ゴジラは怖い。神の火を盗んだ我々を罰しに来るのだから怖い。
彼は繰り返し首都に向かい、権力の中枢を破壊しようとする。
これが意味するところを噛みしめるべきである。
衆院選の自民党ポスター
あれっ、変な色になっちゃったわ。
奴らのホームページにあった写真をコピペしただけなんだけれど、変だなー?
前々回のポスターはこれ。
あれれっ、また。
パソコンが意識を持ち始めたのだろうか? あの"HAL"のように。
コンナ絵柄ヲ複写スルコトハ、ミッションニハ含マレテイマセン、ピー。
米国のジューン・ハーネストさんと言う学者が制作した「スージーとフレッド人形」。これが教材として使われていた。
石原三バカ烏は、この人形を手にして「こういう教材を使うのをおかしいと思わないのか」「感覚がまひしている」とののしったのである。
擁護学校の教育現場で「感覚がまひ」なんて大声で怒鳴るなんて、よほど「感覚がまひ」してないと出来ないだろう。
こんな風に教材が置かれていた。
産経新聞はこれを「まるでアダルトショップのよう」と表現した。
でも「アダルトショップ」って、なんのこと? よく分からん。バス料金の表示などに「アダルト」と書いてることがあるが。
石原慎太郎『太陽の季節』
さっそく映画化された。
この映画は、映画の出来映えよりも、これで共演したことで、長門裕之さん南田洋子さんというカップルが成立したことによって記憶される。
石原兄弟も出演してます。
石原裕次郎と小林旭を「太陽族スター」として売り出す路線を決めた日活は、さっそく『幕末太陽傳』の制作を指示。
しかし川島雄三監督が作ったのは、とんでもないコメディだった。『居残り佐平次』『品川心中』『三枚起請』『お見立て』などの落語のパロディ。喋りまくり、動きまくる、フランキー堺の見事なこと。
石原裕次郎・小林旭は「いい役」をもらっているが、大根役者ぶりが、そのままコメディ。
傑作である。
土屋たかゆきの『わが闘争』
「こういう標題を使うのをおかしいと思わないのか」「感覚がまひしている」と言われなかったのだろうか。
在特会デモの先頭を行く古賀俊昭。
右端の黒服。
左の白シャツは瀬戸弘幸。
日本型レイシストの標本みたいな爺ィ。
H・H・エリス
むかし確か平凡社だったと記憶するのだが、全12巻ぐらいの現代思想アンソロジーがあった。そのなかの一巻にフロイドの『精神分析入門』などと共に、この『性の心理』の抄訳が収められていた。
オナニー? イィじゃない、どんどんやんなさい。
同性愛? イィじゃない、どんどんやんなさい。
こんな風に、性と生を積極的に肯定する思想だから権力から迫害を受けた。女性にとても優しい人で、彼の奥さんとなった人は同性愛者だったのだが、エリスと結婚して異性を愛することもできるようになった。男の甲斐性とはこういうことを言う。
ヴィルヘルム・ライヒ
むかし友人のまた友人にライヒの熱心な読者がいて、何度か『ファシズムの大衆心理』の部分訳を貰ったことがある。
性的抑圧を受けている個人が、集団化することで抑圧を脱し、サディスティックな表現行動を行う。これが、ファシズムである。
そのまま、今の日本に当てはまるじゃないか。
『思春期のためのラブ&ボディBOOK』
山谷えり子はこれを国会に持ち込んだ。
山谷えり子のヘイト主義者ぶり、レイシストぶりは、並み居る反動政治家どもの中でも群を抜いている。
山谷に比べると、稲田朋美なんぞは子供に見えてしまう。
在特会幹部との仲良しスナップも、選択に困るぐらいたくさんある。
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ヘイト発言、人間の倫理性に対する攻撃 その6
平成29年10月20日
権力中枢は、ヘイト主義と、相互補完関係を形成する。
たった一握りのヘイト主義者たちが、歴史の結節点において、時代を反動化させる因子として働く。保守本流はヘイト主義を梃子にして歴史を逆行させる。まさに今、それを絵解きするかのような事態が進行している。
『国難突破解散』という言葉には驚かされたが、続いて出てきた選挙スローガンが『この国を、守り抜く。』なのである。まるで大戦前夜のラジヲ放送じゃないか。
「守り抜く …… 」、だって?
