難波駅を出た電車がわずかに右にカーヴすると、つり革に掴まっていた男たちは一斉に右側の窓から外を見やった。
ほんの一瞬、大阪球場のスコアボールドが見えるからだ。
私の家は球場から1キロ以上も離れていたが、物干し場にあがると、観客のあげる歓声が風に乗って流れてきた。
確かに昭和のある時代まで、私たちは「自分の五感で直接」社会の動きを感じとっていたのだ。
本文があまりにも情けない話になったので、コラムでは、趣味の領域で遊ばせてもらいます。小池百合子の顔写真なんか貼り付けたって、だれも喜ばないでしょう。
今回「ワルプルギスの夜」という言葉がでてまいりました。
文学少年ならば、ゲーテのファウストでしょうが、クラッシック音楽マニア歴60年の爺ぃなら、すぐに連想するのがベルリオーズの『幻想交響曲』です。
この曲は多くの映画に引用されています。例えば『シャイニング』の冒頭、ジャック・ニコルソンが、山間のホテルまで車を駆るシーン。あの時流れるのが、第5楽章『ワルプルギスの夜の夢』です。
クラシックの超定番曲です。もう何種類の演奏を聴いてきたか、数えることも出来ません。
その中から、今日は、聴いた印象が少しでも記憶に残っているディスクをピック・アップして、そのディスク・ジャケットを並べてみました。
どのレコード・CDも装丁を変えて、繰りかえし発売されています。リリース会社はコロコロ変わるし、オーケストラ名だって変わっている場合がある。
そこで、忘却の彼方に消えつつある記憶を呼び戻して、初回リリース当時のジャケットを探してみました。
ベルリオーズにも幻想にも興味のない人でも、視覚的に楽しんでいただけるはずです。
つくづく思うのですが、LPレコード一枚が極めて貴重であった時代ほど、ジャケットも美的に鑑賞に堪えるよう創られているようです。
では、
1830
『幻想幻想交響曲』
"Symphonie fantastique" 完成
エクトル・ベルリオーズ
(Hector Berlioz)
べートーヴェンの音楽と比べると、うんと新しい、時代が違う、という感じがしますが、実は、べートーヴェンの『合唱』の、わずか6年後に完成しているんすね、この曲。
1954
シャルル・ミュンシュ
ボストン交響楽団
RCAビクター
驚いたことに、すでにステレオ録音だったんです。
1958
アンドレ・クリュイタンス
フィルハーモニア管弦楽団
EMI
つい最近、クリュイタンスのセット物を買ったので、聴き直すことができました。
1967
シャルル・ミュンシュ
パリ管弦楽団
EMI
ミュンシュ、最後の録音。使われている絵はオディロン・ルドンの「海の底」です。
1973
ジャン・マルティノン
フランス国立放送管弦楽団
EMI
マルティノンが1963年に来日した時、大阪で幻想を振ったので、聴きにいきました。日本の某有名楽団を指揮したのですが、さんざんトチってばかりいました。その楽団の名誉のため、名は伏せておきます。
このLP、発売と同時に買いました。今でもキャビネットの中にあります。エロティックで良いわ。
1974
コリン・デイヴィス
アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
フィリップス
70年代のフリップスの録音が大好きでした。なかでも、デイヴィス、コンセルトヘボウの組み合わせが最高。ジャケットも最高。
1977
ロリン・マゼール
クリーブランド管弦楽団
CBSコロンビア
マゼールはヴァイオリンの名人ですから、特に弦楽セクションには注文が多いようです。その結果、弦の刻みなどがとても躍動的。
1982
ロリン・マゼール
クリーブランド管弦楽団
テラーク
マゼールの再録音。オーケストラも同じ。ここから、デジタル録音の時代です。当初は、マスターはデジタル、パッケージはLPという、中途半端な製品群がしばらく続きました。でも、このあたりから、ジャケット・デザインがダサくなってきますね。
1983
クラウディオ・アバド
シカゴ交響楽団
ドイツ・グラモフォン
アバドの演奏が好きで、たくさんのディスクを買いました。でもグラモフォンのジャケット・デザインは好きになれないなあ。黄色のエンブレムが邪魔。たぶんカラヤンがブランド・イメージを重要視したためだと思う。ザルツブルク音楽祭に出かけた人が、町中が黄色のエンブレムに溢れていた、と嫌味を言ってました。
1993
チョン・ミュンフン
パリ・バスティーユ管弦楽団
ドイツ・グラモフォン
チョン・ミュンフンの演奏は、威勢が良い。どんなオーケストラでも爆音を聴かせます。
1984
シャルル・デュトワ
モントリオール交響楽団
デッカ
デッカの録音には定評があるが、ジャケット・デザインの手抜き加減はグラモフォンと良い勝負です。まぁ、聴いて楽しむには、何の支障もありませんが。
2003
スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ
