ゴジラは怖い。神の火を盗んだ我々を罰しに来るのだから怖い。
                                        彼は繰り返し首都に向かい、権力の中枢を破壊しようとする。
                                        これが意味するところを噛みしめるべきである。








最初の動画より

……安倍首相がんばれ、安倍首相がんばれ……。
 運動会なら、紅組がんばれ、白組がんばれ、じゃなかったのかな?



2番目の動画より

安倍昭恵は合計3回、塚本幼稚園を訪問している。
2014(H26)4月25日
 初回訪問。
2014(H26)12月6日
 講演を行う。
2015(H27) 9月5日
 2回目の講演。この際、100万円を寄付した(と言われている)。
 講演料を受領した(と言われている)。


大阪護國神社の「同期の桜を歌う会」で、合奏・合唱。


海軍慰霊祭で、合奏・合唱。


教育勅語が書かれた「おせんべい」
『教育勅語』(明治天皇の勅)が、最も粗末に扱われた例であろう。不敬の極み。純粋右翼よ、怒れ。













デボラ・E・リップシュタット



History on Trial: My Day in Court with a Holocaust Denier
(2005)

使われている写真は、実際の判決風景だと思われる。
左が、リップシュタット。
右で頭を抱えているオッサンが、「南京大虐殺はなかった」じゃなくて「ホロコーストはなかった」のアーヴィング。


『否定と肯定』がその日本語版。
表紙の絵柄は、映画のポスターと同じ。主演はレイチェル・ワイズ。

地元の図書館が購入して棚に並べてくれているので、この本に出会うことができた。昔は我が街にも岩波新書ぐらいは置いてある書店が2件あったが、今は両方とも無くなっている。うち一軒は "スシロー" になって繁盛しているが、もう一軒は「テナント募集中」で空家のママである。

いわゆるシネコンが映画館を駆逐し、そのシネコンが自滅の過程にあるので、郡部居住者には、なかなかこのような映画を観る機会が無い。昔は我が街にも一軒映画館があった。もっとも、ピンク映画専門館だったけれど。
DVDの発売を待つしか無い。


ディヴィッド・ヘア

ディヴィッド・ヘアは、ステーブン・ダルドリー監督の『めぐりあう時間たち』とか『愛を読む人』へ、脚本を提供した人。正直に白状するが、この2作はあまり楽しめなかった。
ステーブン・ダルドリーとは『リトル・ダンサー』で出会って、これが私の趣味にピッタリだったので、期待が大きすぎたのかもしれない。
全くの余談ながら、『リトル・ダンサー』は原題の "Billy Elliot" のママにすべきだった、と思う。その理由は、映画を観ていただればお分かりいただけるだろう。


(右)デボラ・E・リップシュタット
(左)レイチェル・ワイズ

レイチェル・ワイズを知ったのは、『ハムナプトラ』の考古学者エヴリン・カナハンさんとして、だったから、コミカルな役柄が得意なのだろう、と勝手に思い込んでいた。しかし『スターリングラード』のターニャがそうであったように、「芯の強い女性」を演じて見事である。うん、エヴリンだって、けっこうタフな役柄だな。




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ヘイト発言、人間の倫理性に対する攻撃 その15
                   平成30年04月17日



"You Tube" で、塚本幼稚園の動画を視てみる。


  "You Tube" で『塚本幼稚園』という言葉を検索してみると、「約15,000件」という検索結果が示される。これは大変な件数である。では、これらを片っ端から再生してみればどうだろう。私たちは少しでも塚本幼稚園の実態に近づくことができるだろうか?
 もっとも「約15,000件」のうちには、元の動画のコピーや、そのまたコピーも含まれるだろうし、先へ行けば行くほど核心からずれた動画も多くなるだろう。中には、標題こそ塚本幼稚園であっても、実は、辻元清美さんとか福島瑞穂さんの悪口が言いたいだけの動画も散見される。それでも、ある程度の批判的精神と選択眼をもって動画を視てゆけば、随分と多くの塚本幼稚園に関する「情報」を得ることができるはずである。だが、それで、私たちは塚本幼稚園で行われていた教育を「理解」したことになるだろうか?

