ゴジラは怖い。神の火を盗んだ我々を罰しに来るのだから怖い。
彼は繰り返し首都に向かい、権力の中枢を破壊しようとする。
これが意味するところを噛みしめるべきである。
『成人通過儀礼』で検索すれば、興味深い写真がたくさん出てくる。
まずは、南太平洋バヌアツ
元祖バンジー・ジャンプのナゴール
地面のギリギリまで落下すれば、それだけ勇気があるとみなされる。
高所といえば、メキシコはベラクルス州のこれ
30メートルの高さで、13回ぐるぐると回されるのだそうな
現在では、観光のショーになっているとか。
エチオピアのハマル族
牛飛びの儀式
体に牛糞をぬり、10頭並べた牛の上を飛び跳ねる。
ケニアのマサイ族
ライオンと戦って仕留めて大人の仲間入り
ライオン保護のため、現在では禁止されている。
南アフリカ・コサ族の儀礼はとても痛そう。
コサの若者が大人の男と認められるためには通過儀礼を受けなくてはならない。数世紀前から続く割礼の儀式はウルワルコ(ulwaluko)と言い、南アフリカ共和国東ケープ州の村落から離れた場所で行われる。伝統の毛布を腰に巻き、身を清めるため白い粘土を全身に塗る。病院で施術すれば感染症などの危険性は低くなるが、多くの若者がこの伝統的な方法を選ぶという。
Photograph by James Nachtwey
National Geographic
さて、昔の日本である。
奈良時代の『元服』のイメージ
平安時代の『裳着』のイメージ
江戸時代、武士の『元服』
前髪を剃って月代(サカヤキ)に。
『少子高齢化』の実際を、データで確かめておこう。
人口ピラミッドは、いわゆる先進国ではほぼ同じ形状になってます。
日本だけ「国難だ」と騒ぎたてる根拠はどこにもない。
スイス
ドイツ
ロシア
韓国
日本
日本の出生率を、ほぼ同じ水準のドイツと比較してみた。
日本の場合、2005年に底を打って、その後は順調に上昇を続けている。
今頃になって「少子化が国難である」などと叫ぶのは何故?
下のグラフは、
出生に占める嫡出でない子の割合を国別で示したもの。(2009年)
日本は 2.1% と桁違いに低い。
正式な婚姻関係でなければ子どもが産めない社会なのだ。
つまり精神的・文化的には後進国であって、安倍政権の進めようとしている古いモラルへの復帰こそ、出生率を引き下げる原因になっている。
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ヘイト発言、人間の倫理性に対する攻撃 その11
平成30年01月15日
成人式と言えば、中学校の卒業式よろしく騒ぎ立てる連中がいるので、空港の国際線以上に厳重な手荷物検査をする自治体があるとか、女子は振り袖に白ショールの盛装が定番化しているが、和服のレンタル業者が予約金だけ取り込んで行方をくらましたとか、耳にする報道は、いささか揶揄的な響きが感じ取れるものばかりである。これを契機に成人式で着飾るのをやめた方がいいんじゃないか、などと、新成人の意識レベルの問題にすり替える爺ぃもいるようである。成人式にまつわる現象の、ある部分の表層的イメージだけを拾い上げ、新成人全体をステロタイプ的に歪曲している。「今時の若い者論」の貧弱な一変形であるにすぎない。若年者に対する偏見まるだし。だから、これを契機に鬘(カツラ)の着用はやめた方がいいんじゃないか、などと斬り返されるのだよ、小倉さん。
だが、この伝え聞く狂躁ぶりを、ただ冷笑しているだけでいいのだろうか?
実際はどうか、現在の成人式はどのように執り行われているのだろうか?
成人式の意味を喪失させているのは、誰か?
