難波駅を出た電車がわずかに右にカーヴすると、つり革に掴まっていた男たちは一斉に右側の窓から外を見やった。
 ほんの一瞬、大阪球場のスコアボールドが見えるからだ。
 私の家は球場から1キロ以上も離れていたが、物干し場にあがると、観客のあげる歓声が風に乗って流れてきた。
 確かに昭和のある時代まで、私たちは「自分の五感で直接」社会の動きを感じとっていたのだ。                           






 
本文で取りあげたBBCのニュース

英首相官邸を訪れた習氏
アナウンスはかなり皮肉っぽく始まる。日本のニュースの「装った客観性」とは大違い。笑えます。


習主席が女王と一緒に馬車に乗っている間 −−−


−−− 英国の労働者たちは 中国の安い鉄鋼の輸入によって 打撃を受けていました、と続く。


キャメロンへ氏の質問
あなたが今日失職した鉄鋼労働者だとしたら、同じ日に女王と習さんが馬車に乗っているの見たらどう思いますか? 強烈です。蓮舫さん、辻本清美さん、の比じゃありません。



キャメロン氏の答弁
英国の鉄鋼労働者にはここ英国で必ず対策をとると申しあげる。



次に習氏に向かって
ここで本文で触れた質問が出る。



我々だって苦労しているんだ、と習氏。この人はいつでもどこでも同じ表情だから可笑しい。見守るキャメロン氏の首が90度右に回転しているのがまた可笑しい。


労働党のコービン氏
英国の過去を売り渡す気かよ、国内の工場や労働者を支援する政府介入が必要だぜ。ノーメイクでオビ=ワンになれそう。



最後に視聴者に向かってメッセージ
経済政策で評価を上げたい政権にとって、取引に署名するのは当然かもしれぬが−−−


−−−仕切っているのは中国の方だ。







フランク・ラ・ルー氏
『特定秘密保護法』に異議を唱えたが日本政府は無視。


ディビッド・ケイ氏
彼の訪問調査をドタキャンした。


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 「 …… が分かりました」で分かること
   自滅するジャーナリズム その2 (平成28年2月27日)


 テレビのニュース番組は、政府・官憲・大企業・官僚天下り機関・半官半民御用組織・等々の、広報機能代行システムに成り下がった。どの局の、どの番組を見ても、 …… であることが分かりました、 …… であったことが分かりました、とアナウンサーは連発している。我々(放送局)はちっとも知らなかったのだが、記者会見での発表を聞いて、…… であったことが分かりました、と言っているのである。気持ちの悪いことおびただしい。言葉の末端をとらえての言いがかりである、頑固者の繰り言である、なんて言わないでほしい。具体例はそこかしこに転がっていて選択に困るほどである。

ジャーナリズムの本来的な姿勢とは?


 そもそもニュース報道とはいかなるものか? そのあるべき姿を確認しよう。
 昨年10月、中国の習近平がイギリスを訪問した。キャメロン英首相との共同記者会見の席で、
一人の記者がこう質問した。
「習主席、英国民は、民主主義がなく、不透明で人権に大きな問題を抱えた国とのビジネスが拡大することを、なぜ喜ばなければならないのでしょうか」
 この質問をしたのは他ならぬBBC(British Broadcasting Corporation;英国放送協会)の女性記者であった。今の日本人の感覚からすれば、これは大変な驚きである。日本において同じような記者会見が行われた場合を想定してみよう。NHKの記者がこのような質問をすることがはたして可能だろうか? 無理ですね。想像すらできない。
 この記者の発言は『産経ニュース』のホーム・ページから引用したのだが、いささか奇異の感を抱いてしまう。記事を掲載するにあたって産経新聞の担当者は、自分たちの報道姿勢がBBCのそれからは随分と隔たっていることに恥じることがなかったのだろうか。それとも大嫌いな中国の国家主席が皮肉られているのが心地よくて、羞恥心など吹っ飛んでしまったのだろうか。
   http://www.sankei.com/world/news/151022/wor1510220042-n1.html

 記者会見の模様はBBCが動画配信している。記者の質問は習近平のイギリス訪問の目的である経済問題にもきちんと照準が合わせられていて、日本の某新聞社などがともすれば陥りがちな、人権問題への純粋培養化とは無縁な極めて現実的なものである。3分強という時間枠の中に、社会的な背景・記者会見での質疑応答・野党労働党党首へのインタビュー・視聴者に向かってのアナウンス、等が手際よくはめ込まれているが、記者のローラ・クンスバーグさんが取材したことを自分の意見としてレポートする、という枠組みで組み立てられている。英国王室に対する皮肉もあるが、それはほんの少し。習氏に対する質問はシビアなものだが、礼を失するようなものではない。評価するべき点もきちんと述べている。最終的な批判の先は、中国に先導権を奪われている英国政府に向けられてニュースは終わる。なるほどニュース報道とはかくあるべしと納得させられてしまう。日本の …… が分かりました、式とはえらい違いである。是非ご覧になってください。
   https://www.youtube.com/watch?v=exUnf1SGSgI

