難波駅を出た電車がわずかに右にカーヴすると、つり革に掴まっていた男たちは一斉に右側の窓から外を見やった。
ほんの一瞬、大阪球場のスコアボールドが見えるからだ。
私の家は球場から1キロ以上も離れていたが、物干し場にあがると、観客のあげる歓声が風に乗って流れてきた。
確かに昭和のある時代まで、私たちは「自分の五感で直接」社会の動きを感じとっていたのだ。
この泥濘にはまった自動車を何人もの男が押す写真は『ワトキンス・レポート』復刻版の表紙デザインに使われている。おそらく本文でヴィジュアル資料として採用されたものなのだろう。確かにこの風景は、子供の頃の私たちにとって日常的なものであったように思う。
だが、この写真が訴求するものに対する答えは「主要国道・生活道路の舗装・整備」であって、決して「高速道路の建設」とはならないだろう。
事実、調査団のなかには「高速道路より一般道の整備が先だ」という意見もあったらしい。しかし、そもそも「高速道路建設のための借款」にともなう調査なのだから、それがレポートの本筋になることはなかった。
網野善彦(1928〜2004)
網野史学では「日本」という国号は、期間限定・地域限定で使われる。だから彼にとって初めての通史は「日本史」と言う言葉を慎重に避けて『日本社会の歴史』となった。
彼は最初の章の扉に、富山県が作った『環日本海・東アジア諸国図』を載せている。あの天地が逆になったやつだ。それを見ると、確かに「日本」は太平洋に孤立した島国ではないことが実感できる。【註】
この地図は使用フリーなのだが、許可を採る必要があるので、同じようなものを自作してみた。でも、このコラム用に縮小したら、まったく迫力に欠けるものになってしまった。(涙)
【註】→本文最下段へ
『船形埴輪』
古墳時代中期初頭(4世紀後葉〜末)
大阪市平野区 高廻り2号墳より出土
この写真も『日本社会の歴史』に掲載されている。
大阪市ホームページの「歴史の散歩道」>「今里・平野クコース」>「33.長原高廻り古墳群」には次のような解説がある。
埴輪の全体比率から実物大の船を想定すると、全長約15m、幅約3m、総20〜30トン、数十人を乗せることができると思われ、当時は朝鮮半島や中国大陸との交渉が始まった「倭の五王」の時代にあたり、十分外洋にこぎ出せる船であったことは注目に値する。
樽廻船の模型
永楽勝平さん
(神戸帆船模型の会)作
積み荷には、伊丹・池田・灘などの酒(下り酒)が多かった。樽に詰めて運んだので樽廻船と呼ばれた。
菱垣廻船
積荷の転落防止のため両舷に菱形の垣をたてた。だから菱垣廻船。
「大坂下りもの」の図解
日本財団図書館のホームページより
これらが樽廻船・菱垣廻船の積荷であった。
若狭を中心に日本海を航行したのが北前船
これは平成17年に復元された北前型弁才船『みちのく丸』。現在青森県野辺地町の常夜燈公園横に陸揚されている。野辺地も北前船の寄港地として栄えた町である。本文で引用した『晴子情歌』の主人公福澤一族が住む町でもある。
1904(明治36)年、小樽港の北前船。
明治になっても盛んに航行していたわけだ。
高村薫さん
彼女の小説は、どの一作をとってみても、小説というフォーマットがどこまでの表現能力を持ちうるのかの実験のように思える。どの作品においても、登場人物の「仕事・生業」の詳細が超絶的な根気で書き綴られて行く。それは取材というより民俗学的フォークロアと言えるぐらいの精緻さである。だから一人称で語られる登場人物が執拗なまでの観念の腑分けに入り込んでも、小説が観念論に堕ちることがない。
扇の的を射落とす那須与一
源義経の八艘飛び
月岡芳年の描く俊寛
船弁慶
静御前を大物の浜に残し海上に出ると、すぐに大嵐。見ると、壇ノ浦で滅亡した平家一門の亡霊が。平知盛が長刀を振りかざして襲いかかってくる。弁慶必死でこれを調伏。落語はこの部分のパロディ。
歌川広重の描く『三十石船』
石松代参。
この絵は山藤章二さんだね。
次郎長の子分と言えば、大政、小政、それに大瀬の半五郎 …… 。
まだ、いるだろう、そら、有名なのが。
うーん、そうそう …… 。
そうだ、そうだ、寿司食ぃねぇ。
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『ワトキンス・レポート』への屈服
もうオリンピックなんか、止めてしまえ。 その8
(平成31年 3月28日)
