難波駅を出た電車がわずかに右にカーヴすると、つり革に掴まっていた男たちは一斉に右側の窓から外を見やった。
 ほんの一瞬、大阪球場のスコアボールドが見えるからだ。
 私の家は球場から1キロ以上も離れていたが、物干し場にあがると、観客のあげる歓声が風に乗って流れてきた。
 確かに昭和のある時代まで、私たちは「自分の五感で直接」社会の動きを感じとっていたのだ。                           








岡本喜八
(1924〜2005)

説明は不要ですよね。





橋本忍
(1918〜2018)

この人も、説明は不要だろう。





橋本忍 著
『複眼の映像 私と黒澤明』
文藝春秋(2006)

橋本忍には著作もたくさんある。
この本は、日本映画黄金期の貴重な資料であると同時に、もう、抜群に面白く読める。
あの『七人の侍』のシナリオが、どのようにしてできたのか! 












『日本のいちばん長い日』
(1967)






映画開始と当時に、こんな画面が。






左;陸軍大臣の三船敏郎
右;海軍大臣の山村聡






國体護持の権化を演ずる
黒沢年雄

目をむき、怒鳴りちらし、
もう、観ていてイライラ。





玉音放送に使われたレコード

"DENON"の文字が読めます。





こちらが、その本物。
宮内庁が公開したもの。

下部に、
『日本電気音響株式会社』
という文字が読めます。














『シンゴジラ』に、写真で登場する岡本喜八















『肉弾』
(1968)






ドラム缶でプカプカ浮かぶ寺田農さん

映画では、固有名詞が与えられず、
「あいつ」と呼ばれます。





大谷直子さん

今でいう、"萌"写真ですね。






こちらは、
『潮騒』を思いおこさせます。





















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「感染予防か、経済活動か、」は「國体護持」と同じ
    『コロナ・パンデミックから何を学ぶか?』 その6
                   (2020年08月13日)



 朝ひと仕事終えたあと、ゆっくりとニュースに向かうのは、日常のちょっとした楽しみである。その楽しみのため、新聞は一般紙とスポーツ紙の両方をとっている人がいる。お気に入りのニュース番組にチャンネルを合わせる人もいる。我が家では、新聞を購読していないし、テレビ受像機も置いていないので、もっぱらネットのニュース・サイトを観ることになる。コーヒーの一杯を味わうのに、最適の時間である。
 だが、近頃はそれがおっくうになってきた。
 と言うより、ニュースに接するのが怖いのである。


1日の感染者数、1500人を突破


 国内では XX 日、新たに XX 人の新型コロナウイルス感染者が確認された。1日当たりの感染者は前日の XX 人を大きく上回り、 XX 日連続で過去最多を更新した。このうち、東京都は XX 人と最多を大幅に更新。愛知県( XX 人)、福岡県( XX 人)、埼玉県( XX 人)などでも最多の感染者が確認された。

 これは、某日某新聞サイトの記事をそのままコピペしたものである。数値だけ " XX " に書き換えてある。ここに新たな数値を代入するだけで、この文面は、ほぼ毎日でも使い回すことができる。それぐらい、新型コロナウイルス感染者数は、連日、過去最多を更新しているわけだ。
 数値をグラフで確認して見よう。
 グラフは【朝日新聞DIGITAL】『新型コロナウイルス最新情報』からいただいた。



 最初のピークは4月11日で、その日の感染者数は 691人であった。その後しばらくは50人前後に落ち着いていたが、6月末頃から上昇に転じ、7月末には1000人を越え、今や1600人に達する勢いである。


すべてを『新型コロナ分科会』になげうって、涼しい顔。


 扇情的な言葉は使いたくないのだが、多くの医療機関や介護施設などでは多忙・混乱を極め、いたるところで阿鼻叫喚の様相を呈しているはずだ。
 しかるに、この今、政府首脳や国会議員どもはいったい何をしているのか?