ザールブリュッケン放送交響楽団
エームス・クラシックス
現在の録音は、大手よりも、エンジニアのオヤジが一人でやってます、という小さな会社の方が優れています。その差は圧倒的です。
この "OEHMS" というおじさんの録音、好きやゎー。大好き。
スタニスラフ・スクロヴァチェフスキも大好き。名前がやたらと長いので、"Mr.S"なんて呼ばれていたらしい。でも、早口ことばの練習に使えます。
音にばかり関心がいくから、ジャケットの方は、かなり手抜きかも。
2008
ジョス・ファン・インマゼール
アニマ・エテルナ
ジグ・ザグ・テリトリィズ
インマゼールさん、最初は復刻したフォルテ・ピアノを使って、モーツァルトのソナタなどをリリースしていました。
古典復刻好きが昂じて古楽器のオーケストラまで創ってしまった。そのアニマ・エテルナが演奏するベートーヴェンを聴くと、編成が小さい分、マイクが演奏者に接近してるためでしょう、極めて生々しい。弦の擦れる音や、管楽器の風切り音まで聞こえます。
その勢いで幻想まで演ったのがこれ。古楽器と言うけれど、響きは逆に現代的で切れ味が良い。
ジャケットも、久々に健闘してます。
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「夜の街」は魔女の夜宴?
フェイク・ニュース化するコロナ報道
『コロナ・パンデミックから何を学ぶか?』 その4
(2020年07月05日)
首都圏を中心に、新型コロナウィルス(COVID-19)感染がジワリと再拡大している。しかし、政治家も、行政も、マスメディアも、初期の緊張感をすっかり失ってしまったようだ。
さらに忌々しきことに、ウィルス感染拡大以上の速度で蔓延し始めているものが二つある。
一つは、根拠の希薄な楽観論。
もう一つは、コイツが悪いという「感染源捜し」である。
報道がフェイク・ニュース化している。
産経ニュースの 小池百合子 会見報道。泥酔者の与太話か、これ?
『産経ニュース』(2020年7月1日 21時12分)
〔見出し〕都内感染増実態は… 積極検査、軽症の若者多く 「余裕ある」医療態勢
〔リード〕新型コロナウイルスの感染再拡大が懸念される東京都について、小池百合子知事らが「第2波ではない」などと冷静な発言を繰り返している。日々の新規感染者数が第1波のまっただ中だった3月末の水準に戻っているが、積極的な検査で軽症や無症状の若者が多く見つかっている実態があるからだ。最も重視する医療提供態勢にゆとりが保たれているのが何より大きい。
〔本文〕
都内の1日の新規感染者67人は3月28日(64人)、同29日(72人)と同程度の水準。当時はこの後 100人を超える日が続き、4月7日の政府の緊急事態宣言につながった。
ただ、5月25日の宣言解除の前後で感染者の年代構成を比較すると、傾向の違いが顕著にみえる。同25日までの累計感染者5155人のうち、20〜30代は1822人で 35.3%。一方、同26日〜今月1日の累計感染者1137人の中では、20〜30代が 68,1%の 744人と際立っている。
感染者が出た新宿のホストクラブで、無症状を含む全ての従業員に集団検査を行ったことなどが影響。小池知事は1日、「検査を増やせば、感染者はおのずと増える。無症状の人がそのまま活動するより、感染確認ができることを前向きに捉えたい」と述べ、「医療態勢が逼迫(ひっぱく)しているかが一番重要」と強調した。
都が1日から試行を始めた7項目の新指標では、新規感染者数などの感染状況が3項目だったのに対し、入院患者数や重症患者数などの医療提供態勢が4項目と比重が置かれた。
原則として中等症以上が入院、軽症・無症状は宿泊施設や自宅での療養にすみ分けられる中、1日時点の入院患者は 280人、うち重症患者は10人にとどまり、医療態勢には「余裕がある」(小池知事)。宿泊・自宅療養を含めた入院患者のピークは5月6日の2974人だった。
都の計画では感染状況に応じ、確保する病床数を1千床(レベル1)、3千床(同2)、4千床(同3)に段階的に引き上げる。小池知事によると、患者が今後増え続けた場合、速やかにレベル2に移行できるように医療機関にすでに準備を依頼しているという。
都関係者が憂慮するのは家族内感染などにより、若者から重症化リスクの高い高齢者に伝播(でんぱ)することで、「若者の感染者の増加が他の年代に飛び火しないように、引き続き注視していく」と気を引き締めた。
https://news.infoseek.co.jp/article/sankein_lif2007010059/
『産経ニュース』と銘打ってネット上に公開されている以上、記者も新聞社も「これはニュースである」という自負心をもって、この記事を公開しているはずである。だが、この文章、はたしてニュースとしての体を為しているだろうか?
