ゴジラは怖い。神の火を盗んだ我々を罰しに来るのだから怖い。
彼は繰り返し首都に向かい、権力の中枢を破壊しようとする。
これが意味するところを噛みしめるべきである。
『ダイハード3』(1995)の冒頭、ニューヨーク市警察のジョン・マクレーン刑事(ブルース・ウィリス)は、爆弾テロの犯人に脅かされ、『黒ん坊は大嫌いだ』と大書したプラカードを掲げて黒人街ハーレムに立つことを強要される。(↑)
マクレーンは早とちりのチンピラどもに散々な目にあわされるのだが、これはおかしい、何か事情があるはずだ、と察した電機屋のゼウス(サミュエル・L・ジャクソン)に助けられる。(↓)
この映画は、このような露骨なヘイト表現はもはやジョークとしてしか存在していないことを、観客が認識していることを前提に作られている。確かにアメリカには根強い白人至上主義者もいるが、娯楽映画の制作者は、そのようなヘイト主義はもはや埒外に置いているのである。これが市民社会における民主主義の成熟の一例である。
我が国のヘイト主義者やヘイト主義を主導し容認する政治家どもは、『ダイハード3』を視ないのだろうか。視ても、面白い、と感じることができるのだろうか。論理的に言えば不可能なはずである。
タフで向こう見ずな刑事と言えば、サンフランシスコ市警のハリー・キャラハン(クリント・イーストウッド)を思い出す。キャラハンが颯爽と登場するのは1971年。サンフランシスコの坂道でカーチェイスし、トライアンフT100をぶっ飛ばす。所持する銃は、44マグナム。物質文明が疲弊する前の、耐久消費財に対する楽天的な嗜好が素直に表現されていた。
ダイハード第1作(1888)が、わざわざ西海岸のロスを舞台にしているのは、ダーティハリーに対するオマージュか。しかし、約20年後のタフガイは妻と別居中。ランニングシャツ一枚で汗みどろになって這いずりまわるのである。まことにご苦労様です。
民主主義の成熟といえば、最近『ヒトラーの忘れもの』という映画を観た。配給会社が変な邦題をつけるから誤解してしまうのだが、原題はズバリ『地雷』。秀作です。
第二次大戦の終盤、連合軍の上陸に備えてドイツは大陸の西海岸に地雷を埋めまくった。デンマークでは戦後、その地雷処理を捕虜となったドイツ兵にやらせる。それも少年兵に、である。捕虜の虐待ではないか、と思うのだが、ジュネーヴ条約が適用されるのは戦争の当事者間においてのみ、なんだそうな。デンマークはドイツに占領されていて、軍隊もドイツの指揮下にあったから、敗戦国内部の問題となるらしい。
全体の指示は占領軍であるイギリス人将校から出される。現場の指揮は被占領国デンマーク人軍曹。作業をするのはドイツの少年兵。爆死が頻発する。だが、少年たちは、この一角の除去が終われば故郷に帰れる、オレたちは必ず故郷に帰るんだ、と励ましあって作業におもむく。実話である。
こんな映画を、戦後70年たってから丁寧に作るのである。それも、デンマーク・ドイツの合作だよ。お前が悪い、いやお前の国が悪かった、なんて罵りあっていたら、こんな映画は出来ない。まさに民主主義の成熟が作り上げた映画である。
歴史を検証する行為を「自虐史観」などと馬鹿にする馬鹿がいるが、ここには自虐感など一切描かれていない。戦勝国であれ、敗戦国であれ、戦争の当時者はどのような場面に追い込まれるのかが、活写される。戦闘が終わっても、戦争は終わらないのだ。ほんの一筋ほどだけれど、人間性に対する信頼もきちんと描かれている。観る側も、いつの間にか少年兵の心と同化し、その一筋の人間性を希求している自分に気付かされる。
安倍や麻生や小池は、策略に興じる暇を少し割いて、このような映画の一本でも観るがいいのだ。まぁ、観たって、退屈して、途中で退席するだろうが。感想を聞かれたら、逆に聞き返すだろう、あの映画、結局、誰が悪者なんだね?
