事である。それ以降 1945年(昭和20年)までの8年間は、軍歌の斉唱を連結することで表現される。
『露営の歌』(勝って来るぞと勇ましく …… )
『暁に祈る』(あぁ、あの顔であの声で …… )
『若鷲の歌』(若い血潮の予科練の …… )
それまで歌われていた学校唱歌の、叙情性、憧れ、小さき者への愛情、ユーモアの感覚、故郷や過ぎ去った過去への郷愁、など〈感受性に属するもの〉はすべて消滅してしまう。
そして終戦。玉音放送のバックには『庭の千草』。戦後になると『アニー・ローリー』『朧月夜』『蛍の光』『七つの子』『浜辺の唄』等が復活してバックに流れる。
今回はこの〈終戦後〉について考えてみる。映画では玉音放送の時点からバックに唱歌が復活してくるが、実際はどうだったのだろう。現実の日本社会では、戦争が終了したからといって、抹殺された〈感受性に属するもの〉がそんなにすんなりと取り戻されたのだろうか?
いや、そうではない。一度損傷を受けた感受性は、戦後長い時間が経過してもなかなか癒されることがなかった。特に『国家総動員法』の時代に思春期・青年期であった世代が受けた損傷は、並大抵のことで恢復されることはなかった。これが今回のテーマである。
そして最後に、『日本会議』が躍起なって否定しようとしている「日教組に支配された戦後教育」が戦後世代の精神に〈感受性に属するもの〉を蘇生させたこと、が明らかになる。つまり〈日本的なるもの〉の伝承を可能にしたのは「戦後レジーム」なのである。
戦後 流行した歌をピックアップしてみる
終戦後、どのような歌が流行したのか。この確認から入っていこう。
当時盛んに歌われた、あるいは放送で流されたというだけでなく、その後の世代まで〈その当時〉を彷彿とさせるものとして伝承されていった歌には、どのようなものがあるか。いくつか拾い上げてみる。
先ずは『リンゴの唄』だろう。一昔前まで、ドラマやドキュメンタリーなどで戦時中から戦後へ移り変わる場面では、判で押したように闇市の風景が映され、バックには『リンゴの唄』が流れた。観ている方も、それまでの息の詰まるような場面から解き放たれて、ホッとした気分になったものだ。
次は『憧れのハワイ航路』か。桂枝雀さんが「枕」で度々この歌を取り上げていたのが思いだされる。私は音痴で歌などまったく唄えないのですが『憧れのハワイ航路』だけは何故かきちんと唄えるです、と言っていた。「青亀の怖いトロロ」などと言い替えて、本題で笑いのネタにしていたこともある。枝雀さんは1939年の生まれだから、彼が9歳の時この歌がラジオから流れ出したことになる。
これに続くのが『青い山脈』。こちらは映画の方も古典として扱われたから、もっと後の世代の私でも幾つかのシーンを思い浮かべることができる。六人の若い男女が自転車に乗り、橋を渡り、街を抜け、土手の道から海岸へ向かう。そのバックに流れるのがこの歌だ。その後、有名な浜辺でのプロポーズのシーン(まるで民主主義宣言のような)へと続く。
この三曲がリリースされた年を確認しておく。
1946年(昭和21年) リンゴの唄(並木路子)
1948年(昭和23年) 憧れのハワイ航路(岡晴夫)
1949年(昭和24年) 青い山脈(藤山一郎 / 奈良光枝)
この三曲は、戦争の時代が終わったことの開放感がそのまま素直に表現された、素晴らしい曲である。それは間違いない。しかし、この三曲が、通常のヒット曲というレベルを超えて〈終戦直後の記念碑的な大ヒット曲となった〉のはなぜだろう。この三曲には何か共通する要素があるのだろうか。
手拍子を打ちながら、この三曲を続けて歌ってみると直ぐに分かる。すんなりと繋がるのだ。そう、この3曲はみんな行進曲の速度とリズムを持っている。
戦後の大ヒット曲はすべて、行進曲のリズムを持っている
戦後すぐに大流行した三つの歌はすべて行進曲のリズムで歌われる!
これは一体どういうことか?