おそらく東京都知事小池百合子の記者会見がネタになっているのだろうが、私には泥酔者の与太話のようにしか聞こえない。
責任回避の報道手法
公表される事実が耳目を驚かすようなことであるならば、それを伝えるだけでニュースになるだろう。しかしこの場合は違う。「都内感染増」はすでに周知の事実となっている。その既知なる事実に対して小池百合子が認識・判断を述べている、という場面である。一私人の感想ではなく、東京都の首長としての公式見解を開陳している。ならば、ジャーナリズムには、それをジャッジメントする使命があるはずだ。『夕刊フジ』のようなタブロイド紙ではなく、れっきとした一般紙・商業誌の『産経新聞』なのだから、なおさらのことだ。まさか、東京都の広報業務を代行すればそれで良しと、考えているわけではないだろう。
この記事が不誠実きわまるのは、小池の会見内容をそのまま拡散しようとしているのか、あるいは、新聞記者・新聞社としての判断を加えて報道しようとしているのか、その基本的スタンスすら曖昧にしている点にある。速い話、新聞記者・新聞社としての報道責任を予め放棄しているわけだ。
記者は、「小池百合子知事らが〔第2波ではない〕などと冷静な発言を繰り返している」と書き始める。この「 …… などと冷静な発言」という言い回しには、「小池百合子知事ら」に対する批判的なニュアンスが感じられる。「小池百合子知事ら」の発言(この「ら」が何を指すのか、不明であるが)を、新聞社としてはそのまま鵜呑みにはしませんよという、雰囲気だけを演出している。
その後の展開は、おそらく小池の会見内容の要約でしかないのだろう。だが、読みようによっては、新聞社の独自の調査と判断である、と読めないこともない。発言責任の主体が極めて曖昧な綴り方なのだ。
最後の、「 …… と気を引き締めた」に至ってはもう笑うしかない。急に執筆者という主体が小池に憑依したかのようである。つまりは、小池はさんざん楽観的な見解を述べまくったが、決してぼんやりしているわけではないのだ、とキッチリ小池の擁護に回っているわけだ。
やたらと数値が並べられるのは「小池流のエビデンス」なのかもしれない。同じ東京都知事候補の宇都宮健児さんが、東京都の出す感染者数の数値はおかしい、数値操作をしているのではないか、と発言している。おそらく宇都宮さんの方が真実に近いと思うが、ここで数値の検証に立ち入る余裕はない。
だが、小池の出している数値をそのまま採用しても、さらに、この文章が小池の判断であるにしろ、記者の判断が加わったものであるにしろ、ここで述べられてることはほとんど論理的に成立しないと思われる。しかも恣意的な悪意をたっぷりと含んでいる。
若者の感染者比率が高くなったことは、吉兆か?
〔リード〕で、「日々の新規感染者数が第1波のまっただ中だった3月末の水準に戻っている」にも関わらず、「小池ら」が冷静でいられる理由として、「積極的な検査で軽症や無症状の若者が多く見つかっている実態があるからだ」と述べ、さらに、
〔本文〕で、緊急事態宣言解除までとそれ以降の、20〜30代の感染者、を数値比較している。
20〜30代の感染者数
5月25日(緊急事態宣言解除)まで、1822人(35.3%)
5月26日(緊急事態宣言解除)以降、 744人(68,1%)
根拠の極めて希薄な理屈をあまりにも堂々と述べられると、うっかり読み過ごしてしまいそうになる。しかし、繰りかえし読んでみて、エッ、本気かよ? と思わず叫んでしまった。
小池のオバハンも、産経の記者も、数ヶ月前自分たちがさんざん繰りかえしていた文言を、もうスッカリ忘れてしまったのだろうか?