一体、誰が、「この国」を、攻撃すると言うのか?
確かに、ときおり北朝鮮のロケットが「3500キロメートル超」(防衛省発表)の上空を通過したりするが、それは、軍事力の誇示以外に何の外交手段も持たなくなった独裁国家の虚仮威しでしかないことを、誰もが承知している。だから、今日も、市場では競りが始まり、コンバインが稲刈りをし、子供たちは学校に向かい、勤め人は満員電車に乗り込み、高速道路をトラックが疾走する。電力会社が原発を停止させることはないし、政治家どもは解散・総選挙にうつつを抜かす。危機管理ゴッコは一時中断、タンマ、というわけか。
選挙スローガンとは、政党・政策集団の「政策」を凝縮させたものであったはずなのに、以前の『日本を、取り戻す。』といい、今回の『この国を、守り抜く。』といい、政策的意味合いは一切含まれていない。危機を煽り立てるアジテーションという要素の他は、すべて捨象されている。突然こんなスローガンを突きつけられても鼻白むばかりなのだが、無自覚な精神がこれを意味ある言葉として誤認するのは、「国内・国外の反日勢力という概念」を予め刷り込まれているからである。この「反日概念」の発信・波及・浸透に尽力するのがヘイト主義者たちである。
ヘイト主義者が「反日」という「仮想敵」を煽り立て、保守本流は「反日の超克」を謳って支持を得る。政治の世界では、いつの間にか、こんなサイクルが循環するようになった。各政党が『マニフェスト』の精緻さを競い合っていたのは、そう遠い過去の事ではないのに。
国家権力の中枢がヘイト主義を容認する。いや、自らが露骨には表現できぬ「本音」を、ヘイト主義が代弁してくれることを歓迎し、ヘイト主義者たちを積極的に庇護する。ヘイトは、庇護されているから、どんな支離滅裂な戯言でも公の場で通用するかのように現象する。古賀俊昭らのヘイト主義者は、それを、自分たちの力量であると錯覚し、快感を覚え、何度も、何度も、ヘイトを繰り返す。そして、保守本流が歴史を逆行させることに、二度、三度、道を拓くのである。
2003年『七生養護学校事件』
2003年に起きた『七生養護学校事件』を覚えておられるだろうか。
東京都議会とマスコミ、さらには国政レベルまでもが、寄って集って、地道な障害者教育に介入した。それは擁護学校の教育現場に対する異様なまでのバッシングであった。
ネットで検索すると様々な記事に出会うのだが、ここでは『日野市民法律事務所』さんのホームページにある、ブックレット紹介『七生養護の教育を壊さないで』から、その前半部分を引用させていただく。2004年に書かれた文章である。
日野市の南部、多摩市との境に近い日野市程久保に障害児学校、都立七生養護学校があります。
この学校で行われてきた性教育「こころとからだの学習」について東京都議会で土屋議員が質問で「行きすぎた性教育」とヤリ玉に挙げたのが昨年の7月2日、これに対し都知事、教育長がすかさず「あきれ果てる」「不適切」と答弁したのがことの始まりでした。
7月4日には都議、市議などと都教委が産経新聞記者を同行して七生養護学校に乗り込み犯罪捜査のような調査を行い、翌日の産経新聞で「過激性教育」、「あまりに非常識」と書きたてたのです。
その後も「まるでアダルトショップのよう」などといった宣伝がされるなか、都教委は性教育教材などのあらゆる資料を「没収」したのです。そして教員や前校長など学校関係者116名を処分するとともに「学校経営アドバイザー」なる者を配置したのです。 (以下略)
http://www.hinolaw.jp/info4/backno/cross1.htm
文中に「土屋議員」とあることで想像できるように、7月4日に七生擁護学校に乗り込んだ都議とは、前回述べた『石原三羽烏』なんですね。念のため、三人の氏名を確認しておきます。
自民党 古賀俊昭
自民党 田代博嗣
民主党 土屋敬之
この文章は温和に控えめに書かれているが、ウィキペディアの『七生養護学校事件』は、もう少しリアルに経過を再現している。