 試しに、ズラリと並んだ動画の先頭にある、『塚本幼稚園 園児「安倍総理ガンバレ!安倍総理ガンバレ!」』とタイトルが付けられている動画を再生してみよう。1年前にアップされ、すでに 8,300回以上再生されている。幼稚園の運動会。四人の園児が右手を挙げ、選手宣誓らしきことをしている。
  https://www.youtube.com/watch?v=5wV2BMqMi_I

 大人の人たちは日本が他の国々に負けぬよう、尖閣列島・竹島・北方領土を守り、日本を悪者として扱っている中国・韓国が心改め、歴史教科書で嘘を教えないようお願いいたします。 …… 安倍首相がんばれ。安倍首相がんばれ。安保法制国会通過良かったです。

 これは、テレビのニュースを切り取ったものだろう。森友学園問題が国会で取り上げられるようになった、2017[H.29]年 3月頃のもの、と思われる。「新映像」と銘打って引用されている動画は、おそらく塚本幼稚園の関係者が撮ったもので、園児たちが「安保法制国会通過良かったです」と言っていることから、2015[H.27]年秋の運動会であろうと想像できる。

 少し先には、『虐待!? 恫喝!? 塚本幼稚園を内側から見てきた元関係者に岩上安身が独占スクープインタビュー! …… 』と題された動画があり、すでに17,000回以上再生されている。フリーのジャーナリストが、塚本幼稚園の内部に入り込んで仕事をしていた人(委託教諭か、出入りの業者さんだろう、旅行会社か?)から、その人が実際に目撃した事例を聴き出している。何点か要約してみると …… 、
  https://www.youtube.com/watch?v=xwzvwlVHvMU

● 年長組は伊勢神宮の参拝に行くことが恒例になっているが、大人でも食べきれない分量のお弁当が出て、園児はそれを食べきることが強要される。食べきれないでいると、丼茶碗に味噌汁を入れて無理やり口を開けさせて流し込まれたり、嘔吐したものまで食べさせられたりする。

● 安倍晋三記念小学校の話が持ち上がると、一緒に仕事をするんであれば寄付をするのが当たり前だと言われ、月々の支払いからバックマージンを支払うという形で、強制的に寄付をさせられた。

● 頻繁に講演会が開かれ、そこで寄付金を募る。また、大阪護國神社『同期の桜』を歌う会・神戸まつり・海軍の慰霊祭などに園児を参加させ、演奏させたり歌わせたりして、そこでも寄付金を募る。手土産として「教育勅語」とか「君が代」が書かれた「おせんべい」を渡すが、それには寄付金の用紙が同封されているのである。


 確かに、たった2つの動画を再生するだけで、多くの情報が入手できる。その情報は直接的で生々しく、誤解の余地が無い。動画投稿サイトとはまことに便利な仕組みであるし、手間暇をいとわず動画を投稿してくれる人たちにも感謝すべきである。

 だが、冒頭で述べたように、ここらで一度、こう問うてみるべきではなかろうか。
 私たちは "You Tube" の動画を視て、多くの塚本幼稚園に関する「情報」を得ることができるが、それで、塚本幼稚園で行われていた教育を「理解」したことになるだろうか、と。


この動画には、どのようなコメントが寄せられているか?


 我々「一般大衆」は、ネット上で簡単に入手できる「情報」をどの様に「享受」しているのだろうか?  "Twitter" とか "You Tube" とかの、いわゆるインターネット上の "SNSツール" は、いまや全世界的インフラとなっているが、それが社会的事実(それには人間の思想・観念・幻想も含まれる)の伝達ツールとして、どのように機能しているだろうか?

  "You Tube" では、投稿動画のそれぞれに、自由にコメントが付けられるようになっている。そのコメントには、大衆の情報享受の姿勢がそのまま示されているように思える。

 上で引用した最初の動画には、20件のコメントが寄せられている。
 ざっと眼を通してみて驚いた。平常心のまま読み進められる人は少ないのではないか。突然、投稿動画へのコメントとは全く異質なものを見せつけられた、といった感じの、不快感をともなう意外性に襲われる。
 もちろん、動画が訴求することを正面から受けとって、素直な感想を述べているものが多いのだが、いったいどう言う精神構造を持てばこのような言葉が吐けるのか、と思えるコメントも少なからずあるのだ。しかも、それらが「高評価」( "Twitter" の「いいね」に相当する)の得点を得ている。