「日本に道路は無い、あるのは道路予定地だけだ」と言った「アメリカの偉い人」とは、ラルフ・J・ワトキンスという経済学者だった。この発言は、どの様な場面で、誰に向かってなされたものなのか? 経緯を少したどってみる。
名神高速道路の建設 世界銀行からの融資
『世界銀行』(World Bank)という組織がある。現在、加盟 189ヶ国。加盟国の政府が債務保証した組織・機関に対して融資を行う金融機関である。
その『世界銀行』の日本向けホームページには『日本が世界銀行から貸出を受けた31のプロジェクト』という一覧が載っている。それを見ると、1953年(昭和28年)から1966年(昭和41年)までのあいだ、つまり戦後復興期から高度成長期にかけての13年間に、日本が何を国家的プロジェクトとしてきたのかがよく分かる。組織体の資金調達能力や、その補填をする国家予算・地方行政予算に限界がある場合、賄いきれなかった部分を「政府が債務保証した組織・機関に対する融資」で補填したわけだから、これは「用途限定の国債発行」と言い換えても同じことだろう。
http://worldbank.or.jp/31project/
一覧を見て一目で分かることは、13年間の前半と後半では融資対象が異なっていること、である。
1953年(昭和28年)から1961年(昭和36年)までの8年間は、ほとんど「製鉄」と「発電」がその融資先である。ところが1961年(昭和36年)からの5年間は、ほとんどが「高速道路」が融資先となる。この後半5年間の「高速道路建設に対する融資」の先鞭を付けたのが、1960年(昭和35年)の『名神高速道路』(尼崎−栗東)への融資であった。
融資額は4000万米ドルであったから、当時の固定レート(1$=\360)で換算すると、 144億円。翌年の(西宮−尼崎)と(栗東−一宮)の延長で、同額4000万米ドルの追加融資があり、つごう8000万米ドル、円換算 288億円の融資を受けた。総事業費予算は1148億円であったから、その4分の1を世銀からの融資で賄ったわけである。
ワトキンス・レポートとは
この融資に際し、世銀から派遣された調査団の団長が、このラルフ・J・ワトキンスであった。彼自身に関してはネットではほとんど情報が得られなかったが、出身はテキサス、当時はニューヨークの「ブルックリン研究所」に所属していた、という。この研究所は、世銀を初めとする政府系機関へのコンサルティング会社だと思って間違いないだろう。今の日本で言えば電通みたいなものか。
この調査団が3ヶ月の調査の結果まとめた報告は、次の文章で始まる。
日本の道路は信じ難い程悪い。工業国にしてこれ程完全にその道路網を無視してきた国は日本の他にない。
すごい書き出しですね。アメリカ人の行う演説とかプレゼンは、演出効果を狙ったあざといものだ、といつも思うのだが、これもその典型だろう。ほとんど扇情的と言っていい。はっきり言って「われわれ日本人の感性」とは合わない。
このあと「一級国道でさえ未舗装率が 77%」に始まって、日本の道路事情の劣悪さが、これでもか、これでもか、というぐらい列挙されるらしい。いま「らしい」と書いたのは、このレポートの原文がヒットしないので、このレポートについて書かれた記事(これは、土建屋さんを初め数多くある)をあちこち参照して、この文章を書いているからである。勁草書房から復刻版が出ているのだが、わざわざそれを買うほど酔狂でもない。以下、くどくなるので「らしい」は省略するが、すべて「又聞き」であることを了解ねがいたい。
日本の道路事情をさんざん扱きおろしたあと、報告は「道路が悪いために輸送コストが高くつき、ひいては国際競争力を弱め、日本経済の発展を妨げている」と指摘し、様々な勧告を行っている。その要点は、次の3点にまとめられる。
1) 高速道路は有料制にすべし。高速道路建設は高くつく。てっとり早く高速道路網を整備するには、有料制で資金を確保すること。
2) ガソリン税とか自動車物品税を道路整備の目的税とすべし。税収の半分を一般道路整備に、残り半分を高速道路建設に当てる。
3) 道路行政に関しては、中央政府に大きな責任と権限を与ふべし。
さらに具体的には、『第一次道路整備五か年計画』(1954(昭和29)年)の規模を拡大し、東京−神戸間の高速道路を早急に建設すること、そのため国民総生産(GNP)の2%程度を道路整備の財源にあてるべきこと、などを提言している。
日本はワトキンス・レポートをどう受容したか?