私はツイッターとかフェイスブックで遊ぶ趣味を持たないのだが、いわゆる「2チャンネルまとめサイト」などのリンク先をたどって行くと、 "SNS" の個人ページに侵入してしまうことがある。そこで、マスコミ報道では伝えられることのない現場の実態を、ああ、そうか、そう言うことだったのか、と、教えられることも多い。
成人式に関しては次のような記事に出くわした。長野県在住でプラモデルの制作などを記事にしている「おいさま(@oisama)さん」という人のツイッターである。成人式の実態が見事に活写されているので、そのままコピペさせていただきます。感謝。句読点だけ勝手にいじりました、お許しを。
(1月7日)
本日は地域貢献、成人式の会場係やってます。
(1月7日)
成人式終わり、祝辞を送った県会議員と市議会議員の酷い祝辞でもなんでもない話を聞いて、がっかりどころか怒りを覚えた。少子高齢化が本格化するから、頑張って年寄りの為に働いて欲しいって、祝辞で言うことか? 大人の先輩として新成人が困らない様にしてやる責務があるだろうに。こんなんが議員かよ。
(1月8日)
書き方がまずかったかもだけど、単に門出を祝う席上で、祝いにもならなければエールにもならないスピーチをする議員のレベルの低さが言いたかっただけなんですけどね。それに比べて新成人の答辞はしっかりしていました。
(1月8日)
とまぁ、実は前回の選挙で一票入れていた議員だったので落胆は大きかったのと、次回は無いと個人的には心に決めましたけどね。良い教訓になりました。
成人式とは、読んで字のごとく、成人となることを祝う式典である。式典であるから、プロセスの中核となるのは式辞と祝辞である。平たく言えば、新たに成人となる人に向けての「はなむけの言葉」である。この「はなむけの言葉」を発する側に、祝賀・祝慶の心が汪溢していれば、言葉に心がこもり、式典は自ずと盛り上がるはずである。
しかるに、県会議員と市議会議員が「祝いにもならなければエールにもならないスピーチ」を連発させて、式典の意味を霧散させてしまった。その代わりに持ち出してきたのが「少子高齢化が本格化するから、頑張って年寄りの為に働いて欲しい」などと言う、安倍政権お得意の「国難訴求アッピール」であったとするなら、祝福を受ける者として馳せ参じた新成人はもとより、式典の準備をした自治体の担当者や、「おいさまさん」のようなボランティアの面々も、呆気にとられたに相違ない。
「はなむけの言葉」を発する側がその為体(ていたらく)では、新成人の方で「騒いだり、着飾ったりして」式典の意味を創造するしかないではないか。
いまの成人式の形態は戦後日本に固有のものであろうが、どの民族においても、何時の時代でも、大人になるための通過儀礼(イニシエーション)は、人の一生における最も大切な祭事の一つである。それは民俗的・文化的伝承である。わが日本においても、元服(げんぷく)、結髪(けっぱつ)、裳着(もぎ)、等の言葉が伝えられている。盛装して、大人になった事をお披露目するのである。南太平洋バヌアツ共和国における成人男子への通過儀式「ナゴール」(Naghol/N'Gol)は、バンジージャンプとして全世界に広まった。蛮勇である事を誇示して大人の男子になるのである。
つまり、振り袖に白ショールの女子や、騒いで警備員と遣り合うヤンキーたちは、通過儀礼の古式に則って、その民俗的・文化的伝承のまま振る舞っているのである。冷笑したり、批難したりするのは、筋違いと云うものだ。
挨拶ができてこそ、大人
大人として認められるためには、何が出来なくてはならないのか?
極めて常識的に言うならば、慶弔の挨拶がキチンとできること、ではなかろうか。だとするなら、成人式に来賓として呼ばれながら(勝手に割り込んできたのかもしれないが)、満足に祝辞すら述べることができないこれらの政治家どもは、大人だとは言えない。
落語には、ちょっとボンヤリとした男が、慶弔の口上を述べるのに、人から教わった通りを再現しようとして、しくじる話が多くある。思いつくだけでも、『悔やみ』、『鮑(あわび)のし』、『子ほめ』、と枚挙にいとまがない。これらの落語に登場する、喜六(上方)、与太郎・甚兵衛(江戸)などの愛すべき人物は、キチンと挨拶ができなくてはならないと本気で考えているから、しっかり者の嫁さんや、店の旦那さんや、大家さんなどの言うことをそのまま覚え込もうとする。謙虚であり健気である。上記の政治家どもに決定的に不足しているのは、この、謙虚さ、健気さ、である。落語の登場人物とは違って、付け焼き刃でも良い、鸚鵡返しでも良い、とにかく先方に対して失礼であってはならないと気遣う心を、最初から喪失しているのである。だから彼らの失態は、笑うに笑えない。相手の心を殺伐とさせ、怒りさえ覚えさせるのである。
しかし、よく考えてみよう。政治家たちは、昔から、これほどの無能力者であっただろうか?