美濃部亮吉さん
青島幸男さん
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ヘイト発言、人間の倫理性に対する攻撃 その4
平成29年09月30日
人間の倫理性に対する攻撃、とはどういうことか
今年の3月、森友学園問題が盛んに報道されるようになったころ、この『ヘイト発言 - 人間の倫理性に対する攻撃』を書き始めた。この日本は、いったい何処まで堕ちてゆくのだろう …… 、名状しがたい焦燥感に追い立てられて、急遽このテーマに向かった。標題を「人間の倫理性に対する攻撃」としたのは、ヘイト発言を正しく批判するには、次の二つが最重要のテーマである、と考えたからである。
(1) ヘイト発言とは、「人間を人間たらしめている倫理性」を放棄することである。
他者に向かって侮蔑や憎悪の言葉を投げつけてはならない。このテーゼは、平易な言葉で表現されていて、誰もが簡単に口にすることが出来る。分かりやすく、ごくあたりまえの原初的モラルのように響く。だが、いざ我が身に置き換えて実行しようとすると、強固な意志力の持続が必要であることが分かる。冷静に自己の心に向かえば、他者に対する侮蔑や憎悪は、心の闇から次々と湧き出てくるのに気付かされる。道徳心や教養でいくら重装備しても、とうてい抑えきれるものではない。もしかすると、侮蔑や憎悪こそ「原初的」なものではないのか。思い出してみよう、思春期における自我の目覚めとは、他者に対する侮蔑と憎悪でビッシリと裏打ちされていなかったであろうか。だからこそ人間は倫理性を希求する。人間存在の根本的矛盾が倫理性を呼び覚ますのだ。これが、人間を人間たらしめている根本的原理である。ヘイト発言とは、この倫理性に向かう道を閉ざし、浄化の可能性を自ら放棄する行為なのである。
(2) ヘイト発言は、「社会的倫理性」を破壊する。
我々の住まう社会がある水準の「民度」を獲得しているとするなら、それは先人たちからの努力の積み重ねの結果である。最も適当な言葉を選べば、それは、戦後民主主義が、い時間をかけて実質を獲得してきた歴史である、と言える。民主主義が掲げる理念のもと、人々は、苦労に苦労を重ねて、やっとここまで「社会的倫理性」を育んできたのだ。ところが、ヘイト発言は、歴史を読み解く力を持たないから、この歴史的努力の積み重ねを「マジョリティーが生来的に持つ特性」とすり替える。そして、自分たちを「マジョリティーの側に属する人間」であると都合良く思い込む。つまり一神教における「選民」に擬(なぞら)えるわけだ。次に、攻撃の対象を「マイノリティー」と勝手に措定し、「マイノリティーの劣性」を憎悪と侮蔑で炙り出しにかかる。攻撃する相手は「非選民」であるから、いくら非人道的に振る舞っても、精神はいささかも痛痒を感じることがない。十字軍気取りで浮かれ、はしゃぎまくる。だが、マイノリティーを殴打するのと同時に、やっとここまで築き上げてきた「社会的倫理性」を破壊していることに、まったく気付かない。
この二点を丁寧に論じてゆこう、そうすれば、この稿の目的は達せられる、と、無邪気に考えていた。だが、私の考えは甘かったようである。
国家権力によるヘイト主導 と ゾンビ化するヘイト集団
この稿を中断して『「教育勅語なぜ悪い?」論は、なぜ悪い?』を書いているあいだに、時代は急激に悪い方向へと傾斜した。ヘイト発言・ヘイトスピーチが、異常なまでに増殖しているのである。憎悪・侮蔑の表現という域を超え、肥大化し、物理的な力を持ち始めている。暴力行使の願望さえ隠そうとはしなくなった。
2ちゃんねるはもとより、テレビのニュース・ショウ、政治家の発言、等々、何から何まで、ヘイトスピーチ化している。日々新たな獲物をお白州を引きずりだし、寄って集って、叩きまくる。それがヘイトであるという自覚もなく、浮かれている。まさにハルマゲドン的狂躁である。
ゆえ、この稿も、上記2項目を論じて終わり、というわけにはいかなくなった。追加すべきは多々あるが、最低でも次の2項目をテーマに追加せねばならない。