驚かされるのは、その後の道路行政が、見事にこの報告書の勧告通りに実施され、半世紀以上経過した現在でも、なお頑強に継続していることである。ワトキンス・レポートに関する多くの記事が、その後の日本道路行政に決定的な指針を与えた、と絶賛している。
さらに驚かされるのは、このような報告内容を、「事前に日本側が期待していた」ように思えること、である。
酷道(国道)・険道(県道)・死道(市道)という言葉が残されていることからも分かるように、日本の道路事情の悪さは、従前から日本人自身が十二分に認識するところであった。直接的原因はここでもあの15年戦争であったに相違なく、「道」などといった銃後の社会的インフラはずっと整備されず放置されたままでいた。しかるに、戦後の経済復興にともない、自動車台数は飛躍的に増え、交通麻痺・交通事故が激増するようになる。経済復興や自動車生産は民間の仕事であるが、道路の整備は行政の仕事である。ここでも行政が救いがたく立ち後れていたのである。
根本的な道路整備の計画立案能力に欠け、その必要性を浸透させる広報力に欠け、第一、潤沢な予算を獲得するだけの政治的行動力にも欠けていた。そこで「主要国道の整備、さらには高速道路建設」という気運を昂揚させるため、アメリカという規範・権威に叱咤激励してほしいという「下心」が芽生えていたのではなかったか。
思い起こせば、旧陸軍・海軍の武装解除も、平和憲法も民主主義も、財閥解体も農地解放も、すべてGHQの号令で動きだしたのであった。戦後15年を経過しても、いまだ従来の慣例を打ち破るような道路建設プロジェクトは動き出してはいない。またしてもアメリカに依存するより方法はないのではないか? アメリカという規範・権威に檄を飛ばしてもらうことで、プロジェクトを起動させたい。そう、そうすればきっと上手く行く。関係者は、心中密かに、こう欲していたに相違ない。
行政府首脳たちの自虐的モチベーション
もちろん、ネット上に数多くある『ワトキンス・レポート』に関する記事の、どこを読んでもこのような集団心理の解析が露骨に書かれているわけではない。しかし、一度『ワトキンス・レポート』で検索して、ヒットする記事のいくつかを読んでみていただきたい。それが、丹念に経過をなぞったものであればあるほど、この「下心」が通奏低音のように響いているのが分かる。過去の国家的誤謬を正当に自己の歴史認識に取りこもうとする姿勢を「自虐史観」など揶揄する人たちがいるが、このような日本行政府のモチベーションのあり方こそ、「自虐」そのものではなかったか?
確かに、この時代において既に、アメリカはマーケティング万能の国であった。ラルフ・J・ワトキンスは、このような「下心」を「顧客の要望」として誤ることなく掌握して、あのレポートを書いたのである。
堀を埋め立て大阪の家並みに覆いかぶさった阪神高速を見て、あるいは、開通した名神高速でエンストし路肩のあちこちで白煙を吐く乗用車を見て、「土木技師になりたい」という私の子供らしい願望はたちどころに霧散した。だが、わが行政府の首脳たちは、半世紀経った今でもこの「自虐」に取り憑かれたままである。もっとも、高速道路であろうが新幹線であろうが航空路であろうが、「役所としての管理項目が増えれば増えるほど有り難い」という官僚機構の無限増殖願望がその正体なのだろうが。
だが本当にそれで良かったのだろうか?
人口減少、つまり、人と人との有機的結合としての社会の縮小、という不可避の現実を前にして、いつまでも高速道路の延長を続けて行って良いのだろうか?
現に、ドル箱路線を有する一部を除いてJRの各社の赤字は深刻度を増し、花形路線であったはずの航空各社も構造的赤字体質に転落して久しい。市場規模にも潜在需要にも当然限界があるはずだ。ここに及んで、まだ高速道路を延長し、さらにリニア新幹線を併設するというのか!