 国会休会
 安倍引きこもり
 小池だけが相変わらず嫌味の言い合いを続けている。この期に及んで、誰がジジババの痴話喧嘩など聞きたいと思うだろうか。
 関西だって馬鹿さかげんは変わらない。大阪の吉村は、ポビドンヨードうがい薬がコロナに効くと触れまくり、人間を消毒したらどうか、どうだ、良いアイデアだろう、と自慢したトランプ並の知力であると批判され、素直に謝ることもできず、政治家はモノも言えないのかと居直っている。
 『新型コロナウイルス感染症対策本部』休止状態
 『新型コロナ専門家会議』は既に廃止
 すべてを『新型コロナ分科会』になげうってすまし顔。

 では、その『新型コロナ分科会』では、いったい何を議論しているのか?


『新型コロナ分科会』では、いったい何を議論しているのか?


 『新型コロナ分科会』では、いったい何を議論しているのか?
 ネット検索したらトップに出てきたのが、某公共放送のニュースサイトであった。クリックしてビックリ。何じゃ、こりゃ!
 (ただし、元サイトへのリンクは貼りません。だって、某公共放送サイトのファイルはすぐに削除されますから。クレームのネタになることを極度に恐れている、としか思えない。)



 このようなケバケバしい説明パネルを、何の抵抗感もなく、デーンと表示できる神経をまず疑う。番組の告知内容はコロナ感染である。パンデミックである。多くの人が亡くなっているし、この今も病床で呻吟している人がたくさんいる。いや、収容先が満杯なので、不安な心のまま待機させられている人だってたくさんいる。このパネルのケバケバしさは、そういった告知内容の深刻さには、あまりにもそぐわないだろう。重篤な状態にある病人を見舞うのに、キンキラキンのドレスを着て行くようなものだ。不謹慎の極み。
  …… 、まぁ、これは感覚の問題であるから、緩和不可能な違和感は脇へ置いて、中身を見てみようか。


政府が何もしないでいることの、根拠づけを作文している。


 このケバケバ・パネルによれば、今『新型コロナ分科会』で議論されているのは、次のワンフレーズということになる。

  感染状況のステージを判断すること。

 コピペ部分の最後の2行には、こう書かれている。もう一度、よく読んでみよう。

 現在は、多くの地域で感染が漸増、だんだん増えている「ステージ2」にあるとされていますが、分科会は、感染が急増している「ステージ3」に入ったと判断するための指標の数値を示しています。

 コレ何よ?
 この文章はいったい何を表現しているのか?  ……
 何も表現していないだろ! 「感染が拡大している」という周知の事実を、貧しく繰りかえしているにすぎない。新たな情報提示も、学者・専門家による感染実態の分析も、討議内容の核心部分も、分科会としての意思決定も、何も表現されてはいない。「進度・段階」といえばそれで済む内容を、「ステージ」というカタカナ表記に置き換えて、そうすることで「何か内容のあることを述べているみたいな雰囲気」を醸造している。ただそれだけのことだ。

 一昔まえ、会社名を、その会社が何を商っているのかを解らなくするようなカタカナに変えることとか、「経営方針」を「マーケティング・ストラテジー」などと言いかえたりすることが大流行した。高級官僚からの天下りとか、持ち株会社から派遣された雇われ役員などは、集団催眠術にかけられたかのように、この呪文による「大儲けの幻覚」に惑わされ、日本企業の美質であった地道な経営努力を捨て去った。その結果が現在の大不況である。日本の巨大企業は、おぞましいまでに競争力を低下させ、国民全体の総貧困化がジリジリと深刻化した。この様な呪文は、なんの魔力も持たないことがハッキリとしたわけである。

 賢明な経営者たち、特に創業経営者などは、マーケティング・ミクス風の空虚な言葉をすでに封印している。しかるに、そのような過去に属する遺物を、この「国難」のさなか、国政の中心にいる人たちが未だにもてあそんでいるのだ。おべっかのつもりで、電通依存の安倍晋三のやり方を真似ているのかもしれないが。

 で、とどのつまり、『新型コロナ分科会』の役割とは何なのか?
 もう、コレしかないでしょう。

 コロナ感染拡大に対し、政府がドラスティックな対応策を打ち出せないでいることの理由づけを、何か意味ありげに作文している。今はまだ然るべき「ステージ」に達していない、という論法で。

 言いかえれば、
 「感染予防か、経済活動か、」という二者択一論を持ち出して、「これ以上経済活動を妨げることができないから、とりあえず今日は何もしない」と言う政府の姿勢に、論理的保証を与えようとしている。これが『新型コロナ分科会』の役割である。

 国民の生命を人身御供に差し出して、何が経済活動か?
 この、売国奴ども!