コロナ感染の初期にさんざん繰りかえされた文言とは、次の通り。
もう検索して実例を示す手間を省きます。だって、皆、よーく覚えているだろうから。
コロナウィルス新型肺炎に罹患しやすく、かつ重症化しやすいのは、慢性的疾患を抱えている人、もしくは高齢者である。
この文言は、いささか曖昧な意味合いで使われていたと思う。若年層や壮年層は感染しにくい、あるいは感染しても重篤化しない、と断言しているわけではなかった。今までの報告例から、そのような傾向が見られる(かも)、と云う程度の情報提示であった。感染拡大の初期段階であったから、どのような情報であれ、とにかく流しておこうとする姿勢に問題はなかった、と思う。
ただし押さえておくべきは、これが、それほど心配することはないという「楽観的見通しの根拠づけ」として用いられたフレーズだった、という点にある。目下のところ観察できる傾向から読み取れば、とりあえず今は大騒ぎしなくとも良いのではないか、という意味合いを匂わせていたのであった。
ただし、どのような疾病であれ、既往症の持ち主や高齢者が罹病しやすく重篤化しやすいのは常識である。そんな事、言われなくとも分かっている。だから、この論理は、データが積み重なってコロナ感染との関連が見られなかったとしても、間違っていたとは言えないのである。ただ、因果関係が証明されなかった、というだけの事である。
それが、今回は逆転している。
若者の感染者比率が高くなっている。だから安心せよ、と言っている。何だ、コレ。
常識の裏をかく詭弁
我が国のコロナ感染において、当初は高齢者の罹病率が高かったのに、ある時点から若年層の比率が高くなった、という事実がある。その理由は、誰でも見通している。専門的知識や特別なデータやの積み重ねがなくとも。
最初、コロナウイルスは国内の生活圏・経済圏には存在しなかった。
既にコロナウィルス汚染された地域に居住してる人、その地域を訪問した人、コロナウィルス感染者と接触する機会のあった人が、まず罹病した。
これに相当するのは、武漢居住者を除けば、海外旅行者やクルーズ船の乗客たちであった。すなわちリタイヤ組(ただし経済的に余裕のある)である。当然のこととして、高齢者の罹病が高くなる。
だから、対策は、コロナウィルスの国内侵入防止、水際作戦で良かったわけである。
ところが現在、日本の生活圏・経済圏に、コロナウイルスは定着してしまっている。特に首都圏は濃厚に汚染されている。
高齢者は罹病を恐れて引きこもることが出来る。だが現役世代はそういう訳にはいかない。在宅勤務が可能なのはデスクワークだけである。現業は現場に出向いて、サービス業は顧客と接して、初めて仕事になる。やむなく汚染された経済圏のなかでの行動を強いられる。だから罹病する。
すでに水際作戦とか隔離作戦とかは対策にならない。日本の生活圏で生活し、日本の経済圏で働かざるを得ない若者が感染するのだ。
若者の罹病率が高くなった、ということの中身はこういうことだろう。
今書いた一行ごとに、当たり前だ、猿でも分かる、と合いの手を入れたくなるほどの常識的理屈である。
その現実に対して、若年層の罹病率が高くなっているから心配することはない、とはよく言えたもんだね、都知事さんよ、大新聞さんよ。
新聞記事のトップにある〔見出し〕を、もう一度見てみよう。
その前半分は、こうだ。
「都内感染増実態は… 積極検査、軽症の若者多く …… 」
これは、小池の発言と新聞記事を、もっともらしくみせるためのミス・リードである。
若者の感染率が高く見えるのは、積極的に検査件数を増やしたからですよ!
若者の罹病率が高いといっても、ほとんどが軽症者ですよ!
冒頭にこう述べて、記事内容全体の詭弁性を隠蔽しているわけだ。
医療態勢に余裕がある、という大ウソ
〔見出し〕の後半部分は?