もう一度、アメリカから「日本に道路は無い、あるのは道路予定地だけだ」という言葉を授かった時点に立ち戻って、本当にそれで良かったのだろうか、と問い直すべき時に来ている。
耳の穴 かっぽじて聞きな ワトキンス、 倭寇の国だぜ日本は。
では「日本の道路は信じ難い程悪い。工業国にしてこれ程完全にその道路網を無視してきた国は日本の他にない」というワトキンス・レポートに、我々はどう対応すれば良かったのだろう?
何も難しいことではない。ただ、少し冷静になれば良かっただけ、ではないのか?
問いには、問いを返せば良い。「これ程完全にその道路網を無視してきたのに、それでも曲がりなりにも日本が工業国であり得たのは何故か? どう思われますか、ワトキンスさん。」と。
日本と西欧諸国とでは、国土レベルで見て、その立地条件がまったく同じなのだろうか?
ましてアメリカとでは?
多くの理屈は不要であろう。そもそも「日本の国土とは一体どの様なものだったのか」を的確に表すデータがありさえすれば良い。下の表を見ていただきたい。私が作成したものであるが、ネットでデータを拾って、作成するのに、ものの10分もかかっていない。
世界の国々の「海岸線の長さ」に注目し、最長の国から順番に第8位までを並べた。日本は第6位、アメリカは第8位なのである。右にその国の国土面積を並記し、次に「国土面積1ku あたりの海岸線の長さを」求めた。
この「国土面積1kuあたりの海岸線の長さ」でランキングを作ると、この8カ国だけで言うなら、1位ノルウェー、2位フィリピン、3位日本、なんですね。この並びからすぐに連想されるのは、
ノルウェー → バイキング
日本 → 倭寇 じゃないでしょうか?
もう答えを言ったのも同じですよね。
海によって開かれた地域と国々
日本は極東の海に浮かぶ「孤立した島国」ではなく、「海と河川によって各地域が結びついた国」、さらには、「海によって近隣諸地域・近隣諸国に開かれた国」ではなかったのか!。
「国土面積1uキロあたりの海岸線の長さを」で、アメリカと日本を比較すると、アメリカの「2.2m」に対し日本は「 79.4m」。なんと36倍の海岸線を持っている!
1620年、102人のピルグリム・ファーザーズがマサチューセッツ州プリマスに上陸して以来、入植者たちはひたすら西をめざした。道を作って内陸から西海岸を目指すこと。これがアメリカの建国アイデンティティーだった。
しかるに、日本とその近隣諸地域ではどうだったか?
メイフラワー号の大西洋横断より1000年以上も前の西暦 552年、百済の聖明王は、奈良盆地南部に中心があった「倭」(まだ日本という国号は使用されていない)に仏教を伝えた。高句麗・新羅と争っている百済に「倭」は援軍を送っていた。その見返りとして聖明王は、当時の「先端的思想・技術の総体としての仏教」を伝えようとしたのである。大命を受けた渡来人たちは、船で対馬を経由し玄界灘を渡り、関門海峡から瀬戸内海に入り、大阪湾から大和川を遡上し、そのまま「倭」の中心地域(現在の奈良県桜井市あたり)に上陸したと思われる。
これが半島と列島の交流の姿だ。ツィッターでこそこそと、あるいは、わざわざ韓国まで出向いて対韓ヘイトを叫ぶへたれ官僚の下っ端ども、よく聞いておけ!
この様に、海運と水運でネットワークを作るのが、わが日本列島におけるロジスティックスの基本形態だった。これが二千年以上も続いてきた。日本には、「アッピア街道」も「ルート66」も必要なかったのである。それどころか、陸上の立派な道路は、内戦時には、兵力の移動と兵站活動のためのツールとして機能する。このことをよく理解していた江戸幕府は、攻めることより、守ることを優先し、あえて道路整備をしなかったのである。これが日本社会が遵守してきた原則であった。
これが日本なのだ。日本会議に群がるへたれ政治家ども、よく聞いておけ!