「感染予防か、経済活動か、」の二者択一は、「活断層か、否か、」に同じ。


 この、「議論の核心からずれた二者択一論を差し出して、政府の規定方針を承認させようとするやり方」には、何か既視感がありますね。

 そう、大飯原発再稼働決定時の有識者会議による「活断層か、否か」の論議とそっくりだ。ネット上で、当時の新聞記事が読めるので引用しよう。4年前、このサイトで【原発推進論 −− 不勉強を傲慢さで補う屁理屈 その5(平成28年4月28日)】という文章を書いたが、その時引用したのと同じ紙面である。

【日本経済新聞】2014/2/12
〔見出し〕大飯原発「活断層でない」、規制委が報告書了承
〔本文〕原子力規制委員会は12日、関西電力大飯原子力発電所(福井県)の敷地を横切る断層について、「活断層ではない」とする報告書を了承した。この問題をめぐっては有識者らが昨年9月、活断層の疑いはないとする「シロ判定」の見解を示しており、今回で最終的に評価が確定した。大飯原発の再稼働に向け最大の障害が取り除かれることになる。
 同原発の活断層問題に関しては、規制委が選んだ有識者らが2012年11月から現地調査や協議を重ねていた。一時は見解が分かれたものの、断層のずれ方や地層に含まれる火山灰の年代などを詳しく検討した結果、問題の「F-6」断層は「将来活動する可能性はない」との見方で一致。調査に加わっていない第三者の専門家による検証も経て、活断層説を否定する結論となった。


 この「活断層ではないので、原発再稼働OK」論のナンセンスさ加減は、以前の記事で詳しく述べたので、それを読んでいただく方が良いだろう。

 一言だけ付加しておく。
 「活断層」というのは、地質学上の分類概念であって、最終的には観察者の判断によってなされる便宜的な分類である。それ以上のものでも以下のものでもない。だからこそ、有識者会議では判断が分かれていたのである。地質学における時間の尺度は、短く刻んでも数百年・数千年、長く見れば数万年にまで伸張される、そのようなスケールである。いま、目の前にある原発が、地震・津波・破壊工作・経時劣化・整備不良・人為的ミス、等によって損傷をきたす可能性・確率とは、本質的に何の関係もない。
 あまりに馬鹿らしい議論なので、適当な例え話を持ち出すにも窮するが、例えばこういうことだ。
 火星探索ロケットを皇居前広場から打ち上げることになっている。このロケット、点火後の上昇に信頼性がなく、発射台で爆発したり、上昇を始めてもすぐ頭を垂れて、地面に落下したりする。それなのに、火星の着陸予定地域に火星人が居住している可能性が認められないので、発射してもOKだ、と言いだす者がいて、そうだ、そうだ、とロケットを発射させることにした。まぁ、こんな話である。

 大飯原発の時も、再稼働という政府の既定事実的方針があり、それを根拠づけるために、「活断層か否か」という二者択一論がでっち上げられたのであった。
 今のコロナ感染においても、ドラスティックな対策は何もしたくないという政府の既定事実的方針があり、それを合理化するため、「感染予防か、経済活動か、」という二者択一論を持ち出し、『新型コロナ分科会』に「ステージ議論」をやらせて、「今はまだ経済活動優先で良い」と結論づけているわけだ。
 手の込んだ詐欺である。


