難波駅を出た電車がわずかに右にカーヴすると、つり革に掴まっていた男たちは一斉に右側の窓から外を見やった。
ほんの一瞬、大阪球場のスコアボールドが見えるからだ。
私の家は球場から1キロ以上も離れていたが、物干し場にあがると、観客のあげる歓声が風に乗って流れてきた。
確かに昭和のある時代まで、私たちは「自分の五感で直接」社会の動きを感じとっていたのだ。
昔の有名なアナウンサーたち
今回は男性のみ
高橋圭三さん
司会の「たかはしけいぞう」です、が僕には「たかあしけいぞう」に聞こえた。NHK → フリー → 保守系議員 と転身した草分け的存在。
右は岡田奈々さん。絵に描いたような美少女だが、高橋さんよりデカぃ。
『何でもやりまショー』の三國一朗さん。アナウンサーではなく、アサヒビールの社員さんだったらしい。スゴイね。 賞品の「バヤリース一年分」は我々の垂涎の的だった。バヤリースもさることながら、一年がとてつもなく長い時代だった。
宮田輝さん
今で言う「上から目線」だと皮肉る人もいた。この人も参議院議員になった。
『三つの歌』の公開録画風景。確かに素人をイジルのは上手かった。いじられるほうも楽しそうだった。
『万国ビックリショー』の八木治郎さん。 右のお兄さんは白羽抜きをして、はい、切れてません、とやっているところ。
こんな新聞広告までありました
木島則夫さん
珍しく民社党の議員になった。
男女のアシスタントがつくと、俄然今のニュースショウぽくなります。しかし家具の質素感とデンと置かれたマイクはまだ戦後の雰囲気。
小川宏さん
もうカラーになってます。
一週間のご無沙汰でした、の玉置宏さん
逸見政孝さん
お笑い芸人にいじられて、こんなに面白くなる人もいなかった。
夭逝が惜しまれます。お元気だった頃の笑顔を探しました。。
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「 …… が分かりました」で分かること
自滅するジャーナリズム その1 (平成28年2月17日)
ニュース番組に頻出する、 …… が分かりました、という言い回し
テレビのニュース番組を観ていると、たびたび奇妙な感じに捕らわれる。
それは、 …… であることが分かりました、 …… であったことが分かりました、という風に、アナウンサーが「 …… が分かりました」という言い回しを多用することである。
文例A(名古屋テレビのホームページより)
愛知県警の警察官の男が女性にわいせつな行為をしてけがをさせたとして逮捕された事件で、男は「わいせつ目的ではなかった」と供述していること
文例B(奈良テレビのホームページより)
飛鳥時代の女帝斉明天皇の墓とする説が有力な明日香村の牽牛塚古墳の墳丘は、大規模な土台をつくり築かれていること
この「 …… が分かりました」という定型句が不可解であると感じる人は、きっと私だけではないだろう。そう思って、グーグルで「テレビ ニュース が分かりました」と入力して検索してみた。しかし期待した記事は一件もヒットせず、その代わり実際のニュース原稿がずらりと並んだ。その中から適当に選んだのがこの二つの文例である。
調べて書くのでないから自信は無いのだが(もっとも、調べようも無いのだが)、自分の記憶を掘り起こす限り、昔の(それほど大昔ではない)アナウンサーは「 …… が分かりました」という言い回しを今日のように乱用していなかったように思う。
テレビのニュースを観ていて、この言い方が耳に留まり、おや、奇妙な表現をしているな、と思うようになったのは、五年前だったか十年前だったか定かではないが、何れにせよそんなに古いことではない。耳障り、というほどのことでもないのだが、ニュースで使用する言葉としては、何かしら舌足らずで収まりの悪い感じがしたのである。そんな違和感がずっと続いていた。
それが昨今ではどうだろう。どの局であろうが、どの番組であろうが、 …… が分かりました、 …… が分かりました、の連発である。ある番組がその番組独特の口調を持つのは、別に悪いことではない。人間と同じように、テレビ番組だって個性的であって然るべきである。しかし、すべての放送局の、全てのニュース番組が、歩調をあわせて何処か同じ所へ向かおうとしているのなら、それはかなり変だ。言い方だけの問題ではない。何か臭う。その胡散臭さがどこから来るのか。それを今日は考えてみたい。
日本的報道文体とはどういうものか
『文例A』を使って「報道文体の特徴」を確認しておこう。
まず「分かりました」というが、その主語が欠落している。