あっ! いま、気が付いたのだが、この原則の各時代の詳細は、私が大汗かいて下手な作文をしなくとも、近在の図書館から借りている本の所々を、そのまま引用すれば良いではないか!
その本とは次の2冊
網野善彦『日本社会の歴史 (上)(中)(下)』岩波新書
高村薫 『晴子情歌(上) (下)』 新潮文庫
では、早速、古い時代から順番に。合計5カ所を引用させていただきます。長い引用になりますが、しっかり読んでください。
網野善彦『日本社会の歴史』より
1) 縄文時代
網野善彦『日本社会の歴史(上)』17p.『分業の進展と広域的な交通』
狩猟・漁撈をはじめ、こうした建造物の構築などは、もっぱら集団の組織的な労働によって行われたと考えられるが、こうした集落は贈与・互酬によって相互に結びつくとともに、恒常的・広域的な交易によって支えられていた。伊豆諸島の神津島(こうづしま)の黒曜石が広く内陸部に分布し、能登半島にまで至っているように、黒曜石は各地で交易を前提として生産され、土器によって海辺で大量に生産された塩も、多くの木の実を食べる内陸部の人びとの必需品として交易のために焼かれたのであり、海の産物と山の産物との交換も活発であった。また秋田県・新潟県などで採取された接着材としてのアスファルトが、北海道から東北一帯に広く流通していたように、船を駆使し海を越えて、交易は恒常的に行われており、人の力をこえた世界、原初的な市庭(いちば)に生産物を持ちこんで世俗と縁の切れた物品−商品とし、これを交換することもすでに始まっていたであろう。
2) 13世紀後半
網野善彦『日本社会の歴史(中)』173,174,175p.『陸海交通・交易の活況と繁栄する都市』
もとよりこうした金融業者、商人、職人の活発な活動、信用経済の発展の背景には、多様な生業の発展、河海の交通の顕著な展開、廻船の活発な活動があった。とくに馬借・車借などによる陸上交通で京都と結ばれた宇治川、淀川から瀬戸内海、北九州にいたる海上交通は、最もさかんな海の道の一つで、上賀茂・下賀茂の供祭人、石清水八幡宮神人に加え、熊野神人も廻船人として進出しており、北条氏の保護を得た西大寺流の律僧も海上交通に深く関与し、関を立てて勧進を行い、港湾や河川交通のための土木事業、造寺を推進した。兵庫、福泊(ふくどまり)、牛窓、尾道、竃戸(かまど)、赤間(あかま)、門司、博多、今津、神崎などの海辺の津・泊には繁栄した港町が形成され、内陸部にも高梁川(たかはし)にそった新見(にいみ)市庭のような都市が成立した。
一方、日本海から琵琶湖に入る海上・湖上交通も活発で、北陸道の日吉神人、上下賀茂社供祭人、山陰道の石清水八幡宮神人のような神人だけではなく、関東御免津軽船二〇艘とよばれる日本海沿海の要津の大船が、北条氏によって関料免除の特権を与えられ、津軽にいたる海域で交易に従事した。それにとどまらず、日本海には塩や海産物、農産物を積んだ津々浦々の大小の船の往来も活発であり、これらの動きは、このころ交易の民としてサハリン、アムール川、北東アジアまでその活動を展開していたアイヌの動きとも結びついていた。こうして琵琶湖の大津、堅田、船木、日本海の小浜、敦賀、三国湊、輪島、十三湊等々の要津にも多くの港町が形成され繁栄したのである。
太平洋岸の海上交通も同様にさかんで、熊野神人、伊勢神人、蔵人所供御人などの活動が顕著であり、これらの人びとは紀伊半島を拠点に、東は伊豆・三浦・房総半島から霞ケ浦を経て東北まで、西は土佐から南九州にいたるまでの海上活動を展開していた。たとえば、十四世紀初頭、志摩阿久志島(あくしじま)の商人的領主が駿河国江尻に弟を住まわせ、そこを出張所とし、坂東と銭何千貫に及ぶ大量の取引を行っているなど、この海域でも大規模な交易活動が展開されており、泊(鳥羽)、大湊、安濃津、桑名をはじめ武蔵の木浦、品川、神奈川にいたる太平洋沿海地域に、やはり多くの港町が生まれ繁栄しつつあった。さらに、塩崎、泰地(たいじ)などの熊野神人は瀬戸内海にも進出しており、土佐や薩摩にもその活動は及んでいたと思われ、坊津は南島との交易の拠点ともなっていた。そして沖縄諸島は中国大陸南部、東南アジアとも交易で結びつくようになりはじめていたのである。