「感染予防か、経済活動か、」の二者択一は、「國体護持」と同じ。


 既視感と言えば、さらに連想が働く。
 太平洋戦争末期における「國体護持」という言葉である。
 今さら確認する必要もないほどの周知的事実であるが、真珠湾攻撃の半年後、ミッドウェー海戦で日本海軍は大敗を喫した。具体的な戦力で言えば、保有する空母9隻のうち、赤城・加賀・蒼龍・飛龍の4隻を一挙に失った。それ以降の3年は、一貫して負け戦・後退戦の連続であった。国民に対しては、大本営発表、連勝連覇の嘘八百を並べ立てていたが、陸海軍の要人で日本の圧倒的勝利など信じているものはほとんどいなかったであろう。
 このまま戦争を続ければ、兵力・民間を問わず死傷者が増え、軍備の大多数を失い、兵士も国民も餓え、国土が荒廃すること、日の目を見るより明らか。負けを認めるか否かはさておき、せめて一時的な停戦を画してはどうか。 …… 、だが、この様な常識的判断を提言する者はただの一人もいなかった。何の展望もないまま、今日一日、また一日と、無益に日々を見送った。

 この時、政府や軍首脳の優柔不断を許したのが、この「國体護持」という言葉であった。
 停戦、講和も良いだろう、だが、それで國体を護持できるのか?

 この「國体護持」という言葉を、「天皇を頂点に戴く大日本帝國の統治形態を維持すること」と誤解してはならない。「ここまで無謀な戦争を主導してきたことの自己批判はしたくない」というのが、その実質的内容である。政府や軍部の首脳たちが、心から昭和天皇を崇拝していたとは思えない。それが証拠に、最後には、玉音を録音したレコード盤の奪い合いが生じ、天皇支配に対するクーデターまで起こそうとしたではなかったか。
 「國体護持」という言葉を金科玉条として判断停止をズルズルと続けた結果、どれほどの国民が無駄死にを強いられたのか。

 この「國体護持か否か」という二者択一の論理が、今また、「感染予防か、経済活動か、」という二者択一の論理として繰りかえされている。

 「感染予防か、経済活動か、」という二者択一の論理は成立しない。経済活動は、人々が健康で自由に交流できる状態を前提とする。感染が拡大すれば、経済活動の基盤が消滅するのである。
 安倍の言う「経済活動」とは、「言葉の正しい意味での経済活動」ではない。パンデミックなどの非常時を想定せずに形成されている金儲けの仕組みを、パンデミックの状態になっている今、とにかくしばらくはそのまま続けておきたい、という問題先送りの怠惰的精神を「経済活動を守る」と称しているだけのことである。

 安倍晋三は、「戦後レジームの超克」などと口にして、どうだ、カッコイイこと言うだろう、とウットリしているが、それより先に、まず自分自身が「戦中レジーム」から脱皮する必要があるだろう。


追補 『國体護持』について


 まもなく8月15日がやってくる。この機会に、ポツダム宣言受諾から玉音放送に至るまでのあいだ、大日本帝國の政権中枢と軍部はどう動いたかについて、少し触れておこう。

 この事実経過を克明に再現した最良の資料は、歴史家であり作家でもある半藤一利さんが、1965年(昭和40年)に上梓した『日本のいちばん長い日 -- 運命の八月十五日』であろう。この本は、当初、大宅壮一氏の名義で出版され、たいそう評判になった。当時、高校生だった私は、売れっ子ジャーナリストでメディアへの露出も多く、いささか軽薄な発言ばかりを繰りかえす大宅氏が(これは、あくまで。私の抱いていた印象であるが)、いつの間にこんなに緻密な調査をしてていたのだろう、と驚いた。
 だがこの本は、左翼的傾向が顕著であったマスコミ主流からは、芳しい評価を得られなかったように記憶する。当時は、書物であれ映画であれ、その内容を云々するより以前に、軍人の行動や思考に詳しく立ち入っているというだけで「戦争を礼賛している、反動的だ」などど批判されたものである。

 この『日本のいちばん長い日』は、2年後の1967年(昭和42年)、「東宝創立35周年記念作品」として映画化され、かなりのヒットとなったはずであるが、評判は賛否両論相半ばといった感じであった。批判する側の主張は、やはり「結局は戦争指導者を英雄視している」というものであった。そらく『赤旗』か『社会新報』が、そう書いていたのであろう。
 監督は岡本喜八、脚本は橋本忍、主演は三船敏郎。これだけのメンバーがそろえば、作る映画が駄作に終わるはずがない。確かに三船敏郎演ずる阿南陸軍大臣は格好良すぎて、このあたりから「軍人を美化している」という批判が出たのかもしれないが、それは木を見て森を見ずの議論である。間違いなく、この映画は傑作である。