誰が分かったのか? それは「放送局」である。意味上の主語は "I" でなく "We" で立てられているから、放送局であり、この番組の作成スタッフであり、またニュースを読み上げているアナウンサーでもある。
次に「分かりました」というが、そのニュース・ソースが述べられていない。
どんな取材をして分かったのか? 確とは言えないが、おそらく当該所轄署での記者会見でしょうね。記者会見でなければ、所轄署刑事の談話だろう。ただしこの場合は「関係者への取材によって」という一言が加わるはずだ。
この「報道の主体を曖昧なままにしておくこと」と「情報の出所を曖昧なままにしておくこと」が「日本の、報道文体の特徴」のようである。私はジャーナリズムに関しては何の知識も持たないが、とりあえず断定しておく。
確かに、何でもかんでも書く、あるいは言う、なんてことは実用面から言ってナンセンスである。第一どんなに厳密に言葉を重ねていっても、表現に正確さが増すわけでもない。コミュニケーションの場においては、当事者間で自明の理とされることは、当然の前提として省略可能であろう。つまり、ずっと以前から、放送局が流すニュースとは「放送局が取材によって得た情報のうち、放送局がニュースとして流す価値があると判断したもの」であると視聴者は理解していたはずである。だからニュース報道では、わざわざ主語を立てることもソースに触れることもなく、あたかも学校の歴史の教科書の〈客観的〉記述のように、出来事だけを述べるというスタイルが定着していたのだ。
この特徴が良いものであるのか、そうでないのか、私にはよく分からない。ただしこれが日本的スタイルであったことは事実である。
…… が分かりました、という言い回しの狙いは?
ところがある時、突如として「 …… が分かりました」という言わずもがなの一言が付加されるようになった。主語も情報ソースも示さずに、突然「分かりました」と言いだしたのだから、聞く方が戸惑って当然である。これが胡散臭さの始まりである。だが、それは何故か?
結論を先に言ってしまおう。これは報道責任の事前放棄なのである。
より分かりやすく言えば、報道内容にクレームがついたときのための予防措置なのである。
もっと端的に言えば、放送局が訴訟の対象から逃れるための方便なのである。
ニュース番組を観て激怒した人がいるとする。あのニュースは事実無根じゃないか、責任者は誰だと、彼は放送局へ駆け込んでくる。謝罪せよ、名誉毀損だ、損害賠償をせよ、と訴訟沙汰にまで発展する場合もある。そんな時でもこう言って簡単に逃れることができる。
いいえ、いいえ、あの報道は我が放送局の主体的な考えでも独自の判断でもありません。取材してきたことをそのまま述べただけです。ご不満なら情報の発信者に仰ってください。情報元? もちろん正式の記者会見ですよ。彼らは我々が放送局だときちんと認識していて、発信した情報は放送される可能性があると判断した上で、記者会見を開いたはずです。もちろん我々はその会見に加わる正式なライセンスをいただいております、モグリじゃありません。あの記事内容は記者会見まではまったく知らなかった内容ですよ、予断も偏見も持ちようがありません。だからニュースの時にアナウンサーはこう言っていたはずです、それまでは何も知らなかったのだが、記者会見によって始めて「 …… が分かりました」と。
歴史的に検証すると、対米従属型経済構造が見えてくる
かって日本のジャーナリズムの責任論が盛んに議論された時代があったと思う。被害者であれ加害者であれニュースの対象となった人の人権に対する配慮がなされていないとか、まだ参考人とか容疑者の段階であるのに犯人扱いであるとか、報道によって損害を被った場合それを補償する仕組みが無いとか、そもそも日本のジャーナリズムにはニュース・ソースを明らかにする習慣が無いとか、新聞にも署名記事がほとんど見当たらないとか。
それは、著作権法だとか製造物責任法とかいった法律名が一般化し、それまでとは異なる「責任」の概念が唱えられ始めたのと同じ時代だったと思う。因みに私にとって馴染みの深かった事柄で言えば、製造物責任法は1994年(平成6年)の成立であり、施行は1995年(平成7年)のことである。
少し歴史年表を繰ってみよう。1993年(平成5年)、ビル・クリントンは合衆国大統領に就任するなり日本を「経済的敵国」と呼んだ。いわゆる「日米経済戦争」の始まりである。すぐさま日米首脳会談が開かれ『日米包括経済協議』が開始される。翌1994年(平成6年)からは毎年『年次改革要望書』が出されるようになる。これにより「グローバル・スタンダード」の名の下に、すさまじい勢いで日本のあらゆる経済的下部構造がアメリカ式経済システムに置き換えられて行く。これを政府は「構造改革」と言い替えた。経済学者やジャーナリズムもさほど抵抗することなくそれに追随する。その後1998年(平成10年)の「金融ビッグバン」をもって日米経済戦争はアメリカが勝利して終わる。間髪を入れず、アメリカの金融資本は日本市場への怒濤の侵攻を開始するのである。