7月4日に七生養護学校を視察した土屋、自民党の古賀俊昭と田代博嗣の都議3名が授業内容につき「常識では考えられない」「不適切」としたうえで、養護教諭に対して「こういう教材を使うのをおかしいと思わないのか」「感覚がまひしている」と強く非難。さらに、田代が無断で資料を持ち去ろうとしたのを止められた際に「何を持っていくかは、俺達が責任をもって持って行くんだから、馬鹿なことをいうな! 俺たちは国税と同じだ。1円までも暴いてやるからな。生意気なことを言うな!このわけのわからない2人(養護教諭)は(学校から)出て行ってもらってもいいんだ」と発言(訴訟における原告側準備書面より)。この視察を受けて、7月23日には土屋が代表、古賀・田代の2名が副代表を務める「日本の家庭を守る地方議員の会」が都議会議事堂において「不適切な性教育教材展示会」を開催した。
この、古賀・田代・土屋の三人組、特高刑事のごとく振る舞うことに快感を覚えている、としか思えない。一人では何も行動できないくせに、三人揃うと居丈高になる。ヘタレ個人がイジメ集団化する典型である。『三羽(バ)烏』だと? 笑わせるな、『三馬鹿(バカ)烏』と言いかえろ。
古賀俊昭らの正体は、○○である。
ネット検索すれば、学校で使われていた「教材」は、その幾つかを確認することができる。今日的な感覚からするならごく当たり前のものである。もし私が教育する立場にいたとするなら、おそらく同じような教材を作ったであろう、と思わせる。その手作り感はユーモラスでもある。
これらを「こういう教材を使うのをおかしいと思わないのか」「感覚がまひしている」と強く非難、するには余程ねじ曲がった品性が必要だろう。
どのような品性か?
特高刑事のように振る舞えば快感を得ることと併せ考えれば、答えは明白だ。
『変態』である。
教材とは教育の一つのツールに過ぎない。授業が成立するためには、その前に、教師と児童・生徒の間に信頼関係が形成されていなければならない。次に、これを教えたい、これが分かって欲しいという、教師の意志力の充実がなければならない。いやそれ以前に、児童・生徒が安心して教室にいて勉学に集中できる教育環境が実現していなければならない。このような社会的諸関係を前提として、教師と児童・生徒は心地よい緊張感を保って相対するのである。
しかるに、古賀・田代・土屋の『三バカ烏』は、このような教育が成立している関係性を一切捨象して、教材だけを注視する。教材に性器が描かれていることだけに反応する。どのような映像的表現を観ても、陰毛・陰部が映っているかどうかの判定だけに関心を向ける、心貧しき人たちがいるが、これと同じである。
これが『変態』でなくして何であろう?
そんなに、チンコ、マンコ、が描かれていることだけに執着し、激怒することが出来るのなら、学校で教材を押収した後、返す刀で、新潮社と紀伊國屋書店に押しかけ、御大石原慎太郎の芥川賞受賞作を差し押さえるべきだっただろう。
風呂から出て体一杯に水を浴びながら竜哉は、この時始めて英子に対する心を決めた。裸の上半身にタオルをかけ、離れに上ると彼は障子の外から声を掛けた。
「英子さん」
部屋の英子がこちらを向いた気配に、彼は勃○した陰○を外から障子に突きたてた。障子は乾いた音をたてて破れ、それを見た英子は読んでいた本を力一杯障子にぶつけたのだ。本は見事、的に当って畳に落ちた。
その瞬間、竜哉は体中が引き締まるような快感を感じた。彼は今、リングで感じるあのギラギラした、抵抗される人間の喜びを味わったのだ。
彼はそのまま障子を明けて中に入った。
石原慎太郎『太陽の季節』より
もう半世紀以上も前の小説だから不問に付す、のだろうか。それはないだろう、2012年に石原が立ち上げた政党は『太陽の党』だった。明らかに『太陽の季節』のイメージと語感をそのまま使っている。石原自身も忘れてはいない。まだ利用価値がある、と思っているのだ。
あっちがダメで、こっちがイイ、のは何故なんだ?
