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 『伊豫の海、島、そして城 ―― 岡田孝男水彩画廊』に 新作追加
  


    『山之辺古文書庵』最新アップ
     『味覚を問うは、 国賊!』―― 目次

     
八     伏魔殿女名主
     九     ご令息 ご在宅
    壱拾     味覚を問うは、国賊!  
   壱拾壱     さあ、これでもか。
   壱拾弐     憎悪のねじれ
   壱拾七     拡散する意識
   壱拾八     1962年のブラームス   



最新記事

駈けめぐる十六分音符  残された時間は短い。じっくりとモーツァルトを聴こう。その22 (2024/03/10)
 『ピアノ協奏曲 変ロ長調 K.450 (15番)』第一楽章の聴きくらべをしてみる。モダンピアノとフォルテピアノの演奏で。この楽章は、先に進むにしたがって、クラヴィーアの十六分音符が縦横無尽に音場を駈けめぐるようになる。フォルテピアノでは、十六分音符の飛翔が出現するたびに、あたかも螺旋階段を昇るように高揚感が昂まってゆく。モダンピアノでも十六分音符はたしかに飛翔している。だが、それは常に端正さを保持した水平飛行であり、次第に高揚してゆく上昇感覚が伴わないのだ。この差は、演奏家の解釈というよりも、楽器そのものの特質から来ているように思える。では、ツァハリアスの場合はどうか、彼はモダンピアノの演奏家なのだが …… 、  ( …… 本文を読んでみる)
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クリスティアン・ツァハリアスというピアニスト  残された時間は短い。じっくりとモーツァルトを聴こう。その21 (2024/01/27)
 ハイドンとモーツァルトが、新しいピアノ・フォルテの《美質》を生かして作曲に励んだ25年間が終わるか終わらないうちに、ベートーヴェンはピアノ・フォルテに《新機能》を求めた。1819年、彼はその第29番目のソナタを出版社に送りつけるに際し「今後私のソナタは、ピアノ・フォルテではなく、ハンマー・クラヴィーアのための、と標記するように」と指定した。ウィーンの巷では、ローゼンベルガー製フォルテピアノに見るように、打楽器を加えるなどして付加機能を盛り込む多様化が進行中であったが、ベートーヴェンは、ピアノ・フォルテの基本フレーム・ワークのバージョン・アップを求めた。それ以降、ピアノは、ベートーヴェンの要求したとおりの発展をする。だが、その見返りとして、ハイドンとモーツァルトが魅入られた《ピアノ・フォルテの美質》を喪失したのである。      ( …… 本文を読んでみる)
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いざ、ウィーンへ。新しい看板曲を! 残された時間は短い。じっくりとモーツァルトを聴こう。その20 (2023/11/02)
 1774年に創られた『デュルニッツ・ソナタ』はモーツァルトの看板曲であった。パリ遠征時にも彼はこの曲を携えてゆき、コンサートのプログラムに載せている。1783年、音楽家としての自立を目指したモーツァルトは、ウィーンでのプロモーションのために新曲を書こうと思いたつ。この時彼の念にあったのもこの曲であった。よし、あのような曲をもう一つ、というわけだ。さて『デュルニッツ・ソナタ』の中核は最終楽章の〈変奏曲〉である。新曲もその変奏曲から作曲を始めたはずである。主題に選んだのがシチリアーノ風の旋律。でもそれは〈変奏曲〉の主題に適しているとは思えない。だから曲は、作曲家の目論見からすこしずれたものとなる。それがそのまま『K.331 イ長調 』の第1楽章となるのだが …… 、                                        ( …… 本文を読んでみる)



トピックス (連載記事のご案内)



 残された時間は短い。じっくりとモーツァルトを聴こう。  (2021/11/22 start 進行中) → 『歌舞音曲』へ
 西洋古典音楽といえば、誰もが真っ先に思い浮かべるのはモーツァルトであろう。その音楽は他に比類がないほど耳に心地良い。だが多くの人々は、彼の音楽は《それ以上のもの》であることに気づいている。「死とはモーツァルトを聴けなくなることだ」という言葉が語り継がれるのはそのためだ。この箴言は死を定義するものではない。モーツァルトの音楽の本質を言い当てようとしたものだ。だが果たせず《死》を持ち出したところで中断し、それは《謎》のまま放り出された。幾多の碩学がこの謎に挑んできたが、雲の切れ目にその頂を垣間見たただけで断念している。つまり、誰にでもその《謎》に踏み込む権利は残されているのだ。