 その20本のコメントを、並んでいる順にすべて書き出してみよう。
 変な分類になるが、投稿者の意図に賛成していると思われるものに「○」、投稿者に敵意を抱いていると思われるものに「×」、意図不明のものには「△」のマークを付けた。マークの後ろの数字は「高評価」の得点数である。

01;(○11) カルト宗教と一緒。親がカルトだと子供が気の毒すぎる
02;(△14) 北方領土は守られませんでした。ロシアに負けました。完敗でした。プーチンのケツ舐めて3000億円取られました。お金はミサイル基地になりました。
03;(○ 6) 教育基本法 (政治教育)第十四条 良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上尊重されなければならない。2 法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。
04;(○ 4) 子供に言わせてるぅ~。憲法が保障する、信教の自由に抵触するのではないか?
05;(○ 3) 可哀想な子供たち、連中の親の顔を見てみたい。まるで四十年前の中国の洗脳教育だ。
06;(△ 2) 首相と言ってるのに総理と書いてるのはなぜ?
07;(○ 1) ここは北朝鮮……ですか…笑
08;(○ 1) 何運動会で言わせてんだよわせてんだよ
09;(× 6) 素晴らしいです。
10;(× 4) 素晴らしい教育だ。この学園のことを、マスコミが徹底的に叩きたがるわけだ。自国領土を守ることを教育に盛り込んだら、ただちに軍国主義か? 軍靴の音が聞こえるというのか? ならば、なんでNHKや朝日は韓国・中国のことを非難しない? いい加減にマスゴミのダブルスタンダードには辟易する。
11;(○19) 洗脳教育のキモさ
12;(○ 1) この言わされてる感がなんとも
13;(○ 6) 安倍キモすぎ
14;(× 1) 日本も捨てた物じゃないな
15;(× 0) モザイクは一応かけるんだ、恥知らずまでいかなかったよな。
16;(△ 0) ジークジオン!
17;(△ 0) 大草原 もうネタやん
18;(△ 0) まぁ中国と韓国には負けたくないけどなW
19;(○ 0) こわい
20;(× 0) これMAD疑惑あったよな モザイク掛けてるから、動作に合わせて子役を喋らせれば作れそうだし。



歴史修正主義追従者のサロンか、ここは?


 「○」が10件、「×」「△」が合わせて10件。元のニュース映像が伝える内容(つまり、マスコミ)に反発しているのか、あるいは、それを動画サイトに投稿した人(つまり、反日・サヨク)に反発しているのか、おそらくその両方なのだろうが、否定的な言辞を吐くか、茶化したりするものが全体の半数もあるのだ。
 だが、「○」「×」「△」によって、コメントの質がまったく違うことに注意しよう。
 「○」印のコメントは、指摘しているポイントや感じ方は様々であるが、素直に動画を視た感想を述べている。
 それに対し「×」印は、ろくに動画も視ずに、動画をネタに「持論」の開陳を楽しんでいる節がある。あちこちで触れ回ったネタをここでも反芻(はんすう)して、快感に浸っているのであろう。ちなみに、「 9;」のコメント者名は「慰安婦問題は嘘です」というふざけたものである。最後の「20;」などは、分かったような口を利いているが、古くさい「陰謀論」の貧相な口真似ではないか。
 「△」に至っては、関西で云う、人を「おちょくった」ような口調で、他者に不快感を与えることを目的としている、としか思えない。

 贔屓にしている歌手の新曲を評価するとか、新作映画の批評をするとかの場合なら、根拠のない誹謗中傷に陥らない限り「何を書いてもかまわない」と、私は思う。コメントは、好き、嫌い、の一言で終わらせることもできるし、あるいは、表現の方法も長さも自由に選んで、自分の感動を綿々と綴ってもかまわない。音楽も映画も、それがどれほど厳格に理詰めで構築されていても、受け手にとっての価値は、つまるところ、好きか、嫌いか、の問題に帰着する。文芸の評価とは極めて個的なものであり、個々人の好み・美意識で受容するしかないのだ。私が感涙にむせび絶賛する映画を、貴方が、何だ、つまらない、駄作じゃないか、と反論したとしても、私と貴方は一緒に酒が飲めるのである。ここに文芸批評そのものが文芸として成立する根拠がある。

