映画は観終えたあとから、もう一つの楽しみが始まる。
                             何故この作品がこれほどまでに私を楽しませてくれたのだろう? 
                             今度は私がホームズとなりポアロとなって謎解きの森に分け入る。

































Jacob and Wilhelm Grimm
portrayed by
Elisabeth Jerichau-Baumann (1855)

(right)Jacob Grimm(1785〜1863)
(left)Wilhelm Grimm(1786〜1859)

兄ヤーコプの生まれた1785年、
モーツァルトは、
#20,#21,#22 とピアノ協奏曲の傑作群を作曲、
『フィガロの結婚』に着手。

弟ヴィルヘルムの生まれた1786年、
ひきつずき、
#23,#24,#25を連作、
『フィガロの結婚』を完成。


兄弟は Steinau のこの家で、
1791年〜1796年の間育った。

1791年といえば、
『魔笛』初演の年、つまり
モーツァルト最後の年である。



兄弟の肖像は紙幣にも使われている

1992年発行の、
1,000ドイツ・マルク
記憶でいえば、この当時の為替レートは、1マルク100円を超えていた。
高額紙幣である。















































































































































































































































トゥーランドットは、いまでこそプッチーニの代表作として盛んに上演されているが、ほんの少し前までは「上演効果に頼った凡作」という風な言われ方をしていた。プッチーニといえば悲恋のメロドラマだと思われていたのだろうか? あるいは、かのトスカニーニが「これは未完成の作品です。私が演奏するのはここまで」なんて振る舞いをしたのに同調していたのだろうか?



この作品の上演は、作曲家の死後二年目の1926年。すでに1913年には『春の祭典』が上演され、1925年にはショスタコーヴィッチが第1交響曲を書き上げている。我々はもっと積極的に「現代の音楽」としてこれを聴くべきであろう。2002年ザルツブルク音楽祭での上演が字幕付きで "You Tube" にアップされている。この冒頭を、ティム・バートンのアニメだと言われても、違和感がないように感じられる。













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主人公の「影」としての他者

    残された時間は短い。
    じっくりとモーツァルトを聴こう。その10

                    2022/09/30



分析項目の5;主人公の「影」としての他者


 歌芝居『魔笛』を、おとぎ話という観点から分析してきた。今回は残された第5番目について考えてみる。

  5:主人公の「影」としての他者  → 定石から大きく逸脱している。

 ここで言う「影」とは、ユング心理学における「影」の概念のことである。下手な説明は省略して、グリム童話に出てくる、主人公の「影」としての他者、の実例を見てみよう。

 例として取りあげるのは、『なぞなぞ』(KHM-022)の前半部分である。
   【注】"KHM"とは、グリム原著の表題 “Kinder- und Hausmarchen” のこと。
 訳文は、河合隼雄『昔ばなしの深層』の巻末に添付されている、矢川澄子さんのアンソロジーからいただいた。ネット上でも様々の訳を読むことができるが、この矢川さんの訳が、過度に分かりやすい語り口調にしないで、原文の意味を正確に伝えることに留意して訳されているように思えるから。原題は "Das Ratsel" 。たいていは『なぞなぞ』と訳されているが、ここでは『なぞ』となっている。確かに単数形ですね。 【注】a は (aウムラウト)

『なぞ』(前半)