3) 17世紀後半
網野善彦『日本社会の歴史(下)』135,136p.『都市消費の拡大と流通』
巨大都市三都−−江戸・大坂・京都をはじめとする各地の大小の都市、城下町と、制度的には「村」とされた膨大な数の都市(能登の輪島、備中の倉敷、周防の上関(かみのせき))などの発達にともなう消費需要の急激な拡大に応じ、米については大名の年貢米の輸送・販売を含む商人による大量な米輸送が活発化するとともに、大坂の堂島(どうじま)に米市場が成立、米切手(米手形)がさかんに流通し、世界で最も早いといわれる米の先物取引が行われるほどになったのも、このころとされている。
このように有利な商品としての米を生産・獲得するため、商人たちは巨大な資本を新田開発に投下し、各地で湖沼、潟などを埋め立て、大河川の下流域に大規模な水田がひらかれはじめた。列島の自然環境はこうした開発によって大きく変貌していった。
また、魚肥などの金肥を必要とする棉作、菜種作などが近畿を中心に急激に発達するにともない、鰯(いわし)を求め、紀伊半島の漁師、魚商人たちは、西は瀬戸内海から九州に、東は関東・東北
に出漁し、大規模な網漁業を展開する一方、近江や能登などの商人たちは、松前領のアイヌとの交易の場、商場(あきないば)でもある「場所」を請け負い、昆布、煎海鼠(いりこ)のような北の特産物を入手、出稼ぎの漁民やアイヌを雇用して大規模な鰊(にしん)の漁業を行った。
紀伊出身の栖原屋角兵衛(すはらやかくべい)や飛騨の飛騨屋久兵衛(ひだやきゅうべい)などは、十九世紀にかけて北海道からサハリンまで進出したこのようなタイプの商人の好例であるが、能登、越中、佐渡などの多くの商人、廻船人が松前に渡り、そこに移住するようになった。さきのような北の産物はこれらの商人により、大坂はもとより、薩摩から琉球国をへて中国大陸まで、大量に運ばれていったのである。しかし反面、こうした商人の北海道進出にともない、アイヌに対する収奪、圧迫は次第にきびしさを増していった。
こうした大量の物資の輸送は、すでに十六世紀までに形成されていた列島全域に及ぶ廻船人のネットワークを、さらに整備、安定したものとした西廻り・東廻り廻船や大坂と江戸とを結ぶ菱垣廻船域(ひがきかいせん)樽廻船(たるかいせん)などの各種の廻船によって軌道にのり、列島の海辺、半島や島にはかつての海民出身のこうした廻船人、商人が広範に姿をあらわしてきた。
高村薫『晴子情歌』より
続いて『晴子情歌』から。時代は、1935年(昭和10年)。
まず、河川の水運を利用した杣人の活躍と、その同じ人間が、季節が変わると漁民として北の海へ乗りだす様子。この本は主人公の晴子が語り部として登場するのですが、ここは晴子の従兄弟に当たる人が述懐する部分。ここの川とは、江差の北を流れる厚沢部川(あっさぶ)。谷川巌とは、晴子の初恋の相手です。
4) 20世紀前半、1935年(昭和10年)の厚沢部川
高村薫『晴子情歌(上)』345p.
…… 昔は春先にそこの川で流送というのがあったんですが、この辺りでは伐採した原木に乗って川を下ってくる連中は憧れの的でしてね、江差(えさし)から女学生や芸妓が見物にきたぐらいだった。うちの親父も、漁場でずっと巌の面倒を見てきて、あれは間違いなく将来は大船頭になる男だといつも言っていましたし、巌も子どものころから自分はいつか日魯(にちろ)の青い制服を着るんだと言っていた。実際、二十歳のころにはもう、親父がカムチャツカで預かっていた四ヵ統のうち一ヵ統を仕切るようになっていたと思いますが、毎年秋の終わりに土場に帰ってくるときには、ぼくの妹も含めてもう村じゅうが大騒ぎだった。熊の毛皮のコサック帽を被って、革の編み上げ靴を履いて、外套の裾をひるがえして、うちの親父と並んであの土場の街道を颯爽と歩いてくるんです、谷川巌が……
最後に、海運で栄えた町、江差の様子。これは晴子自身の語りです。
5) 20世紀前半、1935年(昭和10年)の江差
高村薫『晴子情歌(上)』382p.