個人的な意見であるが、それは、否、であろう。率直な感想を述べれば、昔の政治家たちはたいてい立派な大人であったように思う。相手かまわず、所かまわず、幼稚な政治的スローガンを吐出して、それで全てを終わらせしまうような馬鹿ではなかった。政治的イデオロギーは様々であっても、面と向かえば、相手の心をつかむ何かを持っていた。時と場合をわきまえて、相手の気持ちに向かって喋っていた。これが私の印象である。
昔、 "O" 氏の場合
私が念頭に置いている「昔」とは、 1985年頃から 1995年頃までの約10年間である。その頃私はある工場に勤めていたのだが、選挙が近づくと、保守系の代議士や議員たちがよく工場へやってきた。工場見学をさせてくれ、その後社員と懇談会をしたい、とか、全社朝礼で一言挨拶をさせてくれ、とか言って。正直言って最初は、迷惑だな、と感じた。工場は何時も仕事に追われている。工場を観てもらうのなら少しの時間ラインを止めて清掃する必要があるし、懇談会に呼ばれている間は持ち場を離れなければならない。それで無くても長引く全社朝礼がますます長くなるではないか。だが彼らの訪問が終わってみると、不思議と悪い印象は残っていないのである。
全社朝礼での一言を所望した自民党 "O" 氏の場合を例にしようか。彼は戦前の特高警察あがりの政治家で、ゴリゴリの保守派であった。今で言う「歴史修正主義」的発言を繰り返し、物議を醸すこと度々であった。だから朝礼の挨拶では多少の不愉快は我慢しなければならないだろうと覚悟を決めていた。
だが違った。彼は製造業の少ない土地で奮闘している我々の会社を褒め、役員の人柄を褒め、製品を褒め、営業マンや工場の作業者たちの労苦をねぎらった。事前の詳しい打ち合わせなど無かったはずなのに、我々の業界のこと、工場の仕組み、物流の実態などをよく知っていた。最後に、皆さんの頑張りに意気を感じて私も努力したいと思う、その節はよろしく、とだけ述べて降壇した。役職者は見送りのため一列に並んだのだが、彼はその一人一人の手を取って声をかけた。私に向かっては、どうか立派な製品を造ってください、というようなことを言った。すでに初老で厳つい顔の男だったが、その手は意外なほど柔らかく温かだった。
彼の「狙い」がどうであれ、彼は、間違いなく、工場の私たちに向けて語りかけ、それに成功していた。彼の物腰が柔らかかったのは、政治家として伝わっている自分に対して反感を持つ者(例えば、私のように)がいることを予想してのことだったのだろう。つまり、彼も、中小企業の経営者や中間管理者と同じような「苦労人」であったわけだ。保守党の政治家だって、けっこう面白味のある人間だっているのだ、政治的イデオロギーだけで人は判断できないのだ、と私はつくづく思い知らされた。
現在、 "T" 女史の場合
事情が変わり始めたのは、世紀が改まった頃だったろうか。
ここで例として登場するのは、同じ自民党の女性代議士 "T" である。松下政経塾の出身で、またたく間に保守本流に侵入、キャリヤを重ねるにつれ「保守・反動の男社会に、男以上に過剰適合」し、最近では在特会とかネオ・ナチへの接近を隠そうともしていない。そう、あの女である。
さて、世紀が改まった頃、当時勤めていた会社が彼女の後援会に加わった。別に社長が政治好みだったわけではない、会社を経営していれば、いろいろと断り切れない事情が生じるのである。政局報告会を行うと言うので、私が出かけていった。要は資金集めのパーティーである。選挙区は奈良県であるのに、大阪上本町の「一流」ホテルがその会場であった。まずこれが不服だった。政治家や経済界の人が普通そうするように、なぜ地元に金を落としてやらないのか? でも、先に述べた "O" 氏の例もある。実際に会えば面白い人物かもしれない。
だがパーティーが始まるやいなや、私のささやかな期待感は木端微塵に打ち砕かれた。開口一番、 "T" は政敵の悪口を言い始める。一息ついて本題に入るのかと思いきや、また悪口。さらに悪口。いつまで経っても悪口しか言わないのである。野党やら他派閥の政治家の名が次々にあがって、皮肉っぽく嘲笑されて行く。その度に、彼女を取り巻く親衛隊のような一群からやんやの歓声があがる。私を含め、演壇を遠巻きにしている一般の参加者たちは、一様に戸惑いの表情を浮かべている。そんな後方の雰囲気には一顧だにせず、演壇の周囲だけが異様に盛り上がっている。気分が悪くなって、私は手洗いに立つふりをしてそのまま会場を出た。
私の居住地は "T" の選挙区であるので、その後も度々彼女の肉声に接する機会があったが、そのスタイルは不変である。あの震災の年、秋には奈良でも大きな水害があった。その数日後、県会議員候補の演説会へ、自民党候補の応援にやってきた "T" は、犠牲者に対する哀悼の意も示さず、被災者に対する見舞いの言葉もなく、ただただ民主党政権の無能ぶりをあげつらっていた。そこにも若干ながら「さなえちゃん」を崇める親衛隊もどきがいて、彼女は彼らの喝采で気持ちよく喋り続けていた。本気で政策を訴えねばならぬ対象は、取り巻き連中の向こう側にいる「一般大衆」ではないのか?