 むかし、あるところに王子さまがおりまして、ひとつ世の中を見物してこようという気をおこしました。お伴といっては忠義な家来ただ一人でした。ある日のこと、大きな森へさしかかりましたが、日が暮れても宿ひとつ見つからず、一夜をどこで過ごそうかと迷っていました。するとそこへ、一人の娘が、とある小さな小屋をさしてゆくのが目に入りました。近づいてみると、うらわかい、きれいな娘でした。王子はその娘に声をかけて、いうことには、
「おじょうさん、ひとつわたしと伴の者とに、この小屋で一夜のお宿をおねがいできませんか?」
「さあ、それはかまいませんけれど」と娘は沈んだ声で申しました、「でも、おやめになった方が、あなたがたのおためですわ。おはいりなさいますな」
「何でいけないことがあるんです?」王子がたずねますと、娘はためいきをついて、「わたしの義母がわるだくみをいたしますのでね。よそのかたのことをよく思わないのです」
 王子はなるほど、こいつは魔女のふところへとびこんでしまったわけかと悟りましたが、あたりはさらに暮れまさり、このうえ先にはすすめませんし、それほどこわいこととも思わなかったので、かまわずに中へ入ってゆきました。ばあさんは炉ばたの肘かけ椅子にすわっていて、よそ者たちを赤目でじろりと見ました。そして「ようこそ、お越しを」とうなるようにいって、いかにもあいそよさそうに、「まあおかけなすって、おらくになさいましょ」ばあさんは火をふうふう吹きおこしましたが、そこには小さな鍋がかかっていて煮物をしているのでした。娘は二人に、気をつけて何も飲み食いなさらぬように、義母は毒の飲み物を煎じているのですから、といいふくめました。二人は朝方まで安らかにねむりました。
 さて出発の用意もできて、王子はもう馬にまたがっていましたが、そこへばあさんは声をかけ、「まあちょっと、お待ちなすって。ひとつ、お別れの盃をあがってからになさいましょ」ばあさんがそれをとってくるひまに、王子はさっさと出かけてしまいました。家来は家来で、馬の鞍を締めるのに手間取って、ひとり遅れてのこっていますと、そこへ魔女が飲み物をもってやってきました。「これをご主人にお届けなすって」魔女はそういいましたが、そのとたんにコップがわれて、毒液が馬にはねかかったのです。それがまたものすごい猛毒だったので、馬はたちまちばったりたおれて、死んでしまいました。
 家来はご主人を追いかけていって、いまのできごとを物語りましたが、しかしあの鞍を捨てるのももったいない気がして、取りに引き返しました。死んだ馬のところまできてみますと、もう烏が一羽たかって、肉をついばんでいました。「今日のうちにこれ以上の獲物にありつけるとはかぎらんしなあ」家来はそういって、烏を殺して、持ってゆきました。さてその日も一日じゅう森を歩きましたが、やっぱり外へは出られませんでした。
 宵の口になって、二人は一軒の宿屋を見つけて入ってゆきました。家来はあるじに烏をわたし、これを晩飯に食わせてくれとたのみました。ところが、二人が入りこんだのは人殺しの巣窟で、暗闇に乗じて十二人の人殺しどもがあらわれ、お客たちを殺して持ち物を奪おうとしました。連中はしかし、荒仕事にさきだって、まずテーブルをかこみました。宿のあるじも例の魔女もいっしょに席につき、みんなでスープをすすりはじめました。
 それはあの烏の肉を刻みこんだスープでしたが、その肉を一切れ二切れのみこんだかと思うと、悪者どもはばたばたと一人のこらずたおれて死んでしまった、というのは、件の馬の肉の毒が烏にも伝わっていたからでした。こうして家の中には、あるじの娘のほかはだれもいなくなってしまいましたが、この娘は心掛けのいい子で、連中の悪業にはぜんぜん関わらなかったのでした。娘は扉という扉をあけて、山のような宝物をお客さまに見せました。王子さまはしかし、これはみんなおまえのものにしておおき、わたしは何もいらないから、といって、家来とともに馬をすすめました。



さて、「影」とは何か?


 王子さまが「ひとつ世の中を見物してこようという気をおこして」、つまりブラリと無目的の旅に出るわけだが、「忠義な家来ただ一人」「お伴」として同行させる。この「忠義な家来」とはいったい何者なのだろう? ザッと読み飛ばしてみても、この忠義な家来の人格を「このような人なのです」と特定するような文言は一切出てこない。あらすじだけを語るなら、この家来の存在無くともこのお話は進行させることが出来そうである。しかし、この忠義な家来がいるからこそ、お話は単純・明快かつ立体的に面白くなっているのだ。
 河合隼雄さんは、こんな風に書いている。(前掲書 231p.)