視点を今一度、戦後から戦時中に戻してみよう。戦時中とは『軍歌』ばかり歌わされていた時代である。その軍歌のリズムとは何か。そう、こちらも典型的な行進曲なのだ。
今私はこの部分を書きながら、作曲家武満徹さんのエッセイを思いだしている。彼が繰り返し書き記しているエピソードだ。戦争末期、彼は学徒動員されていた陸軍の食糧基地で、すでに敗北を予想していた下士官から『聴かせてよ、愛のことばを』のレコードを聴かされる。現実とはまったく違う世界があった。あまりの素晴らしさに、彼は作曲家になりたいと思うのだ。
このリュシエンヌ・ボワイエが唄うシャンソンは、今ではとても有名で、”You Tube” でも ”Lucienne Boyer” と検索すれば簡単に聴くことできる。憧れに満ちた愛の唄。ゆっくりとしたワルツ(三拍子)。少し鼻に掛かった気怠い歌声。長く伸ばされる音符は甘美なビブラートで揺れ動く。まさに軍歌の対極にある音楽なのだ。
この下士官は「敵性音楽」のレコードを隠し持っていた。今で言うならオタクである。武満さんは、その作品が頻繁に演奏されることになる(良い意味で)例外的な現代音楽の作曲家となる人である。そんな二人だからこそ、軍歌しか歌われなかった時代に、その対極にある歌に感動することが可能であった。
一般庶民の場合はそう簡単にはいかなかっただろう、というのが私の考えである。時代は変わった。もう軍歌が強制されることはない。しかし人々は、愛の歌などという、まことに個人的な感興を唄うほどには〈感受性〉を取りもどしてはいなかった。だから、さあ、自由に歌え、と言われても、ストレスなく感情を旋律に同化させるには、今まで通りの行進曲のリズムに乗せなければならなかった。まだ〈私の感情〉が吐出できる段階ではなく〈みんなの希望〉をマーチのリズムに乗せて唄うのが現実的であった。これが私の考える、戦後に流行した歌はすべて行進曲のリズムで歌われること、の理由である。
『大東亜戦争』は『大日本帝国』の貴重な遺産さえ葬った
明治政府が文部省に『音楽取調掛(とりしらべがかり)』を設置するのは1879年(明治12年)のことである。その二年後に『小学唱歌集初編』が刊行される。誰もが知っている『蝶々』(蝶々
蝶々 菜の葉に止れ)はここが初出だという。それから約半世紀という時間をかけて、学校唱歌はゆっくりと豊富化されてゆく。『二十四の瞳』で何度も歌われる『朧月夜』『故郷(ふるさと)』(共に、詞;高野辰之、曲;岡野貞一)は1914年(大正3年)の『尋常小学唱歌(六)』に採用されたもの。もはや「教育用」などとは呼べない素晴らしい曲になっている。
思うに、この時代に子供の「情操教育」にこれほど熱心だった国家は、欧米においても類を見ないのではないか。文部省はまさに「殊勲甲」の働きをしていたのである。この「大日本帝国の」豊かな遺産を、『支那事変』以降の軍国主義はことごとく抹殺してしまう。
ちょっと、待て、と『日本会議』のシンパは言うかもしれない。確かに軍歌が隆盛を極めた時代であった。だが『尋常小学唱歌』が禁止されたわけではないぞ、唱歌はそれまで通り歌われていたはずだ、と。残念ながら、それはとんでもないウソである。詭弁である。
1938年(昭和13年)には『国家総動員法』が成立する。戦争は「総力戦」だと言われた。全ての産業、全ての市民生活が戦争のために改変を迫られる。戦争目的と直結しないものはことごとく「時局にそぐわない」として退けられた。循環してこそ産業と市民社会は成立するのに、その両方が戦争に向かったため、すべてが内部崩壊してしまう。それはあっという間の出来事だった。学校の授業なんて真っ先に成り立たなくなっている。
私の親の世代は、大正の末から昭和の初めの生まれである。誠に不幸なことに、この『国家総動員法』の時代に生徒であり学生であった人たちなのだ。私が聞かされた彼ら彼女らの思春期は、空腹と軍事教練と学徒動員と強制疎開の話ばかりである。学校でほとんど何も学んでいないのである。