「都内感染増実態は… …… 「余裕ある」医療態勢」
「医療態勢には余裕がある」だと! 真っ赤なウソじゃないか。
本文は大半を費やして、医療態勢に余裕があることを説明しようとしているが、論旨は支離滅裂で、何が言いたいのかサッパリ理解できない。ただ一向(ひたすら)に、余裕があるという雰囲気だけ、を振りまいている。一節だけ引こう。
「原則として中等症以上が入院、軽症・無症状は宿泊施設や自宅での療養にすみ分けられる中、1日時点の入院患者は 280人、うち重症患者は10人にとどまり、医療態勢には「余裕がある」(小池知事)。宿泊・自宅療養を含めた入院患者のピークは5月6日の2974人だった。」
この小池の記者会見は7月1日のことだった。同じ日、日本記者クラブでは、永寿総合病院の湯浅祐二院長が記者会見を行っている。院内感染で多数の死者がでた病院なので、名前を覚えておられる方も多いだろう。安倍も小池も、「医療崩壊」という言葉を禁句としているようだが、永寿総合病院の事例はまさに医療崩壊ではなかったのか?
永寿総合病院では3月23日、患者2名の陽性が確認され、以降5月23日までに患者やその家族ら 131人、職員83人の計 214人が感染、患者43人が死亡した。院長は会見で「原因は新型コロナだと疑うのが遅れ、感染予防策が不十分だったと説明。亡くなった患者や遺族に〔深くおわび申し上げる〕と謝罪した」(東京新聞7月2日)。
湯浅院長は、日本社会の通例に従って、弁解・弁明と受け取られるようなものの言い方を避け、自らの非を認める謝罪に徹している。大変なご苦労をなさったはずなのに見上げたものである。(政治家どもも、ちったぁ、見習ったらどうだ。) だが、我々は、院長の謝罪の言葉を額面通り受け取って、病院の判断ミスと不手際が悲劇の原因だと、決めつけて済ます訳にはいかない。
永寿総合病院は、日本の医療現場の典型である。
実際、永寿総合病院の医療現場はどのような状況に置かれていたのか?
引用したい証言はたくさんあるが、一つだけ引こう、会見時に配布されたと思われる「職員手記」には三編の手記が載せられているが、そのなかで <血液内科医師> が書いた一編がある。その一節である。
当院の患者層の特徴としては、大学病院など高度医療機関から依頼され、転院となった治療歴の長い、高度に免疫機能が低下した高齢者が多く、アビガンやその他の良いと思われる治療薬などを投入するも効果に乏しく、残念ながら最終的に血液内科だけで23名の患者様がお亡くなりになりました。
「大学病院など高度医療機関から依頼され、転院となった治療歴の長い、高度に免疫機能が低下した高齢者」と表現されているが、身内に高齢者がおられ、入退院を繰りかえしたり、不幸にして見送られたりしたような家庭なら(たいていの家庭がそうだろう。時期がずれるだけだ。我が家だってそうだ)身につまされる思いがするだろう。高齢者の場合、重篤な時期を脱して一進一退の病状となった場合、何時までも「大学病院など高度医療機関」に入院しているわけにはいかない。家族は、いわゆる「介護療養型病院」を必死で探さねばならない。見つけた先も入院期限が限られている場合が多く、休む間もなく転院先を探す必要に迫られる。
だが、「療歴の長い、高度に免疫機能が低下した高齢者」には、治療、看護、介護のすべてに渡る手当が必要となる。この様な、言葉を飾らずに言えば、「医療収入が低いのに手間がかかる」高齢患者を受け入れてくれる病院は、ほとんどが、この永寿総合病院のような私立病院なのだ。そしてこの様な病院は、間違いなく、経営者と職員の必死の頑張りで支えられている。コロナ感染という非常時でなくとも、まったく余裕・余力のない状態なのだ。そこにコロナ感染の患者が殺到すればどうなるか。『最も弱い環の原則』どおり、医療崩壊はそこから始まるのである。
小池よ、「医療態勢には余裕がある」などと、よく言えたもんだ。
とことん無慈悲な女だな、お前。
今ここで、保守主流派や小池・維新らの保守傍流が、こぞって進めてきた「医療機関といえども利潤追求の原則から逃れられないという、新自由主義的構造改革」が日本の医療体系を脆弱化させてきたプロセスまで、立ち入る余裕はない。だが、今までの人生を生きてきて、何度も入院生活送った経験から、確実に言える実感がある。
確かに、昔の病院にはもっと余力があった。設備においても、職員においても。
「夜の街」の定義? それって差別じゃん
記事の中ほどで、藪から棒に、次のような一節が割り込んでくる。
感染者が出た新宿のホストクラブで、無症状を含む全ての従業員に集団検査を行ったことなどが影響。
何だ、これは! なぜ、急に、「新宿のホストクラブ」なんだ?