 この主人公は賢明にも、この「うらわかい、きれいな娘」とは結婚することなく、家来をうながして出発しようとする。ところで、ここで王子は先に出発してしまうのに、家来は「馬の鞍を締めるのに手間取って、ひとり遅れてのこって」しまう。この家来は王子の影であることは明らかであるが、ここのところは影のはたらきを如実に示しているところと思われる。
 われわれは実際、さっと帰ってゆけば問題がないときに、つい「馬の鞍を締めるのに手間取って」居残ってしまい、それが魔女のつくった毒とも知らず、飲んだり食ったりして失敗をしでかしてしまうことはないだろうか。われわれの自我は出発を決定しても、影のほうがぐずぐずとしていてトラブルをつくりだすのである。とはいうものの、この影の居残りによって生じたトラブルが、今後の成功に役立ってゆくのだから、影というものは真に逆説的な存在といわねばならない。


 なるほど、そう言うことか。忠義な家来とは王子の分身、つまり、理性的に振る舞い賢明な判断をしようとしている王子が、心の底に秘めている彼の自我の補完物なのだ。
 王子は「魔女のふところへとびこんでしまった」と確信しながらも「それほどこわいこととも思わなかったので」一夜の宿を請うことにする。このとき家来は黙って王子のすることに従っている。なぜなら、大きなリスクを負うことになるわけだが、他に選択肢が無かったからである。二人は娘の忠告どうり、飲み食いの勧めに応じず、いわば「素泊まり」で一夜を明かす。これも、そう判断するのが妥当だと思われ、迷うことがなかったからである。問題は出立の時である。
 王子と娘の出会いから振り返っておこう。昨夜人里離れたところで日が暮れてしまうが、王子には為すすべがなかった。そこで偶然一人の娘を見かける。それは「うらわかい、きれいな娘」だった。宿を請う王子の願いを「それはかまいませんけれど」と受け入れてくれた。さらに同居している義母の正体を明かし、「気をつけて何も飲み食いなさらぬように」と王子の身を案じてくれた。この時点でこの娘は、王子にとってちょっと気になる存在になっている。だから出立にあたっては心に迷いが生じるのだ。

 安全かつ堅実に旅を続けるのなら、このままこの場を立ち去るべきである。王子の理性はそう判断して「もう馬にまたがって」しまう。だが、この娘に心には心が残る。もう少し留まって娘との関係を深めたいという欲望が捨てきれない。その未練心が王子の「影」である「忠義な家来」の行動となって現れる。「家来は家来で、馬の鞍を締めるのに手間取って、ひとり遅れてのこって」しまうわけである。

 この王子の心の葛藤を、王子の心中に分け入ってそのまま表現すれば、「あれか、これか、」「ある、あらぬ、それが問題だ、」という風に「ハムレット」になってしまう。主人公の心の葛藤を描くようなスタイルは、おとぎ話には似合わないのだ。
 王子は潔く出立する。家来はぐずぐずして居残る。その後も、王子は先に進もうとするが、家来は「あの鞍を捨てるのももったいない気がして、取りに引き返し」「今日のうちにこれ以上の獲物にありつけるとはかぎら」ないからと、烏を仕留めてくる。
 王子はどこまでも理知的で高潔でことの子細にこだわらない人物として語られ、家来は、現実的実利的で欲望をそのまま表現しそれを実行する人物として語られる。宿屋の主に烏を手渡すのも家来。このおかげで二人は人殺しどもによる殺害から逃れることが出来たのだ。意図的ではなかっにせよ、この毒入り烏で、12人の人殺し・宿屋の主・昨晩の魔女は皆殺しにされてしまう。つまり、家来という影の存在のおかげで、王子は生き長らえることが出来たし、また実際的にも道義的にも殺人とは無縁のままでいられた。だから、出立にあたって主の娘が盗賊たちが集めた宝の山を見せても、王子は「これはみんなおまえのものにしておおき、わたしは何もいらないから」と、鷹揚かつ格好良く振る舞うことができたのである。


『魔笛』における「主人公」と「影」


 くどいようだが「主人公」と「その影としての他者」の関係性を確認しておこう。「影」は「主人公」の単なる同伴者、あるいは、人格から分離された補完部分ではない。ひらめき、疑惑、迷い、思考、決断、心残り、など、主人公の心的プロセスを対象化するもの。いわゆる弁証法的な用語で言うなら、主人公というテーゼに対するアンチテーゼ。主人公とその影は絶えず、心理的にせめぎ合い、葛藤し、対立と融和の能動的プロセスを経て先に進もうする。
 さて、このように「主人公」と「その影としての他者」との関係を確認したうえで、歌芝居『魔笛』に戻ろう。