この頃から云々され始めた新たな「責任論」は、この一連のアメリカ式経済システムへの転換の、上部構造への波及である。それは決して高邁な精神論ではなかった。責任、責任、とやかましく言うものの、それはアメリカ的責任概念を受け入れよという要求でしかなかった。端的に言えば「訴訟の対象にさえならなければOKの責任論」だったのだ。
これより以降、日本市場における製品・商品は摩訶不思議な変容を遂げる。電化製品を買ってきて取扱説明書を開いても、最初に目に飛び込むのは無骨な『警告』『注意』の羅列である。肝心の本文は中程以降にちまちまと書かれているだけで、こんな使い方をすれば便利だ、という様なウキウキ感にあふれた記述は完全消滅している。
パソコンのソフトをインスツールしようとすると、これまた警告文をさんざん読まされて「同意します」をクリックしないと先に進めない。オレ様は同意しないぞ、と強弁したら返品に応じてくれるのだろうか。もうええわ、と半ば捨て鉢になって作業を進め、やっと終了と思いきや、インターネットに接続して「認証せよ」と曰う。それをしないとそのうち使えなくなるらしい。パソコン使うならネット接続していて当然、なんて誰がきめたんだ。
疲れ切って名画でも観ようとすると、違法コピーは犯罪です、と脅かしにかかる。作品中には現在からすれば不適切な表現がありますが作品の歴史的価値を考え原典のまま収録しました、とか、監督のインタビューが収録されていますがこれは監督個人の見解でありビデオ製作会社の考えではありません、とか、今度は言い訳が続く。苛ついてスキップしようとしても機械が「この操作は許されていません」と応える。ソフトとハードの連携の何と見事なことか。早ぅ映画映さんかぃ、オレは映画が観たいんじゃぁ!
もうお分かりですよね。訴訟の対象にならないこと。ただこれだけが「責任」の概念なのです。
自滅の道を選んだジャーナリズム
この責任論の関門を放送局はどの様にして通過しようとしたか。
最も手軽な対応は「無視して済ます」ことだったでしょう。日本には日本のやり方がある、いままでずっとこうやってきたんだ、何が悪い、とだけ言えば良かったはず。しかし脅しに弱いんですねぇ、日本の企業は。例のマーケティング理論のコンサルタントなんかも、危機管理が出来なくてどうする、なんて煽り立てたことでしょう。
少し真剣に考えて「ジャーナリズムとしての責任が全うしうる」ように変革しても良かっただろう。全ての記事に文責の署名を入れ、情報の入手先を明瞭に明示し、それとは別に記者個人の考え、局の立場・判断なども明確に主張してゆく。異論・反論があれば受けて立ちます、議論を闘わせ深耕させて行きましょう、なんて言えば(超)格好良かったんだけど、誰も提案しなかただろうなぁ、この案は。
で、詰まるところ、今までの慣例的表現に「 …… が分かりました」を付け加えることで、「正式に発表されたことをそのまま伝えるだけ」の立場に自ら選んで成り下がったわけである。報道の使命とは、立法府・行政府・司法府・大企業・各種団体等々の広報室機能を代行すること、と相成った。ジャーナリズムの誇りとか精神とかいったものは何処に行ってしまったのだろう。
まだテレビが無くてラジオにかじり付いていた頃を思い出す。僕はまだ小学校の三年生か四年生の子供だった。お気に入りの番組の前後にはニュースがあって、それも熱心に聴いたものだ。政治とか経済のことはまだ良く分からなかったけれど、分かり難いニュースの最後には、たいていこういう一節が付け加えられていた。
「消息筋によりますと …… 」
「関係筋によりますと …… 」
これが、分かり難い「事実関係」だけのニュースが、「実際はどういうことなのか」の解説になっていて、子供の僕にも何らかのイマジネーションを与えてくれた。あの時代のことだから、かなり自由な発言があったと思う。苦情が寄せられたこともあっただろう。その時、ニュース制作の担当者が「消息筋から聞いた話だからこちらには責任がない」と応えたか、「我々の責任で引用した」と応えたか、それは分からない。しかし「消息筋からの話を引用してもニュースの実質を伝えたい」というジャーナリズムの精神がきちんと機能していたことは紛れもない事実である。
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