『コロナ・パンデミックから何を学ぶか?』  (2020/04/26 start 計12回) → 『市民社会』へ
 行き倒れて亡くなった人や孤独死した人の死因を調べたら、新型コロナウイルスの感染者だった。この約1ヶ月全国で15人。( 4月23日の報道) じりじりとただ耐えているあいだに、コロナ・ウィルス (COVID-19) によるパンデミックは、ここまで進行してしまった。ソナタ形式ならば「展開部」に、日本の舞楽風に云うなら序破急の「破」の段階に突入している。このまま進めば、ある時点で感染は一気に拡大するだろう。新型肺炎発生が伝えられた初期の頃から抱いていた生活者としての不安が、ここに来てなまなましい現実となった。だが依然としてお上は、手を洗え、とか、蜜を避けよ、といった、当初からの啓蒙的合い言葉以上のなにものをも示していない。我が身を守るために、私たちはどのように行動すればよいのか。
 


 『カルロス・ゴーン vs 東京地検』 ― あぶり出される日本の法治国家水準 (2020/01/26 start 計7回) → 『市民社会』へ
 2019年の年末、カルロス・ゴーン氏は日本から脱出した。それが「不法な密出国」であったことから、これで自分の罪を認めたようなものだ、もし自分が無罪であるなら裁判で堂々と闘えば良かったはずだ、といった風な「常識的で分かりやすい憤懣感」が日本を覆い尽くした。法務大臣までもが「潔白を立証すべきである」と推定無罪の原則をぶち壊してみせた。だが、ゴーン氏は一体どのような容疑で逮捕されたのか? この刑事事件の本質に関しては、ほとんど議論されることがない。そこで、2018年11月のゴーン氏逮捕までさかのぼって検察の言う容疑内容を確かめてみた。すると明らかになってくるのはゴーン氏の容疑ではなかった。逆に、 日本の司法制度の水準が炙り出されてくる。


 関西電力 3.2億円収賄汚職 (2019/10/01 start 計4回) → 『市民社会』へ
 2019年9月末、メディアは一斉に『関西電力 3.2億円収賄汚職』を報じた。我が家も関電から電力を買っている。私も激怒して一本の記事を書いた。だが、書き終えたとたん、一つの疑問が湧いて出た。「なぜ、今、関電なのか?」 金沢国税局や関電社内の調査が行われたのは1年以上も前のこと、某氏の告発文が出たのも3月のことであった。10月4日の臨時国会招集というタイミングからみて、こう考えざるをえない。関電疑惑は、真剣に議論すべき課題から国民の関心をそらすためのリークではないのか、と。冷静になろう。今論ずべき最重要課題とは何か? フクシマ汚染水の海中放出案、消費税増税、対韓経済戦争の終結、対米自由貿易協定、などではなかったか。


 もうオリンピックなんか、止めてしまえ。 (H.30/08/28 start 計18回) → 『市民社会』へ
 五輪の東京招致が決定したとき、安倍や猪瀬のはしゃぎようは異様なほどだった。そこには、五輪後に必ず襲来する経済停滞を憂慮する気配など微塵も感じられなかった。案の定、予算消費の実績は計画より「一桁多い」ことが明らかになってきた。今の政治家や官僚たちは、計画の立案や予算の管理などの「実務能力」を完全に喪失しているのである。巨大化指向の新競技場は、歴史的景観を破壊し、子々孫々に負担を強いるホワイト・エレファント(無用の長物)となるという警告にも耳を貸さない。候補選手のサイボーグ的育成は、依然として旧態依然たる「体育会的体質」でもって行われている。今、世界的な奔流となっているパワハラ告発は、日本においては、ほとんどの組織体において支配的である「体育会的体質」への本質的批判であるにもかかわらず。