 タミーノが主人公であるなら、パパゲーノは間違いなくその影である。二人の関係は極めて密接である。パパゲーノはタミーノのまだ見ぬ婚約者の救出に同行し、狂言回しとしての役割を演じながら、タミーノがパミーナを獲得するのと同様に、パパゲーノもパパゲーナを獲得する。
 しかし「おとぎ話というもの」という視点から見るなら、二人の関係はかなり異質に見える。

 二人の心理的指向性は、全編においてまったく交わるところがないのだ。

 【その4】で二人が出会う場面を引用しておいたが、もう一度読み直していただきたい。二人の会話はまったくかみ合っていない。引用のところで書いたが、これをコメディとして観るなら、ボケとツッコミの関係、さらにはオウムの化身としてのパパゲーノの「オウム返し」のおとぼけ、として笑っておれば良いのだが、この笑いに「落ち」の付かないままこの場面は終わってしまう。

 第二幕、試練の渦中になると二人の対立はますます顕著になる。
 『第12番 五重唱』、三人の侍女が登場するあたりのやりとりを見てみよう。

三人の侍女:タミーノよ、お前を待つのはただ死ばかり。パパゲーノよ、お前はもうだめよ!
パパゲーノ:いや、いや、いや! そいつはごめんだ!
タミーノ :パパゲーノ、だまれ! 女どもとは口きくべからず。お前は誓いをやぶるのか?
パパゲーノ:でも俺たちはもうだめだといっている。
タミーノ :黙れというのに! 静かに、静かに!
パパゲーノ:黙れ、黙れ、はもうたくさんだ!


 これ以降も、あくまで沈黙を守ろうとするタミーノに向かって、パパゲーノは、ちょっとぐらいは良いだろう、とか、男同士だから良いだろう、と、喋り続ける。ずっと、この繰り返し。

 『第16番 三重唱』では、三人の童子が、笛、グロッケンシュピール、それに食べ物を持ってくる。パパゲーノはさっそくパクつくが、タミーノはただ笛を吹く。

パパゲーノ:笛を吹きたければ、どうぞ勝手に吹いたらいいでしょう! こんなご馳走がもらえるのならいつでも黙りますよ。酒蔵のほうもこんなにいい物がたくさんあるかどうか? …… ああ! おいしい酒だ!


『魔笛』が何かちょっと変なこと、の真の理由


 もし『魔笛』を観て、何かちょっと変? どこかおかしい? という違和を感じるとしたら、その感覚は何に由来するのであろう。前半と後半における善悪の入れ替わりとか、フリーメーソン的儀式の無理な引用とかが原因であると解説されることが多い。しかし私には、このこのタミーノとパパゲーノの心理的断絶にこそ、違和感の原因であるように思える。

 タミーノとパミーナが試練を乗り越えたあと、パパゲーノも目出度くパパゲーナの愛を得て、Pa-Pa-Pa- …… の二重奏となる。その音楽があまりにも楽しいものだから、私たちは奇妙に納得してしまうわけだが、よく考えてみると、パパゲーノがパパゲーナと結ばれることの "根拠" は何一つ示されていないのだ。
 パパゲーノは試練をエスケープしたままであるし、いつの間にか(本当に、いつの間にか、である)別行動をとってしまっている、タミーノ・パミーナ組とは、再会してお互いを理解しあうという手続きも踏まれていない。タミーノとパパゲーノの精神はついに交差することの無いまま、歌芝居『魔笛』は、夜の女王・三人の侍女・モノスタートス一派の突然の地獄落ちで、あっけなく終幕となる。


タミーノとパパゲーノは モーツァルトそのもの


 人類学・民俗学・心理学などの書物をひもといてみると、リアリズムに徹した近代文学より、おとぎ話・神話・夢などのほうが、より直裁に人の心を反映するもの、として取り扱われている。今はその子細に立ち入る余裕はないが、これらの学問が、何を分析の素材として選んでいるかという実際を看ていただければ、自ずから納得していただけるだろう。
 この観点から言うなら、モーツァルトという人格は、それ以前のどのオペラの主人公より、『魔笛』のタミーノとパパゲーノに、より直接的に反映されているように思える。確かに、彼は、フィガロ、ドン・ジョバンニ、フェルランド、グリエルモ、といった登場人物に心情的に寄り添ってはいるが、あくまでオペラの台本に登場する人物として客体化されている。だが『魔笛』では違う。モーツァルトは、この歌芝居の語り部として、主人公たちになりきり同化しているように感じられる。