さうして江差の町へ入ると、そこはもう土場、田澤、泊(とまり)、大澗(おおま)の海邊(うみべ)の集落とは一轉(いってん)した瀟洒(しょうしゃ)な市街地で、なかでも松前藩の時代から北前船の交易と鰊(にしん)で栄へた豪商の末裔たちがなほも大きな屋敷や商家を聯(つら)ねる、海沿いの通りを中歌町と云ひました。私が子守をしてゐた海産物店も竝(なら)びの商家もみな、船から直(じか)に荷揚げの出来るハネダシと云ふ倉庫を持ち、玄関の土間に立つと通路の奥に自前の桟橋と濱があつて、それはもう豪勢な構へでした。
古譚とか、歌舞音曲とか
こんな風に、日本社会の歴史は、海と川の存在、つまり海運と水運によって営まれてきたのだ。 最後に、ちょっと古譚や歌舞音曲に思いをはせてみよう。思いつくままに並べても、同じことが言える。
七福神は宝船に乗ってやって来る。桃は川の上流から流れてきて、成人した桃太郎は鬼ヶ島に向かう。浦島太郎は亀の背に載って竜宮城へ往く。
『平家物語』はじめ軍記物は、与一の『扇の的(屋島)』や義経の『八艘飛び(壇ノ浦)』など、水軍と水軍の戦いを語るが、その外伝である近松の『平家女護島』でも、俊寛は鬼界ヶ島に流されており、ときおりやって来る船に硫黄などを売って生計をたてている。
清水次郎長は幕末の侠客として知られているが、もとは富士川水運を利用して、信濃・甲斐の年貢米を江戸に運ぶ廻米問屋の息子であった。だから森の石松は、海上交通の守り神である金刀比羅宮へ代参する。例の「寿司食いねぇ」の舟は、京伏見からの三十石舟なのか、大坂から讃岐に向かう舟なのか、私にはよく分からない。
紀伊國屋文左衛門は、塩鮭やらミカンやらを大量に買い付けて、海路で品薄の都市へ運ぶことで富を得た。これがミカン船伝説となった。
謡曲『船弁慶』は、一行が淀川を下り、静御前を残して、尼崎大物(だいもつ)浦から義経と弁慶が船出する話である。そのパロディになっている上方落語『船弁慶』では、大川(旧淀川本流)での川遊びが描かれる。上方落語と言えば、『野崎詣り』は屋形船で詣るわけだし、東の旅の最後は、乗客のすべてが鴻池善右衛門と名乗ることで笑わせる『三十石夢乃通路』である。そう言えば、鴻池善右衛門も、大坂−江戸の海運と、諸大名の参勤交代や蔵物の輸送で富をなしたのである。
近代文学でも、鴎外『高瀬舟』や山本周五郎『青べか物語』など、舟が大道具として用いられているものが多い。
枝雀さんは、歌は苦手だが『あこがれのハワイ航路』だけは何故か歌える、というが、この私も、歌謡曲は苦手なのだが『涙の連絡船』だけはソラで歌えるのだ。
話を元に戻そう。
「日本の道路は信じ難い程悪い。工業国にしてこれ程完全にその道路網を無視してきた国は日本の他にない。」というワトキンス・レポートには、こう返しておけば良かったのである。
ワトキンスさん。
日本社会は二千年以上も前から、海運・水運のネット・ワークを形成し、きわめてダイナミックな物流を行って来たんですよ。
明治以降は、それに加えて鉄道網を全国に張りめぐらして、近代化による物量増加に対応してきました。
それが日本、日本なんですよ。
アメリカのテキサス州のような、だだっ広いだけの田舎と一緒にしないでくれたまえ。
【註】『環日本海・東アジア諸国図(通称:「逆さ地図」)』
http://www.pref.toyama.jp/cms_sec/1510/kj00000275.html
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