『教育勅語なぜ悪い?論』は なぜ悪い? (H.29/04/07 start 計9回) → 『政治・経済』へ 
 このところ、群雲が湧くように『教育勅語なぜ悪い?論』が頭をもたげてきている。では、どういう理由で教育勅語を肯定的に評価するのか、と問えば、例外なく、親孝行とか夫婦愛だとかのとても大切なモラルが説かれているから、という答えが帰ってくる。確かに勅語には、父母ニ孝ニ、とか、夫婦相和シ、とかの文言があるが、その倫理性で幸せな家庭を築きなさい、などとは何処にも書かれていない。緊急時には天皇の国家のために死ね、それが臣民の勤めである(一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ)、というのが勅語の中心理念である。十一項目列挙されている徳目は(十二ではない、念のため)、その臣民になるための前提条件として提示されているのだ。誤読の余地など無いはずであるが ……  


 ヘイト発言 : 人間の倫理性に対する攻撃 (H.29/03/10 start 計15回) → 『政治・経済』へ 
 安倍晋三にとって森友学園問題とは、国有地払い下げの問題でしかないようである。安倍が執拗に繰り返すのは、この常識外れのディスカウントにオレは関わっていない、という、くどくどしい言い訳だけである。だが、待てよ。確かにこの土地払い下げ価格には驚かされたが、我々が暗澹たる気分にさせられたのは、もっと別の問題であった。塚本幼稚園の異様な運営のされ方、園児や保護者に対する常識外れの対応、意見を述べる保護者に対する執拗な攻撃、偏執狂的なヘイト文書のまき散らし。その運営者が、実は、安倍晋三・昭恵夫妻の信奉者である、という事実。そして、後になってから必死で否定しようとしているが、安倍夫妻は籠池夫妻の思想的同行者であるという事実。野党もジャーナリズムもこの問題を忘れていないか?


 『改憲論』と『改憲論者』の徹底的批判 (H.28/08/10 start 計14回) → 『政治・経済』へ
 改憲論は昔からあった。その中身は今もさほど変わりはない。批判するにもあたらない愚論・俗論である。中位の知的能力を持った平均的な日本人なら誰でも、たやすくその正体を見通すことが出来る。だからと言って、昔ながらの護憲論を対置しておけば済む、というものではない。改憲論は真の狙いを隠し持っている。いま取り組まねばならぬ政治的課題は困難なものばかりだ。それを提示するだけで、政府・与党は国民の支持を失うだろう。現実の困難点からは隔絶された地点に、偽りの論争点を作りだし、大衆を煽り立て、興奮状態の中でAかBかの二者択一を迫ろうではないか。 …… つまり『愚者の狂躁』に追い込もうとしているのである。


 誠に僭越ながら『サウンド・オブ・ミュージック』を論じてみる  (H.28/05/22 start 計5回) → 『歌舞音曲』へ
 日本には、ミュージカル映画を正当に評価しない、という奇妙な伝統がある。映画の批評家たちが音曲の嗜みを持たないこと、口を挟む音楽評論家がクラシックもしくはモダン・ジャズ畑の人であること、がその理由である。『サウンド・オブ・ミュージック』は、人気を得た曲目の多さと、老若男女を問わずそれらが愛聴・愛唱されている、という点において群を抜く名作である。しかしまともに論評されないこと甚だしい。そこで、半世紀以上のクラシック音楽愛好家である私が、誠に僭越ながら、多少の解析を試みる。



 原発推進論 ーー 不勉強を傲慢さで補う屁理屈 (H.28/03/22 start 計6回) → 『政治・経済』へ
 原発は発電コストが低い、なんて大嘘である。原発推進論の本当の狙いは「廃炉の先送り」にある。原始力村の構成員たちは、原発が耐用年限を迎えた今となって初めて、廃炉がどれだけ困難な課題であるか、に気づき始めた。原発は、稼働させた後に出てくる諸問題、つまり「廃棄物・汚染物の処理」と「停止・廃止の方法」に何の現実的な裏付けもないまま進めてきた事業だったのだ。そんなこと、いまさら言い出せるものか、責任をおしつけられるぞ、せめて自分の任期中はパンドラの箱を開けずにおこう。これがすべての原発推進論が隠し持つ根源的不安である。まさに亡国的陰謀。