人口 1,400万人越えの東京都首長にしては、えらく、ピンポイントな指摘じゃねぇか。
が、しかし、ネット検索してみて驚いた。先月の半ば頃から『夜の街』という言葉が、ニュース映像に溢れているではないか。「夜の街」で再検索すると、三つの画像がトップに躍り出た。すべて "You Tube" にアップされた、大手メディアのニュース映像である。そのまま並べてみよう。
左から順に、 6/14_ANN、 6/27_FNN、 7/ 1_テレビ朝日、の画面である。
夜の街、夜の街、夜の街、のオンパレード。でも『夜の街』って、一体何よ?
魔女の夜宴?
魔女たちがブロッケン山で乱痴気騒ぎをするという「ワルプルギスの夜」のことか?
確かに、「水商売」の接客での感染が確認された、という事例が多いことは事実であろう。
だが、なぜ大手メディアが、口をそろえて調子よく、夜の街、夜の街、と唱和していて良いのだろうか?
驚いたことに、『夜の街』という言葉を創造したのは、東京都(つまり小池)のようなのだ。
同じ7月1日の読売新聞を見てみよう、" YAHOOニュース"に転載されたものを、画像コピーする。
おお、ハッキリと書いてあるではないか! 東京都は、ホストクラブやキャバクラなど招待を伴う夜間の飲食店で感染した人を「夜の街での感染者」と定義している、と。
これ、極めて差別的、いや、典型的な差別ではなか!!
「花柳病」という発想と同根
話は大きく飛ぶが、
英語で "venereal disease" (ヴィーナスの災い)とは「性病」のことである。この病気は「愛の交歓」によって伝染するわけだから、 "venereal disease" と呼ぶのは、まことその通り。
それを我々日本人は「花柳病」と言いかえた。つまり「花柳街に出入りするから伝染(うつ)る病と定義した」わけだ。でも、この言い換えは変でしょう。元をたどれば、田舎から売られてきた少女たちが性病に感染しているわけがない。その「少女たちを買った」男どもが持ち込んだ病であったはずである。しかも、いわゆる「公娼」には定期的な感染検査が義務づけられていたのに、男どもには何の義務もなく、随意に酔った勢いのまま、ことに至ることが出来た。加害と被害における責任の所在が、完全に逆転している。
「夜の街」という定義は、この「花柳病」という言葉づかいを連想させる。
そうでしょう、コロナ・ウィルスは「夜の街」から発生したのかね? 違うだろう、そこで遊んだ連中が持ちこんだのだ。
私は、東京都の幹部たちの神経を疑う。特に小池に関して言うならば、フェミニズムからのお叱りを受けるのを覚悟で、あえて言おう、女のくせに弱者の立場をまったく顧みない女だ、と。小池よ、アンタを定義するなら、「男以上に男社会に異常適合した女」「女のカス」ということになる。
どうだ、小池、他者に勝手に定義づけされれば、腹が立つだろう。
だが、思い出せ、アンタは都知事就任早々、石原慎太郎の腰巾着レイシストどもに恫喝されて、関東大震災の朝鮮人犠牲者追悼式典への追悼文を止めてしまった。おまけに、以降の式典開催に「管理上支障となる行為は行わない」と条件を付した誓約書を出せ、とまで言いだした。「管理上支障となる行為」などと云う文言は、いかようにでも拡大解釈できる。この追悼文取りやめと誓約書提出強要の差別性は、今回の「夜の街」の定義と、同根のものである。
公権力によるメディア操作であること、バレバレ。
話はこれで終わらない。
" YAHOOニュース"は、ツィッターとか旧2チャンネル系スレッドと同じように、短いコメントが投稿できるようになっている。この読売新聞のニュースには、次のコメントが寄せられている。
特に、オレンジ下線部に注目してください。
市民を脅かす脅威になった以上、強制終了して欲しい。
明らかにホストクラブやキャバクラ店等が新規感染者の巣窟となっているのなら ……
…… とりあえずこの機会に駐禁・脱税・売春・薬物などをこれでもかというくらいに徹底的に取り締まってください。
差別の対象に対する憎悪の醸成ぶりは、もう、ナチスのユダヤ人狩りと変わらない。