因みに、「勃○した陰○」と伏せ字にしたのに他意は無い、ネット上で見つけたテキストをそのままコピペしただけである。伏せ字のママのほうが、より卑猥感が増してイイじゃないか。
土屋が代表、古賀・田代の2名が副代表を務める「日本の家庭を守る地方議員の会」が都議会議事堂において「不適切な性教育教材展示会」を開催した、に至っては、はしゃぎまくって遊んでいる、としか論評できない。この、ファシズムごっこ、とでも呼ぶべきノリは、彼らに共通のようで、土屋が書いている本は『土屋たかゆきの わが闘争 日本を貶める者どもへの宣戦布告』と題されている。ヘイト主義者は自分を男前だと錯覚する、という当サイトが発見した法則通り、土屋が演説する姿が表紙になっているが、弱者イジメを繰り返していい気なもんだ。それにしても、こんな標題で浮かれている神経が分からない。炎上ネタ、でしかないだろうが。
(本家) アドルフ・ヒトラーの『わが闘争』 ドイツを貶めるユダヤ人どもへの宣戦布告
(亜流) 土屋たかゆきの『わが闘争』 日本を貶める者どもへの 宣戦布告
『擁護』学校だったからこそ、標的にされた。
もう少し、古賀俊昭らヘイト主義者の『変態』について考察してみる。
ヘイト主義者たちの、おぞましい心の奥底が見透せるはずである。
2003年と言えばもう15年も前のことになるが、どうか記憶を掘り起こしていただきたい。当時の世相一般、とくに性と性教育にたいする一般的認識がどの程度まで進んでいたか、を思い出していただきたい。その中に、七生養護学校における「こころとからだの学習」という取り組みを配置してみる。いかがでしょうか? 2003年という時点に於いて、七生養護学校における教育の取り組みが、それほど突出したものであったでしょうか? もちろん、否、ですね。七生養護学校における教育は、ごく当たり前の、行われて然るべきものであったように思える。
私が教育を受ける立場だったころ(1960年代初頭)でも、性教育とは生物学・生理学の問題ではなく、すぐれて社会学的の課題である、という認識が一般化していた。オシベとメシベの喩え話など、すでに過去の滑稽なカリカチュアであった。
1970年が近くなると、H・H・エリスの『性の心理』とか、ヴィルヘルム・ライヒの『セクシュアル・レボリューション』とかの抄訳が至るところで引用され、「性の解放」と「感覚・感性の解放」が、同時並行で論じられるようになる。
『エイズの世界的流行』が報じられたのは、1980年代半ばであった。当初こそ恐怖と偏見と好奇心が入り交じった情報が飛び交ったが、性行為一般における衛生とモラルの問題である、という常識に落ち着くのにそれほど時間はかからなかった。オリンピックの選手村には大量のコンドームが日本のオフィシアル・スポンサーから供給されている、といった話が伝わっても、人々はさほど驚くこともなくなった。性とか性教育の問題は、観念的な自己解放の時代をくぐり抜け、地に着いたものになったのである。
そして世紀が変わる。この時、すでに、児童・生徒への性教育という取り組みは、全国の何処をとっても、相当の実績があったように思える。と言うより、すでに一般化していたのではなかったか。ざっと概括したように、性教育に対する啓蒙時代のぎこちなさは、とっくに過去のことになっていたはずだ。
では、なぜ、七生養護学校の「こころとからだの学習」だけが炙り出され、『事件』にまで増殖し、世間の耳目を引くことになったのか?
「標的にされた」、のではなかったか?
では、、なぜ、他のどんな学校でもなく、七生養護学校だったのか?
それは、七生養護学校が「擁護」学校である、という点に関わっているのではないか?