(3) ヘイトは、国家権力が先導している。
現代日本における最大の危機とは、実質経済の崩壊と国民全体の貧困化、である。これ以外にも危機は多々存在するが、一点に絞るとなると、これ以外にはないだろう。貧困に堕ちれば、人々は出口の見えぬ焦燥感にさいなまされる。人心は荒廃、無礼・不作法が横行し、不幸な出来事や犯罪が続発するようになる。もし『国難』を言うのなら、これを指摘すべきであろう。
この時、貧困層(と言っても、大多数が貧困化の過程に落ち込むのであるが)の怨嗟の矛先が支配構造に向かわぬよう、国の内外に仮想敵を捏造し、憎悪が仮想敵に向かうように仕組むのが、国家権力の常套手段である。歴史を振り返れば、もう何度繰り返されてきたかもしれぬ愚行である。しかし、薬物で幻影に逃避するのと同様、この国家的愚行は、国家自身の破滅によってしか終了させることの出来ない愚行である。
元総理・現副総理の麻生太郎は、繰り返し「武装難民が日本に上陸する」論を繰り返す。先日もある講演で、朝鮮半島から大量の難民が日本に押し寄せる可能性に触れ、それは「武装難民かもしれない。警察で対応するのか。自衛隊、防衛出動か。射殺ですか。真剣に考えなければならない」と語った。「暴力行使の願望を隠さないヘイト」の典型である。
これに呼応するかのように、元総理・現総理の安倍晋三は、衆議院解散にあたって「この解散は『国難突破解散』であります。急速に進む少子高齢化を克服し、我が国の未来を開く。北朝鮮の脅威に対して国民の命と平和な暮らしを守り抜く」、と述べている。何のことは無い、子供を産まぬ女と、数ばかり多い年寄りと、北朝鮮を、三つ並べて「国難の元」であると指摘しているのである。これは擬装である。「国の内外に仮想敵を捏造」の典型である。
(4) ヘイトは、政治家が多数派に属するための「一致点」となっている。
政党が政策集団であることを止めて久しい。同様に、個々の政治家も政治理念で行動することはなくなった。いまや、政治家たちの行動原理は、いかにして主流派の側に属するか、という一点にしか存在しない。だから政治情勢が流動的局面を迎えると、とたんに離合集散の動きが活発化する。まさに今がそれでしょう。現政権の主流派とは距離を置いている元総理小泉純一郎は、「もうこうなったら政治理念なんかは関係ない、昨日の敵は今日の友、昨日の友は今日の敵となる」と、今の状況を冷静に分析している。
「政経塾」由来の議員が多くなったことが、この傾向に拍車をかける。遠い昔の松下村塾にイメージだけ借りてみたところで、今の政経塾なんて、官庁や企業ではまともに勤まらなくて、そのくせ自意識と権力志向だけは旺盛な、「無能力」かつ「傲慢さ」の積集合といったニートたちが、行き場がなくて政治ゴロ化した、そんな連中の集まりじゃないか。「維新なんとか」、「なんとかファースト」、に押し寄せる連中の、顔ぶれを見てごらん。先日も小池政経塾なるものの講義風景が報道されていたが、そのテキストたるや「パワーポイントを使って一夜漬けで格好つけました感」がプンプン臭っていた。テキストを手に持った、テレビのレポーターの弁が振るっている。曰く、前回のセミナーより厚くなってます! だって。
そんな彼らが、自分が現政権に対する反逆者ではなく、主流派志向の政治家であることの、身分証明として開示するのが、ヘイトである。私は、サヨクではありません、反日でもありません、美しい日本の信奉者です、その証拠に反日を叩いてみせます、サヨクも叩いてみせます、それで不足なら在日だって叩いてみせます、だから私を撃たないで、私のブログを炎上させないで、と叫びながら、マジョリティーの群れに分け入り、マジョリティーの輪の中に踏みとどまろうとするのである。その最たるものが、「誇りある日本」の『日本会議』への、雪崩をうつがごとき集結である。
前置きが長くなった。上記の4項目、まとめて具体例で検証していこう。
お待たせしました。小池百合子さん、ご登場願います。パンパカ・パーン!