 モーツァルトは作曲家であった。だがベートーヴェン以降の、選択的職業としての作曲家というイメージは、彼とは結びつかない。彼は、それ以前の時代の世襲的職能家系の一子として、音楽家として生きることを予め決定されて生をうけた。
 五歳から作曲を始めたと言う事実は、作曲という行為が仕事となるより前から、彼の遊びでもあったことを示している。彼は生涯にわたって熱心に演奏し作曲した。しかし彼は、下品な冗談を好み、悪ふざけ・いたずらを好み、ポンチを飲み、おならで大笑いしながら作曲したのである。あらゆる欲望に対して前向きであった。どんなに高くても赤いチョッキを手にいれようとしたし、鳴き声の美しいムクドリを見ればすぐに買い、家にはビリヤード台まであった。コンスタンチェを生涯溺愛したことは紛れもない事実だが、一方で音楽的才能に恵まれた美女たちにはことごとく興味を示している。まさにパパゲーノという人格そのものではないか。

 一方、音楽家としての名声を得るために、父レオポルドは(パリ行きは母親であったが)はモーツァルトを連れ欧州中を旅してまわる。作曲家の先輩たちの知遇を得るという意味もあったが、各国の宮廷・諸侯たちに天才少年を認知させることがもっと重要な目的であった。六歳の時、モーツァルトはハプスブルク家の当主マリア・テレジアの前で御前演奏をする。演奏の後、ピカピカに磨き上げられた床で転んでしまう。当時七歳のマリア・アントニア(後のマリー・アントワネット)が彼を助け起こす。その時モーツァルトが「きみはやさしいね。大きくなったら、ぼくのお嫁さんにしてあげるよ」と言った、という逸話は、限りなく悲しい。
 その後、1790年、マリー・アントワネットの兄にあたるヨーゼフ二世が逝去するまで、モーツァルトは「止んごとなき人々にいかに仕えるか」に砕身しなければならなかった。絶対的な支配者に対して、どう振る舞わねばならぬのか? これこそタミーノに課せられた試練そのものであろう。

 では、なぜ『魔笛』においては、モーツアルトの二人の化身とも言うべきパパゲーノとタミーノの精神は、分断されたまま放置されているのだろう? これこそ『魔笛』最大の謎である。

 だが、ここまで検討してきた我々は、当時のモーツァルトの目に映っていた世界とはどのようなものであったのだろう、と想像するだけで、この謎を完全に解くことが出来るように感じる。
 もう、あと一歩だ。





謎かけ姫物語、ーー 前回の追加として


 この『なぞなぞ』(KHM-022)は、後半になると展開ががらりと変わって「謎かけ姫」物語になる。標題どおり、その後半がこの物語の核心なのだ。
 「謎かけ姫」には二つのパターンがある。お姫様が求婚者に「解けそうにない謎を出す」パターン。それとは逆に、お姫様が求婚者に「私に解けないような謎を出しなさいと命じる」パターン。いずれにせよ、求婚者はそれにしくじると首をはねられることになる。
 プッチーニのオペラで有名な『トゥーランドット』の場合はこの複合型で、トゥーランドット姫の出す三つの謎に、(身分は隠しているが)ダッタン国の王子カラフは見事に正解を返す。それでも求婚を拒もうとする姫に対し、今度は逆にカラフが姫に謎を仕掛けるのだ。その謎の答えは、いかにも「20世紀まで生き延びた19世紀浪漫派風」に脚色されているが、王女の謎に男が正しく答えたあと反対に男の側から王女に謎を出す、というパターンは古くから成立していた形式のようである。