おぞましいまでの差別意識
2002年頃と言えば、性教育とジェンダーフリー教育に対して、保守・反動勢力からの猛烈なバックラッシュ(Backlash)が起こった時である。時系列にまとめてみよう。
● 2002年頃
この頃から、雑誌『正論』が「過激な性教育・ジェンダーフリー教育」を問題視し始める。
● 2002年6月
国会において、衆議院議員山谷えり子(当時民主党)が、公益財団法人『母子衛生研究会』が作成した『思春期のためのラブ&ボディBOOK』を「とんでもない性教育の冊子」と糾弾し、配布の中止を求める。
● 2003年2月
産経新聞が「性教育 児童に過激な内容は慎め」という社説を掲載。
●2003年7月2日
東京都議会において、土屋敬之(当時民主党)は、七生養護学校の授業内容を「世間の常識とかけ離れた教育だ」と述べ、都教委に「毅然とした対処」を要求。
知事石原慎太郎は「異常な信念を持って、異常な指示をする先生というのは、どこかで大きな勘違いをしている」と答弁。
●2003年7月4日
古賀・田代・土屋の『石原三バカ烏』が、産経新聞の記者を引き連れ、七生養護学校に乗り込み、事件を起こす。
● 2005年1月
自民党、「過激な性教育・ジェンダーフリー教育実態調査プロジェクトチーム」を発足させる。座長は安倍晋三。事務局長山谷えり子。全国調査を行い約3500の事例を集め、「過激な」性教育が行われるなど教育現場が「異常な状態」になっていると訴えるキャンペーンを展開。
こんな風に並べてみると、産経新聞に世論誘導をさせながら、山谷えり子、石原慎太郎、安倍晋三と続く、反動ヘイト主義の先導者たちが、こぞって「過激な性教育」と「過激なジェンダーフリー教育」の炙り出しにかかっているという経過が見てとれる。古賀・田代・土屋の『石原三バカ烏』は、その足軽・雑兵として動いている。本人たちは、親衛隊を気取って、調子に乗っているのだろうが。
この経過をよく視ていただきたい。七生養護学校の「こころとからだの学習」よりずっと以前から、「過激な性教育」と「過激なジェンダーフリー教育」はあった、のである。すでにジワジワと増殖していたのである。それに山谷や石原や安倍は危機を感じた。なぜなら、人間の全人格的成長、感覚と欲望の解放は、反動ヘイト主義とは相容れないから、である。
しかし、「過激な性教育」と「過激なジェンダーフリー教育」は、教育現場の地道な活動として取り組まれており、実績があり、賛同も勝ち得ている。それを総体として叩くことは出来ない。そこで、反動ヘイト主義者たちは姑息な手段を考える。
敵の『鎖の最も弱い環』を叩く。
これが、七生養護学校が標的とされた理由、である。
反動ヘイト主義者たちは、「過激な性教育」と「過激なジェンダーフリー教育」を糾弾する。だが、その代わりに、一体何を持ち出してくるのか? 「穏やかで節度ある性教育?」とか「穏やかで節度あるジェンダーフリー教育?」なんだろうか? だが、その実践的プロセスには、さっぱりお目に掛かったことはない。そんなもの、馬鹿らしくて、だれも取り組まないのだろう。反動ヘイト主義たちは、「過激さ」を理由に人々の営為を台無しにするが、自らは何一つとして創造する能力を持たないのだ。
そこで反動ヘイト主義たちは、万人受けするかに見える「常識的な節度」に寄り添うことで支持を得ようとする。だが、常識を標榜する輩が常識的であった試しはないのだ。彼らの常識は、「障害者も健常者と同じ人間であり、健常者と同じ心を持ち、したがって健常者と同じ欲望を持つ」という常識を、絶対に認めない。もっと有り体に言えば、障害者は健常者と同じ性欲を持ってはならない、というおぞましいまでの差別意識を、意識の底に隠し持っているのである。
要するに、障害者の人格を認めていない。
だからこそ、障害者教育における性教育を平気で標的にできた、のだ。
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