小池百合子における、ヘイトの研究 − その1
(朝日新聞 DIGITAL 2017年9月2日)
94年前に関東大震災が起きた1日、東京都墨田区で犠牲者を悼む複数の行事があり、このうち虐殺された朝鮮人らの追悼式に、小池百合子都知事は追悼文を送らなかった。昨年と対応を変えたことについて、小池氏は「別の行事で全ての方を追悼した」との説明を繰り返し、虐殺があったかどうかも明言しなかった。
1日午後の定例記者会見で、小池氏は虐殺の犠牲者への追悼文をやめた理由を改めて問われた。午前中にあった都慰霊協会主催の慰霊法要に追悼文を寄せたことを挙げ、「犠牲になられた全ての方々に哀悼の意を表した」と説明。虐殺の犠牲者に対する特別な追悼をやめるという従来の説明を繰り返した。
犠牲になられた全ての方々に哀悼の意を表した、という「説明」を聞いて、ああ、そうですか、と納得できる人はいないだろう。関東大震災という『天災による犠牲者』と、虐殺という『人の手による犠牲者』とを、一絡げにして「犠牲になられた全ての方々」などと括りなおすことはできない。子供でも分かる。それが常識的な感覚である。
東京都知事という公人が、記者会見という公的な場で、公務に於いて下した判断の根拠を問われた。いわば、東京都としての、公式的な歴史認識を問われたわけである。しかるに、最も常識的であらねばならぬ場面で、知事は、突如、この常識的感覚を喪失させた。いや、意識的に、常識的感覚を喪失した風を装って曖昧さの煙幕を張り、その中に逃げ込んだのである。
幾つかの新聞記事を参照すると、東京都が追悼文を寄せるのは、1970年代から始まっているらしい。2006年以降では、石原、猪瀬、舛添、の各知事も毎年追悼文を出している。もう半世紀ちかく継続されてきた慣例なのだ。追悼文の送付は、東京都の公式的歴史認識の持続的表明として定着している。官庁が民主主義的手続きを実装している、という事実は、とても尊い。それを、あえて停止させる。その理由を、「犠牲になられた全ての方々に哀悼の意」などという、言葉の曖昧さで誤魔化して良いのか?
これが小池百合子の仇敵森喜朗や、その同質的後輩麻生太郎のように、普段から言葉づかいにとことん鈍感で、失言・放言を繰り返しても、おっさん、またかよ、で済ませられる御仁ならまだしも、もともとアラビア語の通訳であり、女性テレビ・キャスターの草分け的存在となり、『トルコ風呂』という呼び名はけしからんと時の厚生大臣に直談判してこれを廃止させ、女性を「子供を産む機械」に例えた労働大臣に対し「イスラムの国よりも、日本における男性の、女性に対する見方は遅れてる」と言ってのけ、最近では、日本語の語彙で問題なく語れるはずの概念を、わざわざ英和辞典でアスタリスク(*)が一つ付いている水準の英単語に置き換えて喋るなど、言葉に対して敏感であることを武器として力を得てきたはずの小池百合子がそれをやるのは、とても不自然である。
さすがに記者団たちも黙っていなかったようだ。「従来の説明」とあるように、それより以前に何度も記者会見での応答があったようである。少し前の記事を見てみよう。
小池百合子における、ヘイトの研究 − その2
(朝日新聞 DIGITAL 2017年8月25日)
会見で「虐殺の犠牲者は天災による犠牲とは違う」との主催者側の主張への考えを問われると、小池氏は「切り口は異なっているかと思うが、不幸な死を遂げた方に対する慰霊をする気持ちは変わらない。知事として全ての方に哀悼の意を表することは大変意味の深いことだ」と述べた。「民族差別という観点より、災害の被害、様々な被害で亡くなった方々への慰霊をしていくべきだ」とも話し、虐殺犠牲者を特別視しない考えを示した。追悼文の送付中止が虐殺行為の否定を意味するとの批判があることについては「様々な歴史的な認識があろうかと思う」などと述べるにとどめた。