 しかし、テーマが社会問題・政治問題となると違うだろう。これは、個々人の好み・美意識で測られてよいテーマではない。もちろん、与えられた情報の一片に対し、どの様な感想を抱こうが,どの様な判断を下そうが、それは個々人の自由である。ただし、それをどの程度まで表出しうるのかは、「場の公共性レベル」によって変わってくる。家族とか気心の知れた友人などが相手なら、ほとんど何を喋ってもかまわないだろう。仮に、相手を怒らせる様なことがあっても、ごめん、言い過ぎたよ、と謝ることができる。

 だが、親類、サークル、学校、会社、地域社会、と「場の公共性レベル」が高くなるにしたがって、話せる内容に関する制約が大きくなってゆく。よく保守系の代議士が地元に帰った時に、ついつい「失言」をしてしまうのは、地元意識・仲間意識の気安さから、この「場の公共性レベル」を見誤ってしまうからである。それはこういう場所で言うべきことではない、という常套句があるではないか。昨今、言いたいことも言えないのかと、居直るむきもある。「戦後レジーム」とか「ポリティカル・コレクトネス」のもたらした制約だ、とか何とか息巻いて。とんでもない、これは、太古の昔から続く社会のルールなのだ。

 上で「×」「△」印を付けた人たちは、失言を繰りかえす代議士と同様に、「場の公共性レベル」が見えない人たちなのだ。インターネット上の "SNSツール" は、その名 "Social Networking Service" の通り、社会の公共性に向かって開かれている。当たり前じゃないか、分かっているはずだ。分かっているのに、仲間うちでそっと囁くに止めておくべき第三者にたいする雑言を、堂々と公開する。インターネットの匿名性を悪用しているのである。おそらく彼らは、日常生活においても、社会性の構築に困難を抱えているだろう。他者とは、少し憎悪するか、多く憎悪するか、要するに憎悪の尺度以外に、何の関係性も持ち得ないはずだ。


 最初にもどってよく考えてみよう。個々の情報が伝えるのは、全体のごく一部、一要素に過ぎない。それが、事実に基づくものなのか、拡散された虚偽なのかもよく分からない。全体を見通すには対象はあまりにも巨大であり、真実の核心は、縦横に枝を伸ばす複雑さの奥に潜んでいる。
 差し出された情報に、事実の裏打ちのない「持論」をツィートして、誰かを批判したつもりでいるのは滑稽である。はた迷惑である。社会問題・政治問題について一席ぶつのなら、複雑系の森に分け入る覚悟を示せ。自力で、その端緒を見つけ出せ。


追:歴史修正主義への追従は、西も東もおなじ。


 先日図書館の棚に、『否定と肯定 - ホロコーストの真実をめぐる闘い』(デボラ・E・リップシュタット)と言う本を見つけ、読み始めたところだ。この本の紹介は、裏表紙の説明文をそのまま引用しよう。

 「ナチスによる大量虐殺はなかった」そう主張する、イギリス人歴史家アーヴィング。彼を "史実を歪曲したホロコースト否定者" と断じたユダヤ人歴史学者リップシュタットは、反対に名誉毀損で訴えられる。裁判に勝つには、ホロコーストが事実だと法廷で証明するしかない。だが、予想に反し、アーヴィングの主張は世間の関心を集めていく。-- 実際にあった世紀の法廷闘争の回顧録。

 この本は映画化されたが、その脚本を書いたディヴィッド・ヘアが、この本に「まえがき」を寄せている。西欧の歴史修正主義に追従する人たちに向けた批判になっているが、それは、そのまま、上の「×」「△」をつけてはしゃいでいる人たちにもあてはまる。2ヶ所だけ引用させていただく。

 インターネットのこの時代、誰もが自分の意見を述べる権利を持っていると主張するのは、一見したところ、民主的なことのように思われる。確かにそうだ。しかしながら、すべての意見に同等の価値があると主張するのは致命的な過ちだ。事実に裏打ちされた意見もあれば、そうでない意見もある。そして、事実の裏打ちがない意見ははるかに価値が低いと言っていい。

 わたしたちはいま、 "ポスト真実(トゥルース)" の時代を迎えつつある。政治の世界ではとくにそうだ。そこでは、公人がなんの根拠もないことを主張し、そのあとで「まあ、これはわたしの意見だが」とつけくわえることで主張を正当化することが許されているらしい。まるで、その言葉が免罪符となるかのように。それは違う。そんなペテン師連中は、免罪符にはならないということを肝に銘じるべきだ。



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 --【その15】了-- ヘイト発言、人間の倫理性に対する攻撃 目次へ