 さて、この『なぞなぞ』(KHM-022)は、二つ目の「私に解けないような謎を出しなさいと命じる」パターン。上に引用した前半が、求婚者となる王子の出す謎の種(ネタ)を提示するための前段になっている。実は、この話は、前回の『4:配偶者を得るための「試練」あるいは「謎かけ」』の、「謎かけ」の例として引用しようと考えていたのだが、「試練」のかぐや姫の展開が長くなってしまって、体力・気力を使い果たしてしまい「謎かけ」まで進めなかった、というこちらの事情があった。
 だが河合隼雄さんの本では、この前半部分が「影」の例として引用されているので(前掲書 229p.〜)、ちゃっかりとそれに乗っかることにした、という次第。

 では、せっかくですので、後半も読んでおきましょう。

『なぞ』(後半)

 それから長いことあちこち歩きまわったすえに、二人はとある都へやってきましたが、ここには一人、きれいだけれど高慢なお姫さまがいて、だれでもお姫さまが解けないようななぞを出す者があったらその相手と結婚する、ただし解けてしまったらお姫さまが相手の首をいただく、というお触れを出しておいででした。お姫さまの考えるひまは三日間でしたが、しかしとびきりおつむのいい方ですし、出されたなぞはきまって期限よりまえに解いてしまうのでした。こんなやりかたで、すでに九人もの男があえなく果てたのですが、そこへこの王子さまがやってきて、お姫さまのたいへんな美しさに目がくらみ、ひとつ命を賭けてみる気になりました。そこで王子はお姫さまの前に出て、自分のなぞをかけました。
「あるひとが一人も殺さずに十二人殺した、さあ、なんだ?」
 お姫さまは何のことかわからず、考えに考えましたが、かいもくその心がつかめません。なぞなぞの本を開けてみても、どこにも出てはいませんし、とどのつまり、さすがの知恵も尽きはててしまいました。そこでお姫さまは、どうしていいかわからなくなって、小間使をこっそり王子の寝室にしのびこませ、夢を立ち聞きさせることにしました。もしかすると寝言をいって、なぞの心を打ち明けないともかぎらない、と考えたのでした。けれども王子の家来もさるもので、主人の身代りにそのベッドに寝ていて、小間使がやってきますと、小間使の隠れみのに使っていたマントをはぎとり、小枝のむちをふって追っ払ってしまいました。二晩目には、お姫さまは、腰元の女をやって、あわよくばもっと上手に立ち聞きさせるつもりでしたが、王子の家来はこの女もマントをはぎとって、小枝のむちで追っ払ってしまいました。
 さて、これで三晩目となると、王子さまももう安全だろうと思って、自分のベッドでやすんでいますと、そこへお姫さまがみずから灰色のマントに身をつつんでやってきて、傍らにこしかけました。お姫さまは、王子さまが夢心地でねむっているものと思いこみ、王子に話しかけて、よく人がやるように、夢のなかで返事してくれるのではないかと思ったのです。けれども王子さまはちゃんと目をさましていて、お姫さまのいうことを何もかもはっきりと聞いていたのでした。
 お姫さまのたずねるには、「あるひとが一人も殺さなかった。それ、なあに?」すると王子さまの答えるには、「烏のことだよ、毒にあたって死んだ馬をたべて、それで死んだんだ」っづけてお姫さまは、「それなのに十二人殺した、それ、なあに?」「それは十二人の人殺しのこと、その烏をくって、それで死んだのさ」なぞの心がわかったので、お姫さまはそっとしのび出ようとしましたが、王子さまがそのマントをしっかととらえていましたので、やむなくマントを置き去りにしてしまいました。
 あくる朝、お姫さまはなぞが解けたことを知らせ、十二人の裁判官を呼んで、そのまえでなぞの心を解き明かしました。ところが、なぞをかけた若者が、一言申し上げたいと願いでて、いいますには「お姫さまは昨夜わたしのところにしのんでいらしって、答えをつきとめたのです。さもなければその心が解けるはずはございません」裁判官たちは、「その証拠がどこにある」といいます。そこで、例の三枚のマントが家来の手ではこばれてきましたが、裁判官たちは、お姫さまの日頃ご愛用の灰色のマントを一目みたとたん、「このマントに金糸銀糸の縫取りをなさいませ。さすればご婚礼のマントになりますでしょう」と申しましたとさ。


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−−【その10】了−−    

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