自分に取り入る人たちに囲まれていれば、それで満足。批判者・反対者は「あんな人たち」と切って捨てる。このスタイルは、安倍晋三、さなえちゃん、成人式の県会議員・市会議員、に共通のものである。これはかっての自民党代議士 "O" 氏の「苦労人」的スタイルの対極にある。
こんな連中が、そろって「少子高齢化という国難」を叫ぶのである。
それは、昔から予想されていたこと
今は昔、小学校の高学年だった頃、私は一冊の参考書を持っていた。全教科の重要事項が網羅された、小学生用百科事典みたいな本だった。我が家を訪問した誰かが、お土産として持参してくれたものだったと思う。ネットやスマホの無い時代である。図書館も現在のように整備されてはいなかった。だからその参考書を繰り返し読んだ。
巻末に近い所にあったので、おそらく保健体育だと思うのだが、『人口問題』という項目があった。そこには、ピラミッド型・釣り鐘型・提灯型など、『人口ピラミッド』のイラストが描かれていた。解説にはこんなことが書かれていた。記憶に基づいて再現してみる。語彙はもちろん今の私のものである。
日本は典型的なピラミッド型である。これは後進国(当時は、発展途上国などといった持って回った言い方をしなかった)の特徴である。衛生状態が良くないし、家族計画(キチンとそう書かれていた)の知識も不足しているから、子どもはたくさん生まれるが、成長できずに死亡する子どもも多い。金持ちは家督を相続させる必要があるし、貧者には子どもは働き手という意識があるから、いずれにせよ多産が奨励される。しかしそのため、女性は家事に加えて、妊娠・出産・育児の繰り返しに追われ、疲れ切っている。これは民主主義がまだ実体を伴っていないということである。
私は周りにいる女の人のことを考えて、そうだ、確かにその通りだ、と実感した。娘でいる間は、花よ、蝶よ、ともてはやされているが、嫁に行って数年たつと、前と後に赤ん坊を抱え、髪はほつれたまま、何所へ行くにも割烹着、いっぺんに「所帯やつれ」してしまうではないか。たちまち亭主は嫁に対する興味を失い、ちょっと小綺麗な飲み屋の女将などに色目を使い出す。
けしからぬ話である!
思えば、これが私におけるフェミニズムの芽生えであった。参考書は、こう続けていた。
それに対し欧米の先進国は「釣り鐘型」である。女性の高学歴化と社会進出が進み、子どもの数は減少するが、十分な教育が授けられるようになる。これが福祉国家の姿である。この先戦争が起こらず、順調に経済発展を続ければ、日本の人口構成も徐々に「釣り鐘型」に移行するはずである。皆で努力して、一日も早く福祉国家を実現しよう。
こんな風に、1960年頃の小学生向けの参考書が、今後の日本の人口構成がどうなるかを予想している。いまから60年近く前のことである。実際、私の愛読した本だけではなく、それは、新聞でも、雑誌でも、放送でも、盛んに述べられていた。いわば通説として定着していた。そして実際、その後の日本は、その予想どうりになったのである。
最近になって、この「分かりきった事実」を、安倍自民党が「少子高齢化」だと言い出した。それも「国難」などという忌まわしい言葉とともに。冷静にデーターを読んでみれば、「少子高齢化」という人口構成は、既工業化した社会に共通の現象であり、日本の場合だけ特に「国難」と言わねばならぬほどその傾向が顕著であるわけではない。
要は、「福祉国家でありたいという目標を放棄する」と宣言することが憚(はばか)られるので、「やたら数ばかり多い高齢者と、意識ばかり高くて子どもを生もうとしない腐女子」にヘイトを向けた、というだけのことである。事実無根のデマでしかない。
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