よく「軍国主義の教育を受けた」という言い方をするが、それは正しくない。それがどのようなものであれ、教育自体が存在していなかったのだ。教練や苦役ばかりという過酷な日々が続く。いったい明日はどうなるのか、配属将校の空虚な檄からは何も伺い知ることはできない。そんな日常の繰り返しを、今は非常時だから、という軍国主義的説明で無理やり納得させられた、というのが正しい。これが「軍国主義」の実の姿である。軍歌で教育されたのではない。軍歌を歌うことが教育の代替だったのである。
『国家総動員法』は戦後にまで暗い影を落とす
高歌放吟の機会があっても、行進曲のリズムに乗るしか方法がないという悲しさは、その後も長く続く。さらに先の時代まで、大流行した歌をあげてみよう。
1951年(昭和26年) あこがれの郵便馬車(岡本敦郎)
1954年(昭和29年) 高原列車は行く(岡本敦郎)
1957年(昭和32年) 東京のバスガール(初代コロムビア・ローズ)
1957年(昭和32年) 喜びも悲しみも幾歳月(若山彰)
私は、行進曲のリズムがダメだ、と言っているのではない。〈感受性に属するもの〉が順調に復活し、多様な表現を取りもどして行ったのか、を問うているのである。
デビュー間もない美空ひばりや江利チエミが笠置シヅ子のブギウギを真似て、子供らしくない、と批判されたとか、「ロカビリー」を「日劇ウエスタンカーニバル」と言い替えなければならなかったとか、柳家金語楼が息子の山下敬二郎を「ロカビリー」歌手であるという理由で勘当したとか、身体の線にピッタリと添った細身のズボンが「マンボ・ズボン」と呼ばれたとか、時代は下るが野坂昭如が作詞した『おもちゃのチャチャチャ』が子供の歌らしくないと批判されたとか、気になる話がたくさんあるが、長くなるので立ち入らない。ただしこれらの、裏拍子を取る曲とか、細分化された拍子がシンコペーション(切分法)となるリズムなどが流行の兆しを見せると、不健全である、とう理由で排斥されてきたという事実を確認しておこう。
まことに私の親の世代は自由に歌うことができなかった。踊るなどとんでもないことだった。花見の宴であれ、結婚式の披露宴であれ、『黒田節』と『お富さん』を誰かが歌えば、あとはもう軍歌しかなかった。私が酒を飲むことを覚えた頃、彼らはまだ壮年であった。居酒屋などで、最初はおとなしく飲んでいた彼らは、酔いが回り始めると軍歌を歌いだした。未だに軍国主義なのかと、私たちは冷たい視線を向けたが、それは間違いだった。日常から解き放たれ肩から力が抜けるとき、自然と口をついて出るのは行進のリズムしかなかったのだ。パチンコ屋が『軍艦マーチ』で客を呼び込もうとしたのも、キリスト教会が日曜学校の案内に廻る時、賛美歌をマーチにして練り歩いたのも、同じ理由である。
戦後レジーム」こそ「日本らしさ」を再生させた
この一文を草するにあたって、私はDVDビデオを再生しながら唱歌の曲名をメモしていった。曲が始まるとすぐに付いて歌うことができ、次々と曲名を記すことができた。例外は四つの軍歌だけである。私が受けた音楽教育というのは中学校の授業で最終である。唱歌のすべてを習ったわけでもないのに、たいていは歌える歌として身についている。考えてみれば、これはなかなかすごいことだ。だが、これこそ、安倍晋三と『日本会議』が忌み嫌っている「日教組に支配された戦後教育」の賜(たまもの)ではないのか。
『日本会議』の賛美する時代と思想が崩壊させたものは「日本的なるもの」に止まらず、産業と市民社会の総体であった。一度崩壊させられた人々の感受性は、戦後もなかなか恢復できなかった。『日本会議』が忌み嫌っている「戦後レジーム」こそ、実はその恢復の主力であった。これらを確認して、いったん筆を置く。『日本会議』の批判はまだまだ続く。
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