おやおや、『犠牲者』が『不幸な死を遂げた方』に置き換わっているだけじゃないか。歴史的事実の具体性を、曖昧な言葉で「一絡げ」にして不可視化する、という手口は同じである。「追悼文の送付中止が虐殺行為の否定を意味するとの批判がある」という問いに「様々な歴史的な認識があろうかと思う」と逃げるなら、「それじゃ、貴方の歴史的な認識はどうなのか」と再度問われて当然である。だが、記者団もそこまでは追求しなかった。その代わり、のつもりなのだろうか、少しトーン・ダウンさせて、去年は追悼文を寄せているではないか、と迫ったようである。
(同上)
石原慎太郎・元都知事は追悼文を寄せており、その後、都知事になった猪瀬直樹氏、舛添要一氏も送付していた。小池氏も昨年はそれにならい、「わが国の歴史の中でもまれに見る、誠に痛ましい出来事」などとする追悼文を送った。対応を変えた理由については「昨年は慣例的に事務的に(主催者に追悼文を)戻していた」と説明し、今回は自ら判断したとした。都によると、昨年の追悼文は担当の都建設局が作ったが、小池氏本人は読んでいなかったという。
例によって、去年の場合は「私は内容までは関知していない、事務方が処理した」と、常套的な逃げを打っている。首長の仕事とは、高度な判断業務にある。何百と上がってくる書類の全てに目を通せるわけがないだろう。どんな役場だって、会社だって、同じことだ。私のほうに重大な瑕疵は無い。
小池はこれで済みだ、と思っている。だが、はたしてそうだろうか?
私は、「事務方が慣例にしたがって追悼文を出した、この事にこそ民主主義の成熟ある」と考える。小池が偏愛する「*ひとつ」を使えば、「レジェンド」だか、「レガシー」だか、に相当するはずだ。
追悼文の送付は 1970年代から始まっている、という。ならば、社共共闘で成立した美濃部亮吉革新都政の時代にその端緒があった、と考えて間違いないだろう。美濃部さんなら、きっと、追悼文を届けてくれる。主催者はそう考え、都庁に依頼を出し、依頼通りの結果がえられた。東京都知事から初めて届いた追悼文。それが読み上げられる式典の様子は、いったいどんな風だったのだろう。私などは、ついつい、そんな想像をしてしまう。青島幸男さんの時も、彼の手元まで書類が上がっていたとするなら快諾したことだろう。彼のことだ、型ぐるしくなりがちな文章を、ちょっと柔らかく手直ししたかもしれない。石原慎太郎の場合は、滅多と登庁せず、実務は現場に任せっきりだったというから、事務方が「慣例どおり処理した」のだ、と勝手に想像する。
しかし、それで良いのだ。追悼文の依頼にどう応ずるかに、首長や管理者があれこれと頭を悩ます必要があるとするなら、民主主義はまだ「理念」の段階にある。それが、当然のこととして、事務的に処理されるようになっているなら、役所の実務レベルにまで民主主義が実装されたということであり、これこそ民主主義の成熟である、と言える。
やっとここまでこぎ着けた民主主義の成熟を、小池は「自らの判断で」いとも簡単に破壊した。
追悼式の主催者、参列者を侮蔑した。
再び、在日朝鮮人、在日韓国人を侮蔑した。
民主主義の到達点を侮蔑した。
そして、ごく普通の日本人(例えば、私である)を侮蔑した。
おぞましいまでのヘイトである。
小池はおそらく気にもかけていないだろう。
では、一体、何に気をとられているのか。
上に述べた侮蔑の総体と天秤にかけ、それより気をとられる事とは、一体、何か。
別の新聞記事に、ハッキリとその正体が書かれている。
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−−【その4】了−− ヘイト発言、人間の倫理性に対する攻撃 目次へ