 さて、その内容である。すでに、広島と長崎に原爆が投下されている。これ以上の戦争継続はもはや困難な状況であることは、誰の目にも明かである。たとえ狂信的な皇國主義者であっても。しかるに、政治家も軍人も、誰一人として、ポツダム宣言を受諾して戦争を終わらせよう、と言い出すことが出来ないでいる。政治を導く主導性が形成できないほど、権力機構が機能停止して久しいからである。「それで、國体が護持できるのか!」の一言で、あらゆる議論が終了してしまう。
 結局は、天皇自らにポツダム宣言受諾を決断させて、やっと玉音放送による国民への終戦告示に向かうことになる。だが、集団の気分は「終戦」に向かわない。ここに至っても、國体護持派はクーデターを画策してまで、玉音放送を阻止しようとするのである。天皇が『大東亜戦争終結ノ詔書』を吹き込んだレコード盤の奪い合いとなる。ほとんどドタバタ喜劇の様相を呈す。
 ポスターの絵柄に採用されているように、三船陸軍大臣の切腹ばかりが有名になっているようだが、この軍人・政治家どもの混乱、右往左往ぶりの描写が、この映画の真骨頂であろう。眼を剥き、怒鳴りちらす畑中少佐の黒沢年男など、観ているこちらがイライラするほどの熱演である。見方によっては、この映画は、真の国難に直面したさいの政治家・軍人たちの無能と混乱ぶりを描くコメディである、とも言える。



 余談になるが、庵野秀明監督の『シン・ゴジラ』(2016年)は、ゴジラ映画であるが、国難に直面して政治家や軍人たちが右往左往するという、政治コメディとして映画は進展する。つまり『日本のいちばん長い日』の手の込んだパロディである、とも解釈できるのだ。これは、多くの人が指摘してることで、その証拠に、ゴジラの存在を予言していた牧悟郎博士は、冒頭の場面ですでに入水してしまっているので、チラリと写真で登場するだけなのだが、それには岡本喜八の肖像が使われているのだ。

 岡本喜八は『日本のいちばん長い日』に投げつけられた批判に、映画でもって反論するかのように、その翌年、1968年(昭和43年)、『肉弾』を完成する。制作は大手制作会社ではなく、『ATG』(日本アート・シアター・ギルド)。岡本自身が自宅を抵当に入れ、岡本みね子夫人がプロデューサーとなって、制作費 1000 万円を集め、やっと映画を完成させた。
 同じ戦争映画でも、スターが大挙出演する『日本の …… 』とは違って、こちらは一人の特攻隊員の物語。と言っても、嗚呼、特攻隊 …… 、などと言うような、戦争センチメンタリズムに溺れた映画ではない。つげ義春の世界のように、シュールでコミカル。特攻とは云うものの、寺田農が乗り込むのは、人間魚雷『回転』を模したものなのだろうが、爆弾にドラム缶を括りつけただけの代物。それがぷかぷかと水に浮かんでます。日差しを避けるのに旅館か何かの番傘をさして。はなからギャグです。映画は、開始と同時に『明治百年記念芸術際参加作品』なんていう字幕が出ますが、もちろん、これも、ジョークですよね。大谷直子さんのデビュー作でもあります。

 『日本のいちばん長い日』と『肉弾』は、どうか、セットで見ていただきたい。どちらも DVDのレンタルで簡単に見ることができます。なお、公開から、すでに50年を経過しているからでしょうか、"Tou Tube"では、『肉弾』の全編を見ることができます。英語の字幕付いているので、アップしたのは、英語圏の人だと思います。ただし再生の際には、音量に注意してください。急に大きな音がでます。



 あー、映画の話をするほうが、楽しいわ。

 



  −−【その6】了−−  



   
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