庶民一般がこの様な反応をするのなら、もう絶望するしかない。
だが、少し冷静になってみよう。私は、これらの投稿は「造られたもの」ではないか、と疑っている。ネットの閲覧者が" YAHOOニュース"を読んで、それぞれの感想・判断を文面にまとめ、投稿したものだとはとうてい思えないのだ。明らかに、少なくとも下の2件は、文章を書くことを職業としている人物の作文であると断言して良い。
第一の理由は文章のタイプとその長さである。
SNS の一般的な書き込みに比べて饒舌にすぎる。うまく書けた文章であるとは言えないが、説得口調を心得ているようでもあり、ある種の稚拙さまで擬装しているのだとするなら、なかなかの策士である。だが、「なりすまし」はすぐにバレる。新聞記事に怒ったリアル庶民なら、絶対にこの様な文章は書かない。
第二の理由は、時間的余裕、タイミングの問題である。
私が今回の記事を書くにあたって、資料を集め出したのは7月2日の早朝。コピーした画像ファイルのプロパティをのぞいてみると、いずれも午前7時すぎであることが確認できる。元ネタである読売新聞オンラインの画面を見ていただきたい。「7/1(水)
22:03 配信」と記されている。私が記事をコピーするまで、9時間しかない。しかも、深夜から早朝にかけての時間帯である。仕事を持つ庶民一般に、あのような長い投稿が可能なタイミングではないのだ。
つまり、読売のニュース配信とコメントの投稿者は、どこかで連動していると思われる。職業的に。
その 資金源を探る
『内閣府』のホームページを、トップから → 情報提供 → 予算・決算・税制改正・機構定員 → 予算・決算の概要 とたどって行くと、『令和2年度補正予算(案)の概要(PDF形式:317KB)』というファイルに行き着く。その冒頭部分を画像でコピーする。
https://www.cao.go.jp/yosan/soshiki/r02/yosan_r2_hosei.pdf
『T.感染拡大防止策と医療提供体制の整備及び治療薬の開発』の
『(1)戦略的広報費』に、
「 100億4000万円」の予算を割り当てている!(赤線部分)
少し先にその説明がある。
「国内広報を実施する」とあるが、我が家にチラシの一枚も、届いたことはない。100億をこえるカネは一体何に使われているのか? 野党もメディアもまったく無関心を装っているが、私は疑っている。どこかヤクザなIT企業などを雇って、政府追随メディアと連動したコメントを書かせているのだろう、と。
これ、今に始まったことではない。"You Tube" のコメントやツィッターなどには、「職業的に作られ、拡散された」と思える文章が多く見られる。その特徴は、今回と同様、元ネタが公開されると間髪入れずに、ツィート・リツィート・コメントがズラリと並ぶことである。まるでクローンのようにソックリな口調のやつが。
ヤバイのは「夜の街」ではなく、「首都圏」
それでも、なお、「夜の街」を介して感染が拡大しているのは事実じゃないか、と言う人があるだろう。そんな石頭に説明してやる根気はない。逆に質問してやろう。
「夜の街」があるのは東京だけですか? と。
私の育ったオオサカ・ミナミは、まごう事なき「夜の街」である。今住んでいる奈良にも小規模ながら「夜の街」はある。そのそれぞれにおいて、規模に応じて感染が発生しているのなら、「夜の街犯人説」も成りたつかもしれない。だが、データはそう語ってはいない。
朝日デジタルの『新型コロナウイルス最新情報』にあるグラフ・データをコピーしておこう。画面に並んでいるままをコピーした。従って、首都圏は東京・神奈川、関西圏は兵庫・奈良の組み合わせとなった。横軸が時系列、縦軸が感染者数である。
いかがでしょうか? ヤバイのは「夜の街」?、それとも「首都圏」?
先にも述べたように、このグラフ・データをコピペしたのは 2日の朝である。つまり7月1日終了現在のデータである。それ以降、首都圏の感染拡大はさらに進んでしまった。今、データを取り直せば、もっと顕著な差異が確認できるだろう。
−−【その4】了−−