 ここで確認すべきは、イギリスにおいては、ジャーナリズムとは権力に対する批判的精神である、という認識が(政府の側にも)あるように思えることだ。キャメロン氏の答弁は確かに緊張気味で語気も強くなっているが、極東の某国の首相がよくやるように色をなすことも声を荒立てることもなく、自分たちの政策に対して批判的な意見もあって当然だという前提を崩していない。
 権力とは本質的にマキャヴェリズムを内包するものである。目的のためには手段を選ばずという局面がしばしば訪れる。残念ながらそれは事実なのである。ゆえ、野党やジャーナリズムの役割とは、絶えず権力を監視しその行きすぎや暴走を阻止することにある。つまり、権力による定立(●●)、野党やジャーナリズムによる反定立(●●●)、その総合(●●)が民主主義、といったような弁証法的政治力学が機能していることがうかがえる。
 日本の場合はどうだろう。権力側も反権力側も二言目には「報道の中立性」などといった空疎な概念を持ちだしてくる。そんなものは黄金の羊皮とか一角獣ほどにも存在する可能性のないものであり、各自がいかようにも思い描くことができる。この概念は、自分が中立であるという主張に使用されることはない。決まって、相手が中立の立場から逸脱しているという非難の言葉として使用される。おのれの立場を曖昧にしたまま、相手があるべき基準から外れていると攻撃するのは、我が国では普遍的に行われてきた論法であるが、この俗論がいままで何度、国家と民主主義を窮地に追いやったかを思い出すが良い。

世界報道自由度ランキングを見てみると


 「国境なき記者団」(Reporters Without Borders, http://en.rsf.org/ )というNGOが、2002年から毎年「世界報道自由度ランキング」(World Press Freedom Index)を発表している。これによると、日本のランキングは民主党政権成立の2009年に17位と上昇し、翌2010年には11位となった。北欧の「福祉国家」レベルまで上昇したのである。しかるに安倍政権誕生の翌年(2013年)一気に53位とランクを落とし、その後順調にランクを下げ、2015年にはとうとう61位までダウンしてしまった。
   http://ecodb.net/ranking/pfi.html
 このアップ・ダウンの原因・経過についてはネット上に多くの解説があるのでここでは繰り返さない。ただひとこと言っておきたいのは、近隣のアジア諸国との比較で言えば、台湾・モンゴル・韓国より下位ランクなのである。『誇りある日本』の好きな日本会議の面々よ、これについては黙りですか? 何とか言ったらどうかね。
              ↓『REUTERS ロイター』のホームページより引用



国連からの調査をキャンセルした件について


 ここで、テレビでは報じられることのなかった(と思うが)ニュースを一つ書いておく。ネット情報の寄せ集めなので正確には書けないが、悪しからず。
 国連には『表現の自由に関する特別報告』という制度がある。2013年の『特定秘密保護法』成立時に、当時の特別報告者であるフランク・ラ・ルー氏(グアテマラ人)が、国民の知る権利や報道の自由を脅かす危険性があるとして日本政府に再考を求めたが、日本側はこれを無視した、という経過がある。これは、『国際連合広報センター』の記事とフランク・ラ・ルー氏自身のメッセージで確認できる。
   http://www.unic.or.jp/news_press/info/5737/
   https://www.youtube.com/watch?v=w_UW4ogFJvA

 この流れを受けて、現在の特別報告者であるディビッド・ケイ氏(アメリカ人、カリフォルニア大教授)が日本を公式訪問し、昨年の12月1日にから調査を行うことになっていた。これは日程まで調整済みだったのに、日本政府はこれを二週間前にドタキャンしたのである。この経過は、ケイ氏のブログで確認できる。もちろん英文なので、その紹介記事のURLをメモしておく。
   http://bylines.news.yahoo.co.jp/itokazuko/20151120-00051621/

 それによると、調査の受け入れを、今年(2016年)の秋まで延期するというのだ。
 これって、誰でもピンと来ますよね。私の直感はこうだ。
 当初このケイ氏訪問調査の件は、他の様々な案件と一緒に外務省の事務方がアレンジしていたのだが、その精査・稟議の書類が関係部門を通過する間に、安倍か閣僚か自民党か外務省かブレーンか提灯持ちか、その誰かは分からぬが、ハタッと気付いたのだ「これはダメだ、夏の参議院選挙の選挙戦の最中に、都合の悪い報告が出るぞ、野党・マスコミは飛びつくぞ」と。これは断言できますね。そのやりとりが目に浮かぶようだ。

 ところが話は二転三転。今月(2月4日)になって、ケイ氏の調査訪問を4月の中旬に受け入れることになった、というのだ。私がこれを知ったのは『国連・表現の自由特別報告者による日本調査の決定を歓迎するNGO共同声明』」という記事をネット上で見つけたから。つまり正式な発表があったわけでもなく、何らかの報道がなされたわけでもない。この「いつの間にか、そっと」というのがまたクサイ。外務省の担当が急に勤勉になったのでもなければ、NGOの「強い懸念」が功を奏したのでもなければ、外務省がケイ氏や国連に敬意を表したのでもない、と私は思う。
 今度は、選挙戦に突入した際「国連の調査を断ったという事実を野党は攻撃材料にするだろう」と、先の誰かは考えたに相違ない。国連のプラス・イメージ度は高いぞ、さて、どうする? そうだ、調査とその結果報告との間にはタイム・ラグがある、こいつを上手く利用しよう。実質的な選挙戦が始まるまでに(これは公示よりもずっと前だ)「国連の調査を断ったという事実を抹消し」かつ「調査報告が投票日後となる」ために期日設定するとすれば、4月中旬が妥当、ということだったのではないか。
 下種の勘繰だ、などとは言わせない。情報の開示がなく、ジャーナリズムも事実の追求をしないのだから、下々は全てを疑ってかかって当然である。ジャーナリズムが職務を放棄している以上、我々は想像力でそれを代行しようとしているわけだ。残された一本の「蜘蛛の糸」まで放棄するわけにはいかない。

 ここまでは今の日本のジャーナリズムは「なすべきことをしていない」という話であった。これだけでも罪深いのに、次に「してはならないことばかりしている」ことを指摘しなければならない。これはさらに腹立たしい内容となる。稿を改める。

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 −−【その2】了−− 

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