 「 …… が分かりました」で分かること−−自滅するジャーナリズム (H.28/02/17 start 計3回) → 『市民社会』へ
 最近のテレビ・ニュースは、 …… であることが分かりました、という言い方を多用する。これは、ジャーナリズムが批判的精神を放棄して、正式に発表されたことをそのまま伝えるだけの立場に成り下がったことの正直な反映である。そのかわり、ちょっとした過ちを犯した有名人を次々と引っ捕らえ、寄って集って叩きまくる。日本国総務省公認の虐めショー、私刑(リンチ)の煽動、じゃないの、これ。


 なぜ「大石先生はただ泣くだけ」なのか? ---- 『二十四の瞳』の小解析 (H.28/01/15 start 計3回) → 『歌舞音曲』へ
 木下惠介はまぎれもなく日本映画の巨匠であるが、黒澤・小津・溝口・成瀬といった監督たちと比べると、論じられる機会が少ないように思える。彼の美質は、あらゆるイデオロギー的表現から自由であろうとする意志力と、過剰な情緒的表現を排して観客の想像力を信頼したことにある。代表作の『二十四の瞳』と戦時中軍部の検閲下で作られた『陸軍』を例に、それを読み解く。


『日本会議』の正体を暴く (H.27/11/25 start 計3回) → 『政治経済』へ
 あの戦争をわざわざ大東亜戦争と呼び変え、いつまで経っても太平洋戦争の敗戦を受け入れられない老人たちがいた。まあ良いではないか、無邪気なアナクロニズムに酔っているだけなのだ、と私は微笑みを返してきた。しかし現在の『日本会議』となると話は違ってくる。彼らのホームページを見てみよう。もうグロテスクとしか言いようがない。混濁した日本のイメージと、反日というレッテルによる仮想敵対者の捏造の飽くことなき反復で埋め尽くされている。思想性の一欠片さえ存在しない。しかるに、聞くところによると、国会議員のうち300名近くが『日本会議国会議員懇談会』に参加しているという。安倍内閣の閣僚に至っては大半が参加者らしい。


街のやかましさは人間性を崩壊させる  (H.27/11/05 計2回) → 『市民社会』へ
 大正の中頃、萩原朔太郎は、とほい空でぴすとるが鳴る、と書いた。大正の終わり、梶井基次郎は、寺町二条で檸檬を買いそれを『丸善』の書棚に置いて新京極を歩く。戦後すぐの昭和、道頓堀を歩く小林秀雄の精神にモーツァルトが鳴り響いた。思春期の頃、そんな文芸の世界に憧れて、京都や大阪の街を歩いた。半世紀たった今でも、その頃の心を思い出したくて、時々は街に出かける。でも這々の体で逃げ帰ってくる。町が喧しすぎるのだ。


人件費を悪と考える経営 (H.27/10/17 start 計3回)  → 『政治・経済』へ
 会社の業績が思わしくなかった時、それを誰かの所為(せい)にする。経営コンサルタントが財務諸表を見てまず言うのは、御社は人件費比率が高いですね、の一言。直接的に生産や販売に役立ってないように見える部門が真っ先に標的にされる。何度もこんな経験をした。これは会社組織の悲しい性(さが)のようなものだと思ってきた。でも、まだ部分的な攻撃だった、牧歌的であった、とさえ感じる。「グローバル化社会」の現代では様相が一変した。「昨年対比の数値目標」をクリアすることだけが至上命令となり、人件費への無差別攻撃化が始まったのである。


安倍晋三が醸成する「日本」の概念 (H.27/10/07 start 計2回) → 『政治・経済』へ
 平成24年、街角に突如として、安倍晋三の顔と『日本を、取り戻す。』という文字が出現した。衆院選に向けてのポスターなのだから、掲げるべきは「政策を簡潔に述べた政治的スローガン」だったはずだ。これでは「日本が何物かに奪われた、という妄想を振りまくキャッチコピー」だろう。これを期に、自民党は保守の政策政党であることを止め、反日・ネガティヴ・キャンペーン専門の超低俗イデオローギ政党へと変節してゆく。
   
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